第5話 故人の気配
府中駅の喧騒を抜け、私たちは府中本町にある大きなボウリング場へとたどり着いた。
自動ドアを抜け、ピンの弾ける賑やかな音が響くフロアを歩きながらも、やはり彼は自分の右側に誰かを庇うようにして進んでいる。
その不自然な空白にいるのは、間違いなく『亡くなった人』なのだと、私は改めて確信した。
――『故人の気配』
心理学や精神医学の分野でそう呼ばれる現象がある。
大切な人を失った後、死別悲嘆の過程において、非常に多くの人が経験するものだ。
亡くなったはずの人の足音が聞こえたり、すぐ隣にいる気配をはっきりと感じたりする。
これは決してオカルトや幻覚の類ではない。心が強烈な喪失のショックから自分を守ろうとする、正常な防衛反応なのだ。
彼は今も、その正常な防衛反応の中で、亡くなった恋人の気配と共に生きている。
……私には、それは起こらなかった。
あの日、すべてが炎に包まれ、両親が焼け死んだ後。私の隣に両親の気配が寄り添ってくれたことなど、一度たりともなかった。
だから私には、彼の隣にいる気配がどんなものなのか、どんな気分でそれを守り続けているのか、想像と推測を重ねることしかできない。
もしかすると私は、彼のように大切な人の気配すら生み出せないほど……自分本位で、冷たい人間だったのだろうか。
喧騒に包まれた裏で、私は自嘲気味にそう思った。
私が思考の泥沼に沈みかけ、受付カウンターへと向かう道すがらも、やはり彼は自分の右側に誰かを庇うようにして進んでいる。
「いらっしゃいませ。本日は二名様でよろしいですか?」
カウンター越しに店員からそう尋ねられた瞬間、彼はビクッと肩を揺らした。
そして、まるで『もう一人いる』と言いかけて無理やり飲み込んだかのように、痛ましげに目を伏せる。
「……はい。二人です」
絞り出すように答える彼の立ち位置は、やはりカウンターの左端にひどく偏っていた。
彼自身の右側から、店員の正面にあたるスペース。そこには不自然なほどの空白がぽっかりと空いている。
貸し出し用のシューズを受け取る際も、彼はその見えない誰かのスペースを決して侵さないように、窮屈そうに左手だけで靴を受け取っていた。
指定されたレーンに移動し、私たちはそれぞれ専用のシューズに履き替えた。
彼がラックから選んだのは、くすんだ青色のボールだった。
レーンに立ち、彼は投球のための集中状態に入る。
周囲のピンが弾ける甲高い音も、楽しげな歓声も、今の彼には届いていないだろう。
ピンだけを真っ直ぐに見つめ、意識を研ぎ澄ませたその一瞬だけは、彼の右側にまとわりついていた『気配』すらも薄れていたはずだ。
彼が助走をつけ、ボールを放つ。
そのフォームは滑らかで、無駄な力が一切入っていない、とても綺麗なものだった。
彼はボーリングの素人には見えなかった、まるで百戦錬磨の……。
投球されたボールは、美しい軌道を描いてレーンの中心を滑り、心地よい破裂音を立てて全てのピンを弾き飛ばした。ストライクだ。
――残酷なのは、その直後だった。
ピンが砕け散る爽快な音に、彼の顔にほんの一瞬だけ、無邪気な達成感が浮かんだ。
彼はごく自然な動作で振り返り、笑顔のまま、誰もいないはずの自分の『右側』に向かって、右手を高く上げたのだ。
ストライクの喜びを分かち合うための、ハイタッチ。
だが、彼の手が温かな手のひらを打つことはなく、ただ空しく虚空を掻いただけだった。
ふらりと宙を泳いだ自分の右手に気づいた瞬間、彼の表情からスッと血の気が引いた。
極度の集中状態から現実へと引き戻された反動。自分が無意識に『もういない人』と喜びを分かち合おうとしてしまった事実。
あぁ、やっぱりここにはもう誰もいないのだという生々しい絶望を、彼はたった今、痛いほど味わわされているのだろう。
……なんて残酷な現象なのだろうか。
強烈な喪失から心を守るための防衛反応だというのに。
その幻の気配は、彼がふと純粋な喜びを感じた瞬間にこそ発動し、現実との落差で彼を幾度も絶望の底へと突き落とす。
守っているのか、痛めつけているのか、これではまるで分からない。
それは絶望という重力に引かれ、宙を掻いた彼の手が力なく下ろされそうになっている。
私は静かに歩み寄り、彼が頑なに守り続けていた『右側の空間』へと、躊躇いなく足を踏み入れた。
そして、下ろされかけた彼の右手に、自分の左手を勢いよく打ち付ける。
パァン、と。
弾けるような乾いた音が、レーンに響き渡る。
――プロの心理士であれば、これは絶対にやってはいけない禁忌だ。
クライアントが求めている『喪失した対象』の空間に他者が入り込み、その身代わりとして物理的・心理的な空白を埋めてしまうこと。
それは、失われたものを受け入れていくための正常な死別悲嘆のプロセスを著しく歪めてしまう。
クライアントは代役に対して強烈な依存……、転移を抱き、過去の幻影を仮託するようになる。
支援者側もまた、その重すぎる感情に呑み込まれる……、逆転移する危険性が極めて高い。
まさに、互いの精神を泥沼に引きずり込み、依存の共依存を生み出しかねない猛毒の劇薬なのだ。
本来ならば、自席に戻るのを待ち「今、彼女さんがいるように感じましたね」と安全な距離から現実を言語化してあげるのが、正しい支援の形である。
けれど、今の私は防護服を着た正しい心理士ではない。
他人の悪夢を喰らうだけの、ただの怪異だ。
驚きに目を見開いた彼を真っ直ぐに見つめ返し、私は合わせた手のひらから確かな体温を伝えながら、あえて淡々と告げた。
「ナイスストライク。……でも、残念ながら私は怪異なので、彼女さんの代わりにはなれませんよ」
冷酷なまでに現実を突きつける言葉。
けれど、絶望の虚空に沈みかけていた彼の右手は今、間違いなく私という『現実』の熱に繋ぎ止められていた。




