第4話 無意識の誘引
私は少しだけ歩幅を落とし、横を歩く彼を見上げて声をかけた。
「……たまには、身体でも動かしませんか?ボウリングなんてどうでしょう?」
ここ府中には、駅周辺だけでも色々なものが揃っている。時間を潰すための遊びには困らない。
それに、適度に身体を動かすことは、精神医学的にも理にかなっているのだ。
不安や抑うつで固まり、ネガティブな思考を繰り返す脳には、セロトニンという神経伝達物質が不足している。
歩行やボウリングのような一定のリズムを伴う運動は、そのセロトニンの分泌を促し、強制的に意識を『自分の内側』から『外部の動作』へと向けることで、負の連鎖を物理的に断ち切る効果がある。
私の突然の提案に、彼は戸惑ったように立ち止まった。
「だが……」
言葉を濁し、彼はまたしても、誰もいないはずの『自分の右側』へ視線を落とした。
その横顔を見て、私は彼の抱えている『抵抗感』の正体に気がついた。
彼はただ出かけるのが億劫なわけじゃない。
彼にとって、見知らぬ少女である私と一緒にボウリングなどの『遊び』へ行くことは、今も右側に感じている『亡くなった人』への裏切り――つまり、浮気のような強い罪悪感を引き起こしているのだ。
この人は、根本的にとても誠実なのだと思う。
誠実でなければ、あんなにも自分を痛めつけるような悪夢に悩み、幻の気配に対してここまで操を立てたりはしない。
同時に、彼の根底にあるドロドロとした感情の正体についても思考を巡らせる。
もしかして過去に、魔が差して浮気をしてしまったような、取り返しのつかない裏切りがあったのだろうか。
普段が誠実すぎる人間ほど、たった一度の過ちが許せず、自らを永遠の地獄に繋ぎ止めてしまうものだ。
だからこそ、今ここで私と楽しむことすら「また裏切ってしまう」という新たな罰の対象になっている。
私は、立ち止まった彼の前に回り込み、その怯えた瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「気にすることはありません」
真夏の空の下、漆黒の喪服を揺らして、私は静かに告げた。
「今日は、怪異と一緒に歩く不思議な一日です。相手が人間の女の子ならともかく、悪夢を食べにきた都市伝説相手に、浮気の心配なんてしなくていいんですから」
私が大真面目にそう言い切ると、彼はポカンと目を丸くした。
やがて、数ヶ月間、絶望以外の感情を忘れていたであろう彼の口から、ポロリと小さな音がこぼれ落ちる。
「……っ、ふふ」
それは、ひどく自嘲気味で、不器用な笑い声だった。
張り詰めていた緊張の糸が、ほんの少しだけ緩んだのがわかる。
「……怪異とボウリング、ですか。……随分と、おかしな話だ」
彼はそう言って、もう一度だけ無意識に『右側』へ視線を落とすと、今度はふうっと深く長く息を吐き出した。
そして、憑き物が少しだけ落ちたような顔で、私に向かって頷く。
「……分かりました。行きましょうか」
極度の緊張で固まっていた彼の心が、私という『怪異』の言い訳を受け入れ、初めてほんの少しだけ前に進んだ瞬間だった。




