第2話 喪服の都市伝説
カラン、と再び乾いたベルの音が鳴った。
入り口のドアが開き、強い日差しと一緒に、ひとりの青年が店内に入ってくる。
私は、水の入ったグラスの水滴から視線を上げ、静かに彼を観察した。
年齢は二十代半ばといったところだろうか。しかし、その立ち姿は年齢以上にひどく老け込んで見えた。
その姿に私は確信した、彼こそが依頼者なのだと。
ボサボサに伸びた髪の下、彼の両目には、濃く、どす黒い隈が張り付いている。
頬は不健康にこけ、着ている夏物のシャツはアイロンがけもされておらず、やせ細った身体に対して不自然なほどダボついていた。
毎晩、顔のない恋人に追い詰められる悪夢。
睡眠も、食事も、生活のすべてが『あの日』から完全に削り取られているのが、一目見ただけでわかる。
彼は落ち着かない様子で、ひどく怯えたような視線を店内に彷徨わせた。
やがて、一番奥の席に座る私――真夏に漆黒の喪服を着ている異物を見つけると、ハッと息を呑み、こちらへ向かって歩き出す。
カフェの通路は決して広くない。
真っ直ぐ歩いて来ればいいものを、彼はなぜか、自分の右側の空間を不自然なほどぽっかりと空け、左側のテーブルに身体をぶつけそうになりながら進んでくるのだ。
まるで、自分の右側に『見えない誰か』が歩いているのを、庇うように。
……紙切れに書かれた情報だけではわからない、生きた人間の無意識の行動。
彼の右側の空間には、かつて誰がいたのだろうか。
夢に出てくるという『亡くなった人』だろうか。
今はまだ、確証はない。
けれど、あんなにも不自然に空間を空けてしまうほどの強い執着が、彼をあの悪夢に縛り付けていることは間違いない。
これから始まる対話で、あの『右側の空白』の正体を解き明かす必要があるのだろう。
――やがて、私の目の前で立ち止まった彼は、ハッと息を呑んだ。
その怯えたような視線は私の顔ではなく、テーブルの上に置かれた『悪夢が書かれたメモ』に釘付けになっている。
自分が書いた絶望。それが現実の形をとって目の前にあることに、ひどく動揺しているのがわかった。
私も、ギアを変えなければ。
ただの傷ついた十六歳の少女から、他人の精神に潜り込むための『喪服の都市伝説』に。
グラスを手に取り、お冷を一口だけ含む。
喉を落ちていく冷気が、私の中にある微かな震えを鎮めてくれた。
一度静かに目を閉じて、意識を完全に切り替える。
再び目を開け、私は彼に向けて小さく手で席を示した。
「……どうぞ」
私の声に弾かれたように、彼はビクッと肩を揺らし、恐る恐る向かいの席に腰を下ろした。
「こんにちは」
私が静かに告げると、彼は引きつった顔で曖昧に頷き、額に滲んだ脂汗をハンカチで乱暴に拭った。
極度の緊張と恐怖。心拍数が上がり、呼吸が浅くなっているのが見て取れる。
このままでは、まともな対話にならない。
私は、少しだけ声のトーンを落として言った。
「まずは、なにか冷たいものでも飲みましょうか」
「ご注文はお決まりでしょうか」
私の言葉とほぼ同時に、タイミングを見計らったように店員さんがテーブルに近づいてきた。
私は、わざと少しだけ声のトーンを上げて、日常の空気を装う。
「抹茶ティーのアイスをお願いします」
そして、相変わらずハンカチを握りしめて硬直している彼に視線を戻した。
「まずは落ち着いて、冷たいものを飲みましょうか」
なるべく柔らかく、彼を刺激しないように声をかける。
彼はハッと我に返ったように頷き、ひどく掠れた声で店員さんに告げた。
「あ、えっと……アイスコーヒーで」
店員さんが去ると、テーブルに再び重たい無言の時間が降り積もる。
彼は落ち着かない様子で、何度も視線を彷徨わせていた。
目の前に得体の知れない都市伝説が座っているから、怯えているのだろうか。
……あるいは、もっと別の何かから逃れようとしているのか。
そうやって思考を巡らせているうちに、思いのほか素早くふたつのグラスが運ばれてきた。
カラリ、と氷の涼しげな音が鳴る。
私たちは示し合わせたかのように同時にグラスへ手を伸ばし、身の内にこもった熱を急いで取り除くかのように、冷たい飲み物を喉へと流し込んだ。




