5話
翌朝、セレステは自分の顔が少しだけ違うことに気づいた。
鏡の中の自分は、いつもと同じ銀髪、同じ吊り上がった瞳。けれど——何かが柔らかい。
侍女のリゼットが支度をしながら、不思議そうに首を傾げた。
「セレステ様、今日はお顔の色がよろしいですね」
「……そう? いつもと同じよ」
そう答えながら、昨夜の薔薇園を思い出す。
手のひらに残った温もり。「次の月夜に」という声。
——駄目。考えるのは、夜だけ。
セレステは表情を引き締めて、鏡から目を逸らした。
*
学園に着くと、いつもと違う空気が流れていた。
廊下を歩く生徒達が、ひそひそと何かを話している。セレステが通ると声を潜めるのはいつものことだが、今日はセレステではなく別の話題のようだった。
「——月夜の怪盗が、またやったらしいわよ」
「今度はどこ?」
「ベルモント伯爵家ですって。警備を増やしていたのに、誰にも見つからずに盗んでいったって」
セレステの足が、一瞬だけ止まった。
——月夜の怪盗。
昨夜は確かに、月が出ていた。あの人と踊った夜。
まさか、あの後に——?
「怖いわよね。でも、盗まれたのは元々ベルモント家が不正に手に入れた宝石だって噂もあるの」
「じゃあ、義賊みたいなもの?」
「さあ……でも、ちょっといい気味よね。私あそこの当主様あんまり好きじゃなかったのよね」
「あ、それちょっとわかるわ。夜会とかで会うと舐め回すようにじろじろ見てくるのよね」
令嬢達がきゃあきゃあと騒いでいる。
セレステは何事もなかったように歩き出した。胸の奥が、少しだけざわついていた。
*
特別クラスの講義が始まる。
今日の席順では、アルバートは教室の反対側にいた。セレステとは目が合うこともない距離。
講義の途中、教師が生徒を指名して歴史の問いを投げかけた。
「では、セレステ嬢。ヴァルディア建国期における三公爵家の役割について」
セレステは淀みなく答えた。教師が満足そうに頷く。
その直後、後ろの席から小さな声が聞こえた。
「……完璧すぎて気味が悪い」
笑い声が続く。セレステは聞こえなかったふりをした。
——慣れている。こんなことには。
ふと、教室の反対側から視線を感じた気がした。
振り向かなかった。振り向く理由がない。
*
昼休み。
食堂へ向かう途中、廊下の角を曲がると——目の前にアイリーンがいた。
取り巻きの令嬢が二人。アイリーンはセレステを見ると、わざとらしく身を竦めた。
「きゃっ……セレステ様……」
「……」
セレステは無言で横を通り過ぎようとした。
「ねえ、聞いた? セレステ様、昨日ユース様に酷いことを言ったんですって」
取り巻きの一人が、聞こえるように言う。
「嘘でしょう? 婚約者なのに?」
「だから氷の令嬢って言われるのよ」
アイリーンが困ったように眉を下げて見せる。
「私、セレステ様に嫌われているみたいで……何もしていないのに……」
目に涙を溜めている。
周囲の生徒達が足を止めて、こちらを見ていた。
——また、これ。
セレステは足を止めず、真っ直ぐ前を向いて歩いた。言い返しても無駄だと知っている。弁解すればするほど、「冷たい」「怖い」という印象が強まるだけ。
食堂に入り、いつもの隅の席に座る。一人分の食事を前にして、静かにフォークを取った。
——別に、一人で構わない。
窓の外を見ると、空は曇っていた。今夜も月は出ないだろう。
その時、食堂の入口が少しざわついた。アルバートが数人の令息と一緒に入ってきたらしい。
「殿下、こちらの席をどうぞ」
「ありがとう」
穏やかな声が、食堂の喧騒の中でも不思議と耳に届いた。
セレステは視線を上げなかった。上げる理由がない。
けれど——あの声を聞くと、廊下で助けられた日のことを思い出す。
——偶然だったのよ、あれは。
フォークを動かしながら、窓の外の曇り空を見つめた。
月のない夜が続いている。
*
放課後。
セレステが教室を出ようとした時、机の上に一冊の本が置かれていることに気づいた。
自分の本ではない。表紙には『ヴァルディア星図鑑』と書かれている。
中を開くと、月の満ち欠けの暦が載っていた。次の満月まであと四日。
——誰が置いたのかしら。
教室を見回したが、もう誰もいなかった。
セレステは少し迷ってから、その本をそっと鞄にしまった。
*
夜。窓辺に座って、星図鑑を開く。
月の暦を指でなぞる。あと四日。四日後には、月が出る。
——あの人に、会えるかもしれない。
ブローチを取り出して、月の光のない窓辺で手のひらに乗せた。
銀は今夜、光らない。けれど確かに、ここにある。
「……四日」
小さく呟いて、本を閉じた。
頬が少しだけ緩んでいることに、セレステ自身は気づいていなかった。
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