3話
夜会から数日が経った。
あの夜のことを、セレステは誰にも話していない。
引き出しの奥にしまった銀の月のブローチ。時折そっと取り出しては、手のひらに乗せる。冷たい銀の感触に触れると、あの夜の温かさが指先に蘇った。
——あれは、夢だったのかしら。
けれど、ブローチは確かにここにある。
セレステはそれをそっと引き出しに戻して、いつも通りの顔を作った。
*
特別クラスの教室に入ると、いつもと少し空気が違った。
普段は静かな教室が、どこかざわついている。
「今日、特別クラスに編入生が来るそうですよ。しかも——」
隣の席の令嬢が珍しく声をかけてきた。といっても、セレステに用があるわけではないらしい。噂を誰かに話したいだけだ。
その先を言い終わる前に、教室の扉が開いた。
「本日より特別クラスに編入される、アルバート殿下です」
教師の紹介と共に、一人の青年が教室に入ってきた。
黒い髪。穏やかな微笑み。柔らかい物腰。
第二王子アルバート——名前は知っていたが、直接見るのは初めてだった。
教室中の視線が彼に集まる。令嬢達は頬を染め、令息達は姿勢を正した。
「皆さん、よろしくお願いします」
にこりと笑った顔は、人当たりが良く、嫌味がない。
セレステはちらりと見ただけで、すぐに視線を窓の外へ戻した。
——王族が特別クラスに来るのは、珍しいことではないわ。
席順の都合で、アルバートはセレステから少し離れた席に座った。
休み時間になると、すぐに人が集まる。
「殿下、お昼はご一緒しませんか」
「殿下、この後の講義の資料をお持ちしましょうか」
アルバートは誰にでも同じ柔らかい笑顔で応じている。
セレステはいつも通り、一人で窓際の席に座っていた。
*
昼休み。
食堂へ向かう廊下で、セレステはふと足を止めた。
前方に、ユースとアイリーンが並んで歩いている。アイリーンがユースの腕に身を寄せて、何か楽しそうに話していた。
——別に、構わないけれど。
視線を逸らして通り過ぎようとした時、アイリーンがこちらに気づいた。
「あ……」
わざとらしくユースの腕にしがみつき、怯えたような顔を作る。
「ユース様、セレステ様が睨んでいらっしゃいます……」
「……セレステ、いい加減にしろ」
ユースが振り返って低い声を出す。周囲の生徒達が足を止めて、こちらを見ていた。
「私は何もしていませんが」
「その目つきが怖いと言っているんだ。少しは——」
「どうしました?」
不意に、穏やかな声が割って入った。
振り向くと、アルバートが数人の取り巻きと共に廊下を歩いてきたところだった。ただ通りかかっただけのように見える。
ユースが慌てて姿勢を正す。アイリーンもさっとユースの腕から手を離した。
「殿下……いえ、何もありません」
「そうですか」
アルバートはユースに軽く会釈すると、そのまま何事もなかったかのように通り過ぎていった。セレステの方を見ることもなく。
けれど——それだけで、場の空気が変わった。
ユースはそれ以上何も言わず、アイリーンを連れて去っていく。
周囲の生徒達も、何事もなかったように歩き出した。
セレステは一人、廊下に残された。
——今のは、偶然かしら。
考えても仕方がない。セレステは何事もなかったように食堂へ向かった。
*
夜。自室の窓辺に座って、空を見上げる。
今日は月が出ていない。
引き出しから銀のブローチを取り出して、手のひらに乗せた。
月の光がなくても、銀はほんのりと光って見える。
——あの人は、月が出ない夜はどこにいるのかしら。
ふと、昼間のことを思い出す。
廊下で一瞬だけ聞こえた、あの穏やかな声。
「……気のせいよね」
誰に言うでもなく呟いて、ブローチをそっと引き出しに戻した。
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