2話
数日後の夜。
セレステは鏡の前に立っていた。
今夜はボルジア家で催される舞踏会。公爵家の令嬢として出席しないわけにはいかない。
冬の夜空のような深い色のドレスは、重くならないようにレースが上手く組み合わせてあり、セレステの白い肌と凛とした顔を引き立たせる。けれど同時に、冷たさも感じさせた。
「行きましょう……」
*
ボルジア家の会場には、すでに大勢の貴族が集まっていた。
父と一緒に数人に挨拶をした後、父とは離れて窓際へ向かおうとした時だった。
「セレステ」
振り向くと、ユースが立っていた。珍しい。最近は自分から近づいてくることなど殆どなかったのに。
「一応、婚約者なのだから。一曲目くらいは俺がエスコートする」
断る理由もない。セレステは黙って頷いた。
ユースの手を取り、ホールの中央へ出る。周囲の視線が集まるのが分かった。氷の令嬢と、その婚約者。どんな顔で見ているのだろう。
曲が始まる。ステップは正確で、ユースのリードも悪くはない。
けれど——ただ、それだけだった。
形だけの笑顔。形だけの距離。手を取り合っているのに、何も伝わってこない。
曲の途中、ユースの視線がふと会場の隅へ流れた。
その先に、アイリーンがこちらを見ているのが分かった。
——ああ、そういうこと。
一曲が終わると、ユースはすぐにセレステの手を離した。
「……では、失礼する」
「ええ。ありがとうございました」
去っていくユースの背中を見送ることもせず、セレステは窓際へ向かった。
いつもの場所。いつもの過ごし方。誰にも誘われず、誰にも話しかけられない時間。
「……誘われないのも気を遣わないから、良いわね」
暫くホールを眺めていたが、今日は外の空気を吸いたくなって、気づくと庭に出ていた。
少しだけ会場から離れると、微かに音楽が聞こえてくるだけで、人のざわめきは届かなくなる。
庭の奥にある噴水まで来ると、まるで一人の世界になったようだった。
セレステは噴水の縁に腰をかけて、水面に映る月をそっと指先で撫でてみる。
触れた途端に月が揺れて、砕けて、また静かに戻る。
——掴めない。
暫くそうしていると、不意に声をかけられた。
「月は取れましたか?」
声の方を見ると、茂みの向こうから仮面を付けた黒髪の男が現れた。
白い仮面。黒いマント。見知らぬ男。
なのに——不思議と、警戒心が湧かなかった。
「いいえ、月は遠すぎて掴めませんでした」
いつもなら、こんな答えは返さないだろうと、自分でも思った。
「いつかきっと、貴女の為の月が手に入りますよ」
そんな事を言われるとは思っていなかった。
セレステは男をじっと見つめる。屋敷の方から、微かにワルツの旋律が流れてきた。
「一曲、お願いできますか」
男が手を差し出した。
セレステは——無意識に、その手に自分の手を重ねていた。
「……はい」
二人は踊り出す。
セレステのドレスがふわりと舞い、月明かりが銀の髪を照らして輝かせる。男のマントが翻る。
初めて会ったはずなのに、二人の呼吸はそれが当然であるかのように合っていた。
「貴方は月のようね。突然現れたのに、ずっと前からそこにいたような気がするわ」
男がフッと笑みを浮かべた。仮面越しでも分かるほど、口元が優しく緩んでいる。
セレステをくるりとターンさせて、また引き寄せる。
「今日、貴女の微笑みが見れるとは思わなかった」
——言われて初めて気がついた。私の顔は、微笑んでいたらしい。
白い仮面の奥の瞳を覗き込もうと顔を上げると、男もまた真っ直ぐこちらを見つめていた。
月の光の中で、会ったばかりの仮面の男とワルツを踊っている。
不思議でたまらなく、現実を忘れさせていく。
このまま、この時間をずっと過ごしていたい。
誰かと話して心地いいと、初めて楽しいと——そう思った。
曲が終わった時、お互い手を離せなくなっていた。
「また、月夜にワルツを踊りましょう」
男がセレステの手にそっと口付けを落とした。
それから、セレステの髪飾りを一つ取ると、代わりに自分の胸元から銀の月のブローチを外して、セレステの髪にそっと飾った。
「今日の出会いに」
「……ええ」
男が去っていく姿を見送る。
セレステの頬は、ほんのりと赤くなっていた。
髪に触れると、冷たい銀の感触がある。
月のブローチ。今夜の証。
——夢ではない、と思いたかった。
*
セレステと別れた男は、先ほどとは違う屋敷の屋根の上にいた。
「悪役令嬢ね。誰が言い出したんだか——悪役どころか、あれは月の女神セレーネだろう」
彼女の姿を思い浮かべる。
水面の月をそっと撫でていた、あの横顔。
「『月は取れましたか』……なんて、自分に向けて言った言葉だったのかもな」
面白そうにクスッと笑うと、マントを一つ靡かせて夜の街へ消えていった。
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