7話 マネキン男
あれから中間プレゼンをして、製作の段階に入った。透子ちゃんは相変わらずメッセージを見てくれてないようで、一向に既読はつかないままだ。
でもそれでいいと思った。次は出来上がったものを見せればいい。僕は僕の時間を過ごしてるって知れば、透子ちゃんはいつか僕を認めてくれるはず。透子ちゃんには透子ちゃんの世界があって、僕には僕の世界がある。僕らの関係は、その前提の上に成り立たなきゃならないって──透子ちゃんはずっと、そう僕に伝えたかったんじゃないかな。
きっとこれを積み重ねれば、関係は修復する。また前みたいに、お互いの家に行き来したり、遊んだり……楽しく過ごせるはず。僕は自分の製作が進むほど、そう確信した。
ようやく分かってきた。僕らの関係は”変わった”んじゃなくて、”変えられた”んだ。子供の頃は誰も気にしなかった僕らの距離も、大人になるにつれて周りが名前のつく関係性に当てはめ始めた。その常識に僕らまで引きずられたから、今こうしてこじれてるんだ。
名前や定義が付けられたって、僕らが一緒にいる事実が変わらなきゃいい。というか、多分変わらない。変わらないでいるために挟まなきゃいけない手続きがあったとしても、それは済ませるだけ済ませればいい話だ。……そう思うのは強情だって思ってたけど、お互いの関係は他人が決めることじゃない。本当は透子ちゃんだって分かってる。だって、ずっと一緒にいた僕には分かる。
透子ちゃんは、どんなにそっけなくても──いつも心の奥では僕を必要としてるから。
つまらなかった講義、義務的だった製作やバイト、他人とのやり取り。全てが鮮やかに感じた。透子ちゃんが世界に色を作って塗ってくれたみたい。雨上がりの晴れ間から虹が覗いて、なんとなく気持ちが上向くみたいな、爽やかな感覚。僕が同じコマを取ってる人と会話してるのを見て、テラシマは呆気に取られてた。相変わらずカフェで同席するのはテラシマぐらいだけど、それでも僕はだいぶ変わって見えたらしい。
ある日の夕方、初めてテラシマがバイト先にやって来た。慣れたやり取りで話す僕たちを見たササキさんがちょっと驚きながら挨拶を交わして、奥へと消えていく。最近は長く立っているのが辛いのか、必要な時以外は奥の休憩スペースで座ってる。せっかくバイトを雇ったんだし、そうした方がいいですよって僕からも言ったっけ。
「コーヒー。詳しくねぇから適当なやつ」
「ブラックは飲める?」
「まあ、一応な」
僕は浅煎りの粗挽き豆を低めの温度で抽出した。酸味が苦手って言う人もいるけど、コーヒーを常飲してないなら無難かな、と。こうした選択が出来るのも、ササキさんの教えの賜物だ。
「僕がここでバイトしてるってよく知ってたね」
「──……まあな。オレこう見えて顔利くからさ」
「確かに、テラシマって色んな人と昔からの友達みたいに話してるよね」
コーヒーを出すとテラシマは肩を竦めて一口啜り、ミルクと砂糖をひとつずつ追加した。テラシマは初めて喋った時からずっとこんな感じだ。僕ですら長年の付き合いかと錯覚するような、自然体。決して目立つわけじゃないけど、記憶の片隅にひっそりと佇んでる感じ。
テラシマは相変わらずパソコンケースを持ち歩いてたけど、中身を出そうとはしなかった。カウンターに座って手持ち無沙汰にコーヒーを口にしながら店内を見回したり、窓の外を振り返って眺めたり……珍しく落ち着かない様子だった。
僕はそんな彼にどう話しかけようか思案していた。少し前に相談があると言った時はすんなりと言葉が出てきたのに、こういう時には上手く会話を切り出せない。大抵は相手から何か話を振ってくるので、僕はそれに受け応えする形で会話が進む。その弊害かもしれない。──そうこうしているうちに、テラシマが口を開いた。
「……最近、お前調子良さそうだよな」
「──え」
唐突な切り出し方に僕は戸惑った。思わずまじまじとテラシマを見下ろすと、何を考えてるか読めない瞳が返される。おかげで何て答えたらいいのか、妥当な言葉がすぐに浮かばなかった。
「…………うん、まあ……その、なんていうか、自分の中でちょっとしたインスピレーションが浮かんだっていうか」
「ああ、課題の?」
「それもだけど──人生の?」
「……人生のインスピレーション?」
僕の表現にテラシマは分かりやすく眉を顰めた。確かに、僕がテラシマだったとしてもそうなるだろう。言葉では上手く言い表せられない感覚って難しい。何なら、作品でも上手く表現出来る自信が無い。
「何て言ったらいいのか分かんないけど、まあ……柱が出来たって感じかな? 今まで考えすぎてたことに対して答えが出しやすくなるような」
「……へえ、そりゃ、……良かった。お前、なんかずっとうだうだ考え込んでたみたいだしな」
何とか言葉を捻り出すと、また肩を竦めるようにして小さく笑う。何だか、いつもと雰囲気が違う感じだった。空気のようでいてどっしりと地に足ついてるテラシマとは別人みたいな、雲に似た掴み所の無さ。思わず首が傾く。
「じゃあ、スッキリしたついでにカオリのメッセージグループにでも入るのか? お前最近人当たり良いみたいだしさ。心機一転、他人の輪の中ってのを経験してみるとか」
テラシマは、三分の一ほど飲んだコーヒーに砂糖を一杯追加した。視線を落とし、それを音もなくかき混ぜる。他に客は居ない。クラシックの古い音がやけに耳に響くぐらい、静かな空気がその場を満たしていた。
「……それはまた……別の話、というか。心境が変わったからって、別人にはなれないし」
「はは、確かに。──じゃあ、お前の根っこは変わってないってわけか」
「──……あのさ、これ、どういう会話?」
いつもの世間話とは違う。テラシマはそういうのが上手いから、逆に不自然すぎて不思議だった。何だか尋問を受けてるような錯覚すら感じて思わず会話の流れを断ち切ると、テラシマはまた小さく肩を揺らした。
「いやさ、急にお前が変わり者に見えなくなったから、何かに取り憑かれたのかと思って確かめに来たんだ。あんま気にすんなよ。……単なる世間話じゃん」
「……そうは思わなかったけど」
「ならそれは、ここが大学じゃないからじゃね?」
冗談めかして言うテラシマに僕は思わず唸った。もしかしてテラシマは、世間話を取り繕うのが下手なのか? 眉間に力が篭ったけど、そんな僕の表情はしれっと一掃された。
「大学に心霊スポットなんかあったっけって探すとこだった」
「……だから取り憑かれてないって」
「分かってるよ。いるわけないだろ、幽霊なんて」
そう言って笑った顔は、いつも通りのテラシマに戻っていた。笑いのツボがイマイチ分からないけど、とにかく楽しそうだ。
「それにお前、たとえ幽霊がいたとしても気付かなそうだしな」
結局その後、課題についてとかの取りとめもないやりとりをして、テラシマはコーヒー一杯分の時間を楽しんで帰っていった。カウンターを片付けていると奥からササキさんが顔を出して、洗い物を手伝ってくれる。僕がやるから大丈夫って言ったけど、ササキさんは楽しそうに笑って首を横に振った。
「彩君、本当に大学生だったのねぇ」
僕があんまり課題とかの話をしないんで、ササキさんはどうやら疑っていたらしい。それが意外だったんで「嘘なんかつきません」と返したら、今度は笑い声を漏らしていた。
ホームセンターで木材を選び、殺風景な土台に自然の欠片を取り付けていく。しっくりくるまで削ってはやり直すことを繰り返す。プレゼンボードに描いた僕の額縁は、実物にしようとするほど陳腐に見えて、イメージを練り直す。今じゃあのボードの存在意義に疑問を抱くほどになってしまったけど、楽しかった。形にしようとして没にした部品は、恥ずかしい気もするけど引き出しの中に取っておいてある。不要になって捨てるのは木屑ぐらいなもので、それを掃除することすら心が弾んだ。
自信満々で透子ちゃんに送ったプレゼンボードの画像。自分で見返すのは気恥ずかしい気もする。でも、後悔はしてない。実物が出来てそれを見せた時の期待があったから。
色々考えたけど、離れようとする透子ちゃんを追いかけ続ける僕じゃダメだったんだ。待つことと、距離を取ること──これだって、無理にしようとするものじゃない。僕が僕のことに集中していれば、自然と生まれる時間と対処法だ。大体僕だって、何かに集中してる透子ちゃんが好きなわけで……僕みたいに誰かに追いすがる透子ちゃんなんか想像できない。
誰に頼まれた訳じゃないけど、僕はこの課題に課題以上の意味を見出していた。量産性とか実用性とか、プレゼンでもっともらしく述べたことなんか半ばどうでもよくなって、いつの間にか別の”何か”を作ろうとしていた。
他人事のように「完成が待ち遠しい」なんて思ったりして、生まれ変わったみたいに。部屋に篭るようになった僕に最初、母さんは心配そうに声を掛けてきた。でも僕が製作に熱中していると分かると、”あの時”みたいに嬉しそうに微笑んだ。
”あの時”──僕が透子ちゃんと初めて話した日。家まで送ってくれて、僕の靴が隠されてることを母さんに打ち明けてくれた日。……僕が、生まれ変わった日だ。
最後に添えるサボテンの赤い花は、次々に蕾を開いてる。僕らみたいに起きては眠って数日ほどで寿命を迎える花だけど、新しい蕾は生まれ続ける。夏場はバテ気味で控えめな時が多いけど、秋にパッと元気を取り戻してから枯れて、来年に備えるんだ。水やりは適切に続けてる。モデルには事欠かないだろう。
赤を筆に取る時、透子ちゃんを思い出した。正直透子ちゃんは赤ってイメージとは違うんだけど、鮮烈さは合ってると思う。特別緊張して、特別心臓が高鳴って、脳が踊るような瞬間。
深夜、スタンドライトだけが照らすコンクリートの壁と無垢床フローリングの部屋。デスクに置いたパソコンに一応映しておいたプレゼンボード。それとはちょっと違う出来になったけど、サボテンの花だけは変わらない。僕の部屋で、唯一鮮やかな色を放つもの。
「よし、これで……」
僕はとうとう額縁を持ち上げた。透子ちゃんの絵を収めるイメージで作ったけど、流石にあの大きさの絵をはめるには現実的じゃないから、ごく一般的なサイズだ。僕にしては珍しく、ごちゃごちゃと樹皮や木片を重ね合わせたような、角の合わないフレームだ。
樹皮をなぞり、端っこで控えめに色付く赤い花を撫でる。淡い暖色に照らされた陰影が今にも蠢きそうで、怖くて、神秘的な気がした。
充電していたスマホを取ってカメラを開き、壁に立てかけた額縁を画角に収める。直線がぴったりと合うように息を止め、そっとシャッターを押す。擬似的なシャッター音と共に、画面の中には時間の止まった映像が収められた。
「……一番に、見てもらいたい──」
メッセージアプリを開き、ゆっくりと一文字ずつ文字を打っていく。何度も消しては打ち直す作業は、まるで儀式みたいだった。思うことはいっぱいあった。──伝えたいことも。けどとにかく、最後まで残った思いはひとつだった。この作品を透子ちゃんに見て欲しいって、それだけだったんだ。
こんな感覚は初めてのことだった。いつもデザインなんて、講義の趣旨に沿っていればいいかなってぐらいだったから。余計なものは取り払って、無駄がなければ無難で、あとは利便性が重視されてればそれでいい。でも感情を乗せようとすると、こんなにも付属品だらけになるんだ。僕が作ったこれを見て、透子ちゃんは何て言うだろう? そもそも、返事をくれる保証なんかないんだけど。
僕は深呼吸をして、画像と一緒にメッセージを送った。メッセージは、”出来たよ、一番に見て欲しい”の一言だけ。あとのことは画像の中に託してあって、それが透子ちゃんにどう伝わるかは分からない。でもその不安すら、何だか心を落ち着けてくれる気がした。
次の日。相変わらず返事の通知が来なくても、前みたいに焦らなくなった。そのうち返事をくれるだろうって理由なく確信して、それを待つ時間が愛おしかった。そもそも透子ちゃんは公募で忙しい。秋を過ぎたら一段落ついて、そしたら余裕ができて、またいつもみたいに話せるようになる。その期待が原動力になって、教室の移動時間すら清々しい気分だった。
充実ってこういうことなのかな。例えやりたいことじゃなくても、やれることややるべき事をこなす生活。それと同等の位置に透子ちゃんがいるのは変わらないけど、周りにはたくさんの人がいる。
自惚れてる訳じゃないけど、何で僕はどこへ行ってもいろんな人に声かけられるんだろうって不思議だった。何の気なしに透子ちゃんにそれを言ったら、「アンタとつるむと”ウケ”がいいからじゃん?」って揶揄われた。でも僕はそれが妙に腑に落ちて、周りの人の行為が全部ハリボテだったって気づいた。──テラシマだけは唯一と言って良いほど自然体だから外れるけど、他は何だか笑ってるマネキンみたいに見えて……会話も上っ面な感じがして、笑っとけばいいや、みたいな。
でも、最初はみんな仮面を被ってるものだ。僕も仮面を持ってて、それを被ってるから相手も顔を隠す。探って、牽制して、面倒な掘り下げを突破した後仮面が外れて、ようやく本当に対面したことになる。その面倒な手続きも、やってみるものかなって思った。僕は別に面白い人間だと思われたいわけじゃないし、誰かの特別になりたいわけでもないから頭を使わなくて済む。特別な席は透子ちゃんのものだから。
「天ケ谷君、最近調子良さそうじゃん。なんか吹っ切れた?」
いつものようにカフェでお昼を過ごしてると、隣の席に二人組がやって来た。よく一緒に居る、ハナオカさんと、イマイさん……だったかな。相変わらず向かい合って座って、仲が良いんだな。僕と透子ちゃんと一緒で、デザイン科と絵画科なのに。
「……心境の変化があったって感じかな」
「へぇ? なら良かったじゃん。ね、エリ?」
「え……うん、そうだね」
押しが強いイマイさんと、大人しいハナオカさん。よくよく考えてみると、この二人って不思議だな。イマイさんはどこへ行っても中心人物って感じだし、ハナオカさんは正反対に見える。同じサークルみたいだけど、意外と気が合うのかな。
「じゃあさ、心境の変化ついでに、グループ入ってみる? サークルもいつでも歓迎って感じだけど」
戯けたように、さりげなく距離を詰めてくる。こういう人、大抵の男は好きなんだろうな。気さくで軽いんだけど、慣れてない僕からしたらちょっと重く感じてしまう。
「うーん、前も言ったけど……僕、あんまりメッセージアプリ使わないんだ。SNSもほとんど見ないし。だから、どっちも遠慮しとくよ」
「えー? もう相変わらずだね天ケ谷君は。ちょっとぐらい冒険してみても良いと思うんだけどなぁ」
あっけらかんと笑うイマイさんは、いい意味で気安い。強引なのかそうじゃないのか明確に言えない感じが絶妙だ。
「それにバイトもあるから」
「そういえばさ、どこでバイトしてるの?」
「……それは、秘密。偶然見つかったら観念して接客するよ」
「何それ! 意外と辛辣でウケる」
肩を揺らして吹き出す仕草ひとつも計算されたように見える。きっと、相手にどう見られたいか決まった自分像があるんだろう。調子が乗ったイマイさんが中心になって話を回す形でとりとめのない会話が続いたが、相変わらずハナオカさんは二つ返事か相槌を打つか、多少微笑むぐらいだった。
「──確かにトオルの言う通り、天ケ谷君って意外と面白いね。ま、面白いオーラは出てたけど」
「僕面白いことなんか言ってる?」
「うーん、何だろうなぁ。多分ギャップかな。──ズルいなぁ、天ケ谷君の感じでギャップ持ちは最強じゃない?」
「意味分かんないけど」
「あはは! まあいいや。……あ、もう昼休み終わりかぁ。じゃ、天ケ谷君またどこかでね!」
「……何それ」
さっさとトレーを持って立ち上がるイマイさんにハナオカさんが続く。ハナオカさんは去り際に振り返って、小さくお辞儀をしてからイマイさんの後を追ってカフェを出て行った。僕はそれを、軽く手を振って見送った。
空き時間が少しでも出来ると、どうしてもスマホの画面を見てしまう。透子ちゃんからのメッセージが来てないか無意識に確認して、通知が無いことにほのかに気落ちする。何気ないやり取りの後の小さな落胆──その起伏が、血を送る心臓のポンプのようだ。
「さてと」
僕も行かないと。次の空きコマは図書館で別の課題の情報収集をして、夜はほとんど閉め作業しに行くようなものだけど、バイト先に行って──時間の糸が緩みなく張っている。
移動時間はスマホの画面に小さな期待を込める。通知が無くても、口角は上がる。課題に没頭していれば時間はあっという間に過ぎた。最近は日が落ちる時間か随分遅くなったから、窓の外の明るさを頼りにしていると余裕で遅刻する。それでも西日が近付いたかなという頃、時間の確認のためにスマホのスリープを解除して──僕は驚愕に目を見開いた。幻でも見てるのかと思った。ロック画面にあるのは……メッセージ通知だ。名前は、”透子ちゃん”だった。
目を疑って、しばらくスマホを見たまま動けなかった。そのうち画面はスリープ状態でブラックアウトし、慌ててもう一度タップする。見間違いじゃない。確かに透子ちゃんからのメッセージだ。
ロックを解除し、期待に震える指でメッセージアプリを開く。静寂の図書館で、だんだんと自分の息が上がっていくのが分かる。今まで下のほうに下がっていた透子ちゃんとのトークルームがトップに上がってる。アイコンは確かに、メッセージが追加されたことを告げている。
「透子ちゃん──!」
思わず声が漏れて、慌てて口を塞いだ。個人ブースを使ってなかったので周囲を見渡したが、いつの間にか付近にいた人は居なくなっていた。
急いでもう一度スマホを確認し、恐る恐るトークルームをタップする。すると、僕が送った画像付きのメッセージの後に、吹き出しがいくつか続いていた。
『もう観念するし、白状もする。アンタがアタシを特別だって言ったみたいに、アタシもアンタが特別だった。もう思い知った。好きとかそういうのじゃ言い表せない感じ』
『認めたくないけど、認めるしかない。夜、いつでもいいから家に来てよ』
『アパートの方』
勢いよく立ち上がってしまって、僕はまた反射的に周りを見渡した。誰も居ないことに胸を撫で下ろしながら、まるで重力を失ったかのように荷物を仕舞い、本を戻し、早足で図書館を後にする。ほとんど日が落ちても暑さがこびりつく夕刻過ぎ、バイト先に番号を呼び出して通話を掛ける。走ってもないのに息が弾んだ。
『はい、喫茶”灯”です』
「あ、ササキさん! あの……今日僕バイト入ってるんですけどその……どうしても行けない用事が出来ちゃって──」
『……何かあったの?』
「何かあったっていうか、僕にとっては緊急事態っていうか……こんなこと急に言うの、本当に迷惑だってわかってるんですけど、でも」
『──いいわよ』
上手い言い訳が思いつかず、気持ちばっかり焦ってしどろもどろになる。透子ちゃんはいつでも良いって言ってるけど、あのメッセージを見たら僕は……今すぐ会いに行きたい。ササキさんからしたら突然のことで意味不明だろう。だけど返って来たのは穏やかな笑い声だった。
『彩君がそんなこと言い出すのも珍しいからね。大事な用があるんだったら、そっちを優先しなさいな』
「──すみません! 本当にありがとうございます!」
スマホの向こうのササキさんに何度も頭を下げて通話を切ると、僕は逸る気持ちのまま走り出した。敷地内を歩く生徒の間を縫って、最短距離を目指して足を動かす。持ってる荷物が邪魔過ぎて今すぐ投げ捨てたいぐらいだったけど、何とか抑え込んで抱えて走った。
最寄駅までは少し距離がある。息を切らしてようやく着いた駅付近は、車通りも人通りも多いからすり抜けるのに苦労するし、信号は焦りに拍車を掛けた。そんな僕に警告を知らせるようにサイレンの音が響き、交通がストップする。慎重に道を譲り合う緊急車両と乗用車のやり取りが鬱陶しいと思ったのは初めてだった。
改札を抜けてちょうど来た電車に飛び乗り、ドアの側に立って流れる景色を見ながら電車が止まらないことを祈る。数駅乗って乗り換えてさらに数駅。自宅の最寄駅までの移動は問題なく終わった。透子ちゃんのアパートは、透子ちゃんの実家とさほど遠くない位置にある。何回か行ったこともあるから道も覚えてる。僕は電車内で休んだ分の体力を、アパートまでの走りに投じた。
築年数がそこそこある三階建のアパート。古い外階段を登って二階の角からひとつ手前。以前ここに来た時、透子ちゃん以外の住民は見たことがなかった。階段を駆け上がって部屋の前まで走って止まる。その頃にはもう、太陽の代わりに月が空を照らしていた。
ドアの前で息を整えながら、どっと吹き出した汗を拭う。こんなよれよれの僕じゃなくて、ちゃんとした状態で会いたい。最後に思いっきり深呼吸をして心を決めると、インターホンを鳴らした。
明るい電子音が静かなアパートに響いて気恥ずかしくなる。思わず左右を確認したけど誰もいない。ホッとしたけど応答がないから、もう一度インターホンを鳴らす。
けど物音が聞こえたのは、意外にも僕が上って来た階段からだった。驚いてそっちを振り向くと、サラリーマン風の若い男が鞄と小さなビニール袋を下げてのんびりと上がってくる。慌てて目を逸らしたけど、その人の気配は気まずいことに階段のすぐそばで止まった。透子ちゃんの隣の部屋が彼の部屋らしい。
視線を感じたような気がして、思わずドアノブに手をかけた。無意識に力が入ってそれが下ろされる。試しに引けば、僕の力に沿って抵抗なく、ドアは意外にも開かれた。
独特な匂いが室内から漂ってくる。僕はサラリーマンから逃げるようにして室内に飛び込んだ。狭い玄関で大きく息を吐いて鍵を閉める。ふと視線を落とすと、三和土に靴がないことに気づく。
不自然なのはそれだけじゃなかった。部屋は夜になりきる前の明るさしかない。ワンルームだから視線の先に見える窓は開いたままで、レースカーテンが風に揺られ、カーテンランナーが不規則に音を立てている。それ以外は風と、風に揺られる物の音しかしない。
キッチンを占めるレンジとトースター。シンクはすっからかんで乾いてる。身長の半分くらいしかない冷蔵庫のモーター音が突然鳴り、室内に音が追加される。ユニットバスも真っ暗で、開けてみたけど人の気配は無い。
六畳の部屋にある家具はベッドと小さなデスク、その隣に並ぶスリムなシェルフだけだ。画材が適当に乗せられているだけで、何かを飾る用途としては使われてない。ベッドの上にはタオルケットが放られたまま。
部屋の中で最も目立つのは、あの絵だった。持ち帰って貼り直したのか、床にビニールシートを敷き、小さなイーゼルを二脚並べて支えにした状態で壁にもたれ掛けさせている。部屋に充満するのはその油彩の匂いだ。絵はあの時見たままの姿でそこに居た。
「……透子ちゃん?」
人の気配は無い。居ないのを分かってて小さく声を掛ける。けど案の定返事は無い。来たのが早過ぎたのか? そう思った時、デスクの中央に不自然に置かれた小箱が目に入った。宝箱の形をした、アンティークデザインの小箱。真鍮のフックを外してゆっくり蓋を開ける。中に入っていたのは、ピアスとイヤーカフ、いくつかのリング。全てシルバーで形やデザインが違う、透子ちゃんが愛用してるやつだ。
ひとつひとつ摘んで取り出すと、下敷きにされていたものを発見する。見覚えがある。歪な星の形をした小さな木彫り。小学生のとき、図工の時間に作ったキーホルダーだ。ボールチェーンの留め具が無くなって使い物にならなくなってるけど、間違いない。
透子ちゃんがうちによく遊びにくるようになって、それが見つかったんだ。「何これ」って言うから「星のキーホルダーだよ」って答えたら、「煎餅みたい」って笑われた。でも透子ちゃんはそれを気に入ったみたいだったから、「あげるよ」って言ったんだ。
「……こんなの、取ってあったんだ……」
嬉しい気持ちが際限なく膨れ上がった。今更になって部屋の電気を点けてカーテンと窓を閉める。ちょっと近くのコンビニまで買い出しに行ったとかそんな感じだろうし、そのまま透子ちゃんの帰りを待つのも良かった。でも無性に今すぐ声を聞きたくなって、──ここしばらく禁忌のようになっていた、メッセージアプリの通話マークをタップした。
呼び出し音が鳴る。透子ちゃんはいつも出るまで遅い。絵に見下ろされたベッドに腰掛け、のんびりと応答を待つ。すると程なくして、呼び出し音が途切れた。
「──もしもし透子ちゃん? ごめん、もう家なんだけど今どこに……」
『ああ、このお電話の持ち主のご家族か、お知り合いの方でしょうか?』
「……は?」
全く予想だにしない男の声が聞こえて、思わず声が低くなる。スマホの向こうで時折、ガヤガヤと騒がしい音がノイズのように混じっている。
「……あの、すみません。どなたですか?」
「こちらは救急隊です。現在、このお電話の持ち主の方を搬送しております。ご家族の方でしょうか?」
「家族では、ないですけど……」
「ではもしご家族の方をご存知でしたら、ご連絡先を教えていただけますか?」
さっきまでのふわふわと膨らんだ気持ちが、一気に破裂した。何だか分からない。分からないけど、これ以上聞きたくない。耳を塞ぎたいのに、僕の中の別人が勝手に代わりに応答する。
「あの……何か、あったんですか……?」
「落ち着いて聞いてください。──こちらのお電話の持ち主が……」
──……その後のことは、よく覚えていない。
ただ勝手に生返事をして、彰彦さんの連絡先を伝えて、で きたくな 聞きたく って を塞ごう て ─
空虚だ。あまりにも空虚すぎて、星空が澄んでいる意味が分からなかった。病院のベッドに寝かされた透子ちゃんに勝手にモザイクがかかって、ただ静かに眠ってる姿とノイズのように激しく入れ替わる。泣き崩れる彰彦さんの肩を、母さんが支えて励ましてる。母さんだって泣いてるけど、どう考えたって彰彦さんの傷の方が深い。この人はもう一人にしちゃダメだ、今度こそ限界を迎えるんじゃないかって、脳の奥底で冷静な自分が呟いてる。でも僕は狭い病室で三人の姿を遠巻きに眺めながら、ただ茫然と立っていた。──ただ、信じられなかった。
──
全ての手続きが済んで、あっという間に透子ちゃんは遺影になってしまった。アパートは整理されて引き払われ、それに僕と母さんは可能な限り協力した。
彰彦さんは、透子ちゃんがこうなったのは自分のせいだって繰り返してた。おばさんが亡くなった時とは比べものにならないほど消沈してて、そんな彰彦さんを母さんが注意深く様子を見てる。母さんはおばさんと仲が良かったし、何より透子ちゃんには感謝してて、気に入ってたから。彰彦さんだけは助けたいと思ってるんだろう。
済んでしまったら日常はあっという間に戻って来た。大学構内の規制線も外された。今は、一番高い校舎の側にある植込みに並んでる花束や、飲み物なんかがあの時あったことを物語ってて……僕も今日は、花を供えるためだけにここに来た。
そこには先客がいた。丁寧に包んだ一本の白い百合を手に持ったまま、テラシマがあの場所に屈み込んでいた。ぼうっとしてまるで亡霊みたいにそこにいて、ずっと地面に触れさせた花を見下ろしている。
「──あーあ」
近づくと、振り返りもせずテラシマが呟いた。後ろにいるのが僕だとわかっているのかいないのか──多分、わかってるんだろう。僕の足音が止まると、テラシマはさらに言葉を溢した。
「人生で一番、後悔してる」
寝起きのようなトーンだった。
「……空気なんか読まなきゃ良かった」
テラシマはそう言って地面に花を添え、こちらを振り向きもせずにぼんやりとした足取りで去って行く。言葉の意味は分からない。僕は今、自分がどんな心境なのかすら分からない。ただとにかく凪いでいて、スマホの画面を見ればまだ通知が来るんじゃないかってちょっと期待することもある。返事が来ないのは分かってる。でもここ最近は、それが普通だったから。
時間は残酷だ。幸せだろうと不幸だろうと、ただ平等に過ぎて行く。透子ちゃんは僕の中の大半を占めてるけど、誰かにとっての透子ちゃんはそうじゃない。だから気を遣われることばかりが続いたけど、僕は逃げるみたいに普通に過ごした。
透子ちゃんと一緒だった、透子ちゃんの居ない講義もちゃんと出てる。じゃないと母さんが大変だし、周りの人から透子ちゃんの話されるのが嫌だった。
義務的に耳に入ってくる教授の声を脳で処理する。しきれない分はノートに纏めて、大事な部分にはマーカーを引く。抑揚のない低い声が眠気を誘うのか、広い室内では机に突っ伏して寝てる人もいる。でも僕には一向に眠気はやって来ない。
「あ、あの……大丈夫?」
小さな囁き声を掛けられて、僕はペンを握る手に力が篭りすぎてることに気付いた。それを見てペンをノートの上に放し、声の主の方を見る。目が合ったのは、──……ハナオカさんだ。
「……何が?」
微笑みかけて応えると、ハナオカさんは何を動揺したのか、肩を跳ねさせた。弾みで前の方に転がったペンが机の縁から転がり落ちて行く。プラスチックが床に跳ねる音が鳴って、慌ててハナオカさんは机の下へと屈み込んだ。
何となしに彼女のノートに視線を落としていると、隣にきっちり置かれていたスリープ状態のスマホ画面が点灯する。小さな振動音とともにポップアップされたものが、意図せず目に入る。
”KAORI
で、結局妹尾にトドメさしたのって誰なん?笑”
戯けた絵文字と共に表示された画面に意識が集中し、脳を支配する。こみ上げてくるものが何なのか、何故胸が軋み出すのか、腹が吐き気を生むのか、喉に力が入るのか──妙な気分になってくる。
「……ハナオカさん」
無事ペンを拾って座り直した彼女に、僕は小さく声を掛けた。溢れた髪を耳にかけ直しながら、花岡さんはこちらを振り向いて眼鏡を直す。
「……え?」
「そういえば、よくハナオカさんと一緒にいる……イマイさんだっけ? あの子にさ、言っておいてくれないかな。──メッセージグループ、入ってみようかなって」
「え……」
表情が心なしか綻ぶ。微笑み返すと、ハナオカさんは気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「う、うん……伝えとく」
そう言って、また眠っていたスマホ画面をタップして起こす。すると彼女はあからさまにぎくりと固まった。慌ててロックを解除してホーム画面に逃げると、震えた細い溜息を吐く。僕は構わず続けた。
「あと……テニスサークル、だっけ? あれも入ってみようかな。テラシマも入ってるんでしょ?」
「え、あの……その……わ、分かったよ。それも伝えとくね」
「うん、よろしく。といっても前言った通り、メッセージアプリはあんまり使わないだろうし……サークルも幽霊部員みたくなっちゃうかもしれないけど」
「あ、はは……寺島君も、似たようなものだから」
なんで、そんなにも怯えたような顔をするのか。彼女は前からイマイさんの隣でおどおどしてるような人だったけど、そんなんじゃない。今、ハナオカさんは明らかに怯えてる。動揺じゃない。怯えてる。
僕は、”その先”が見たくなった。メッセージグループの先、サークルの奥、他人の裏側。イマイさんもハナオカさんも、僕をグループやサークルに誘ったじゃないか。望み通りの展開なのに、何をそんなに怯える必要があるんだろう。
「じゃ、返事待ってるって言っておいて」
僕は長年利用してきた表情筋を操って微笑んだ。目の奥に頭痛みたいな黒いものが蟠っていた。でもハナオカさんの表情を見ていると、それが少しだけ楽になる。不思議だった。──でもこれの正体が僕には分からない。分からないと知りたくなってくる。透子ちゃんは居ないから、自分で調べるしかない。ああ、信じられない。
チャイムが鳴って講義が終わると、ハナオカさんは逃げるように教室を出て行った。
僕はその背中を、見えなくなるまで見送った。




