8話 サボテン女
小学校一年の時、近くの川に写生に行く授業があった。紙に水を塗って、青や水色、白を滲ませるのが綺麗で楽しくて、そうやって川を描いていた。
そしたら見回ってた先生がアタシの絵を覗き込んで、「この川、そんなに綺麗な川じゃないでしょ」って呆れられた。言われなくても知ってた。ドブ川みたいな緑色だってことぐらい。
でも、写生っていうのは見たものをそのまま描かなきゃならないわけで、間違ってたのはアタシ。だからといって描き直しはしなかったけど、アタシの中でその絵はゴミに成り果てた。
その数年後、また写生の授業があった。その日は学校に咲いてる桜並木を描くって内容。アタシはその時葉桜を選んだ。薄桃色の中に黄緑が混じった姿が綺麗に見えて、端っこで花弁を落とし始めている葉桜を描いた。
そしたらその時の先生は、アタシの絵を見て感心したように唸った。提出する時、「葉桜を描いたのは君だけだよ。普通は大体満開の桜を選ぶからね。斬新な視点だ」って言って、先生は図工の教室の壁にアタシの絵を貼った。
そんなことされたの始めてだったから、不思議だった。でも嬉しくもあった。別に、みんなに自慢したいとかそういうんじゃなくて、アタシの絵が誰かの琴線に触れて、気に入ってもらえたってことが嬉しかったんだ。
学校で生活するにつれて、自分が”ズレてる”ってのを何となく肌で感じていた。誰かがテレビやゲーム、漫画の話で盛り上がってて、自分がその輪の中にいる時──他人の顔を見て、笑うタイミングで笑うってことが多かった。話題を振られて自分のことを話すと、「変わってる」って言われる。何が? って思ってたけど、別にいいやって、何も気にしてなかった。
だから、クラスで孤立することはなかった。テレビの話をするのはあの子、漫画の話をするのはあの子、ゲームの話をするのはあの子って何となく決まってて、いつでも誰かと話せる位置にいながら休み時間に机に突っ伏して寝ることもあった。外でもよく遊んだし、男女関係なく学校終わりの約束を交わしたりした。
でも、いつもどこかそんな自分を遠くから見てる感覚があった。ただ”変わってる”んじゃなくて”浮いてる”奴になるのは面倒だったから、普通でいられるように、他人の真似をしたりもしてた。
彩を見つけたのは、そんな時だった。彩はとにかく”浮いてる”存在だった。なぜかと言えば、とある男子生徒が彩にそういうレッテルを貼ったから。それにクラスの女子が便乗して、彩はあっという間にいじめられるようになった。
彩は、自分に頓着が無かった。何をされても無反応。されたことを受け入れるというより、”理解”してるだけのように見えた。普通だったら、「嫌だ」とか「止めて」とか、言うもんじゃないの? 澄ました顔してるけど、本当は怒ったり、泣いたりしたいんじゃないの? ──そう思ったけど、予想に反して彩は何の反応も示さなかった。
イライラした。何も仕返しされないからってエスカレートするいじめ加害者もそうだし、……何も言わない彩にも。で、下校時の下駄箱で、靴を隠された彩と出会して、限界が来た。
彩は終始不思議そうだった。それまで喋ったこともなかったし、アタシはキレてたし、今思えば当たり前だったのかな。彩と喋ってると壁に向かって話してるみたいで苛立ちに拍車がかかったけど、よくよく相手してみて気付いた。彩はとにかく、マイペースで鈍感だった。
それから、おばさんと一緒になって彩のイメチェンをした。おばさんはノリノリで、スマホで検索をかけていろんな画像を見て、どんなのが彩に似合うのか楽しそうに考えてた。共謀する間に色々聞いたけど、おばさんは彩とどう接していいのか悩んでたらしい。あんまり無反応な子供だから、何で気を引いたらいいのか分かんなかったんだって。テレビにもアニメにもおもちゃにも興味を示さない、ほとんど笑わない子だったらしい。彩の好きな食べ物すら見抜けなかったっていうんだから、相当のポーカーフェイスだったんだろう。
イメチェンが終わると、彩は見た目通り変わった。劇的な変貌を遂げたというより、反応を返すようになったってかんじ。話してみれば独特な奴だからって、クラスの奴は掌返して彩に近寄った。調子の良い女子なんか自分がやったこと棚に上げて、いじめの切っ掛けになった男子を責め立ててたからね。結構笑えた。でも彩のそれが自分の鏡写しに見えてたアタシは距離を取ろうとしたんだけど、彩はアタシにだけ、周りには見せない顔を見せてきた。
教室の端で存在を消してるアタシに声をかけ、下校時には誘いを断ってアタシと一緒に帰ろうとした。何かあるたび「透子ちゃん、どう思う?」って聞いて来て、こう言っちゃなんだけどヒナみたいだった。おかげでクラスの中心にいた女子からはよく思われてなかったし、それが面倒だったから軽くあしらってたんだけど、それでもそこだけは、彩は頑として変わらなかった。──……でも今思い返せば、心の奥底で優越感を抱いてたかもしれない。それを認めたくなくて、必死に違う友達と馴れ合おうとした。
彩に心から救われたのは、母さんが事故で死んだ時。母さんと大恋愛の末に結婚したって話をよく聞かされてたし、父さんの落ち込み方は想像以上だった。アタシも泣きたかったけど、父さんの思い出には勝てない気がして、なるべく黙るようにした。母さんの話をしたら父さんの時間が止まるから。父さんはそれから、”アタシを育てる”ってことに没頭するようになった。趣味とか部活とかアタシの興味を引き出して、それを将来につなげるような話をした。
アタシは家に帰るのが気乗りしなくなって、何かと話しかけてくる彩の手を取った。……利用したんだろって言われたら否定できない。でも、彩が言う「大丈夫?」はすんなり受け入れられた。アタシはとにかく彩を連れ回して、家に帰らない口実を作った。彩の家にもよく遊びに行ったな。すごいお洒落な家で、コンクリート打ちっぱなしの室内におばさんの趣味である観葉植物が所狭しと並んでた。彩の部屋にもその影響があって、殺風景な部屋の窓にサボテンの小さな鉢植えが置かれてた。最初のヤツをすぐに腐らせたから何でか聞いたら、毎日水をやってたらしい。「馬鹿じゃないの」って水のやり方を教えて、誕生日に新しいのをプレゼントした。そしたら彩は本当に嬉しそうにしてて、アタシも悪い気はしなかった。
彩との関係は中学や高校に行っても変わらなかった。うちのマンションと彩の家は目と鼻の先だったし、お互い部活にも入らず放課後遊びに行ったり、お互いの家を行き来したり──正直楽しかった。父さんも彩のこと気に入ってて、何だか毎日明るくて、……高校なんか、一番キラキラしてた時期だと思う。周りから彩との関係を揶揄されることも増えたけど、それを踏まえても。でも、三年は明らかに短かった。
大学を選ぶ時、正直迷った。アタシは自分がズレてる自覚を持ってたから、「変わり者」じゃなきゃダメだって無意識に思ってた。こういう人間が世間に混じって過ごすには、才能ある変わり者じゃないとダメだって。
結局、彩や父さんの後押しもあって美大の絵画科を選んだ。そこが一番、息がしやすいのかなって思って。学科は違うとはいえ彩まで同じ大学に進むとは思いもしなかったけど、アタシは口では否定するようなことを言いながら、内心……安堵していた。
──そして、今。アタシは百号のキャンバスを目の前にしてる。「何か個性的なものを描け」「描きたいものを描けばいい」「大丈夫、お前は”変わり者”だから。描けばそれは才能ある作品になる」って都合の良い号令に囚われながら、ことあるごとに自分を慰める臆病者ってわけ。こんなのどこが”変わり者”なの? って自問自答する日々で、そこに彩が居ると都合が悪かった。薄情な話だけど、学科が違うのを良いことにシレッとアイツから離れようとした。そうすれば、中学高校なんかより視野が広がる大学生活の中で、彩は彩の生活を送って、アタシのことなんか忘れるだろうって思ってた。
でも彩は、校舎が離れてもお互いの時間がズレても、アタシを追いかけて来た。醜悪なのは、アタシがそんな彩の行動に少なからず満たされてたってこと。最悪。最悪。最悪。そのうえ彩に「他の人と付き合ってみろ」とか心にもないこと言って、本当はもの寂しくなるクセに大人ぶった。──彩が呆れて離れてくれればどんなに良かったか。
彩は相変わらず、界隈の中心人物に好かれる存在だった。例えば一番の陽キャサークルだって言われてるテニスサークルの連中とかね。良い例が、今井って子。彩がアタシと一緒にいる時にも彩を誘ったりしてて──断る彩を見て、「入ればいいじゃん」って何度も言った。でも彩は頑なで……今井サンは標的をアタシに変えて来た。
「ねえ、妹尾さんだよね? 天ケ谷君と幼馴染みなんでしょ。アタシ、デザイン科の今井佳織。──こっちは、友達の花岡絵里ね」
初めて声かけられたのは、カフェで一人で過ごしてた時。同じ学科の花岡サンって子と連れ立って、隣の席に座って来たのがきっかけだ。アタシが「そうだけど」ってテキトー位返事したら、冗談めかして距離を詰めて来た。
「いつもサークル誘ってるんだけど毎回断られててさ……妹尾さんからも言ってくれない? 天ケ谷君、あんな感じなのにどこにもサークル入んないなんてもったいないじゃん」
そう言って肩を竦めて笑う。あんな感じってどんな感じだよと頭の中で突っ込みつつ、まあ分からないでもないかなと思ってアタシは曖昧に笑い返した。
「もう言ってるよ。入ってみればって」
アタシの返事を聞いた今井サンが、その時──、一瞬だけ眉間を寄せた気がした。その後の笑顔が貼り付けたみたいに嘘っぽくて、「ああこの子、彩のこと好きなんだ」って直感的に思った。でも同時に感じたのは、果たして恋愛なのかどうかってこと。なんか、モノを欲しがるような印象を覚えて、複雑だった。
今井サンの向かいで大人しく紅茶を飲んでる花岡さんはほとんど黙ってた。今井サンが同意を求めればそれを肯定するぐらい。でも、花岡サンは今井サンが彩のことを話すたび視線を逸らしてた。テキトーに相槌打ちながらそれを垣間見たアタシは、花岡サンもまた、彩を少なからず想ってるんだろうって感じた。
「でもさ、天ケ谷君いっつも妹尾さんを言い訳にしてる気がするんだよね。だから、ホントは”あのサークルはやめとけ”って言ってるんじゃないかと思って。ウチ一応テニサーだけど、ほとんど飲みサーみたいなもんだし」
「言ってないよ。彩の好きにすればってそれだけ」
「…………ふうん」
今井サンはアタシの返事に目を細めた。心なしか声のトーンも落ちた気がする。アタシは面倒の予感を察知して、心の中で舌打ちした。
「……妹尾さんってさ、天ケ谷君のこと試してんの?」
「……は?」
吐息と共に笑って、今井サンがアイスコーヒーをかき混ぜる。氷の音がガラガラ鳴って、花岡サンが視線を落とした。
「”好きにすれば”ってさ、自由にすればって意味だけど縛る言葉でもあるよね。それを言ってなお天ケ谷君が妹尾さんから離れないのが、ホントは気持ちいいと思ってるんじゃないの?」
急にそんなこと言われて、心外すぎて苛立ちが沸き起こった。同時に目の前の女は自分を敵視してるんだと気づく。それでも構わないしどうでも良いけど、勝手にアタシの心を決めつけるなんてどうかしてるとしか思えなかった。
「……じゃあ何? ぜひ行ってみるべきだよって促したらいいの? 言っとくけど、彩はアタシの命令で動くようなヤツじゃないよ」
「ふーん、そう」
納得したように見せかけて、今井サンはグラスの中身を飲み干す。すると、花岡サンがそれに倣った。
「ま、そういうことにしておくよ。──行こ、エリ」
完璧な笑顔を最後に見せつけて、今井サンは花岡サンを連れて去って行った。一体なんだったのか、イマイチ分からない向こうからの接触。でもその時分かった。ここは広くて密度が薄いけど、それでも、だからこそ……彩は人を呼び寄せるんだって。
アタシがそうしたんだから、思惑通りの結果だ。あとは、彩がどう出るか。アタシは彩に何も強要してない。そんなことあるはずない。
──それ以降、ちょくちょく現れては何かと彩の話題を出してくる今井サンは、アタシの中で面倒の根源になった。もう放っておいてよ。誰も彼もみんな、好きにしてよ。何でいちいちアタシを介入させるんだよ。こんな雑念、絵を描くのに邪魔なだけだってのに。
公募に出す作品には何を描こうかと思案した時、最初に思い浮かんだのは何にもない宇宙だった。地球から見たら星がキラキラしてて綺麗に見えるけど、本当は瓦礫や塵ばっかりの、太陽の光以外は真っ暗な空間。空気もないし、大気もないし、音もない──静かな安らぎの場所。でもそれだけじゃ作品にならないだろうから、真ん中には何か特別なものを描こうと思った。メッセージ性とかどうでもよくて、見た人が勝手に何かを感じてくれれば良いって。でもそれが本当に楽じゃなかった。思ったものを描けば良いと思いつつ、こんなのじゃ何にもならないってどっかで分かってた。
宇宙を描くときだけは筆が進んで、何度も油彩を重ねた。独特の匂いがいい感じに脳を麻痺させてくれて、絵を描いてる時間は安らぎだった。それが苦痛になったのは、いよいよ中央を仕上げなきゃならなくなった時だ。アタシの筆は見事に止まって、キャンバスを前にボーッとする時間が増えた。
近くのブースでは花岡サンが同じ公募の作品を描いてる。トイレに行くのにアタシのブースを通り過ぎなきゃいけないから、ちょくちょく姿が目に映る。製作に取り掛かって何度目だったか。花岡サンが足を止めて声をかけて来た。
「……すごいね。宇宙、描いてるの?」
まともに喋ってるのを聞いたのは初めてだった。今井サンに絡まれるようになってからちょくちょく姿を見かけるけど、花岡サンはほとんど喋らない。ずっと本を読んだり、絵に向かったりして一人の時間を過ごしてるような子だ。小さい声だったけど、ほとんど空調の音しかしないアトリエでは十分な声量だった。
「うん、まあ……花岡サンは、何描いてるの?」
「……秘密、かな。自信、無くて……」
どうでもいいけど、そんなことを話しながらアタシは、彩に近づくのが今井サンじゃなくて彼女だったら良かったのにと思ってた。大人しくて、小柄で可愛くて、彩が引っ張っていけるような存在。とんでもない上から目線だけど、この二人なら上手くいく未来が見えるような気がしていた。
「自信なんか……アタシだって無いよ。描きたいものをただ描いてるだけだし」
「……そんなふうに、見えないな」
会話が止まって、気まずい沈黙が流れた。話の切り方が分からなくて、アタシは話を変えることにした。
「あー、えっとその……花岡サンって、今井サンと昔からの付き合いなの? いっつも一緒にいるみたいだけど」
花岡サンは自分の両手を握って、視線を少し泳がせた。即答すると思ってたからそれが意外で、アタシは視線で答えを促した。
「……うん、まあ……そうかな。中学の時から」
「へえ、じゃあアタシと彩みたいなもんか」
おずおずと頷いてから、花岡サンは遠慮がちな上目遣いでこっちを見た。
「……仲良く、見える?」
「──え?」
「私と、カオリちゃん」
その時なぜだかピンと来た。もしかしてこの子、今井サンとホントは一緒に居たくないんじゃないかって。言葉だけ取ったら含みある言い方だけど、精一杯の訴えのようにも感じた。
アタシと同じなのかな。全部じゃなくて、いつも一緒にいるからニコイチみたいに思われるのが煩わしいって感覚を持ってるって点で。──何となくそう思った。
「いつも一緒に居るから中良さそうには見えるけど……もしかして腐れ縁ってだけ?」
尋ねると、花岡サンは気まずそうに視線を落とした。冗談でも肯けないってことは、二人の間には上下関係があるんだろうか?
「まあ、気持ちは分かるよ。アタシと彩だって単なる腐れ縁。なのに周りからはあることないこと言われるし」
「……」
言ってしまったことを後悔してるのか分からないけど、花岡サンは途端に何も言わなくなった。その場の空気に耐えられなくて、アタシは無理やり頭を捻って言葉を捻り出す。
「お互い、絵に集中しよう。周りなんか気にしてたってしょうがないし、絵を描く時間はひとりになれるじゃん」
「……そうだね」
ようやくそう返事して、花岡さんは顔を上げた。ほんの微かな微笑みだった。目に感情が乗ってなさそうなのが気になったけど、気まずい時間は回避された。
「妹尾さんって、強い人だね」
曖昧な笑いしか返せなかった。自分のブースに向かって花岡さんの背中から目を逸らして、キャンバスに向かう。光が差すようにぽっかり空いた中央を何で埋めればいいか、余計に心が迷走した。
バイトの時間も、絵に向かってる時と同じ感覚を味わえる。メジャーカップで決まった量を測って合わせて、決まったやり方でカクテルを作る時間。同じものでも作り手によって個性が出るのが面白いところで、アタシはよくお客さんから手つきを褒められてる気がする。
その日もいつもと変わらず夜の時間をバイトに費やしてると、お客さんが居なくなったタイミングでマスターが顎を撫でながら言った。
「なんか腹立つことでもあったのか、透子?」
「──はァ?」
思いっきり顔を顰めて、カウンター内の椅子に座って喫煙しだしたマスターを見下ろす。そしたら煙を天井に向かって吐き出しながら、マスターは肩を揺らして小さく笑った。
「お前、苛立ってる時作業速いんだよ。こっちは助かってるけどな」
「やめてよ。別に変なお客さんなんかいなかったし」
「客じゃねえぞ。他でこさえたイライラここに持ち込んで来てんだろ」
飄々として何にも気にしない雰囲気しかないこのマスター、実は他人を見抜くのが上手い。それで痛いとこ突かれても腹立たないのは不思議。この人の持つ空気感の賜物なんだろうって思う。
「そりゃイライラすることだってあるよ。アタシ、常にニコニコしてる人種の人間じゃないしね。──作業速くて助かるんじゃないの?」
言ってやると、マスターは「ったく」と呟いて笑い、暖簾の奥を指差した。
「ちょっと休めよ。次の客来るまでな」
「いいけど、やる事無いよ」
「動画でも観てりゃいいだろ」
タバコをふかしながら椅子に座ったまま壁に寄りかかり、マスターは老眼鏡を装着して読書を始めた。今にもページが抜けそうで、移動させるにも気を遣う古臭い文庫本。いきなり自由時間を与えられて困ったけど、言われた通り動画アプリでも漁るかと思ってやっぱりやめる。とりあえず暖簾の奥の休憩スペースに座って、暖簾越しのマスターに話しかけた。
「彩と距離取りたいのに上手くいかないんだよ。あと、公募の絵が進まない。集中力が散漫になってて……脳が創造をやめろって言ってるみたいでさ」
「距離取りてぇって事はお前ら、普段からつるんでんのか?」
「”勘違い”されるほど、彩が構ってくんの。もう昔じゃないんだから、いつまでもアタシについてくることないのにって思ってんだけど」
「お前ら学科違うんだろ? 大学ってのは広いんだし、離れてぇならいくらでも離れられるんじゃねぇのか?」
「特定の人を探し出すのだって意外と出来るよ。メッセージもはじめのうちは頻繁に来たし……ま、三回に一回ぐらいしか返さなくなったけど」
「……じゃあ敢えて離れようとする必要もないんじゃねぇか?」
「──ううん。だってアタシは、アイツとは別世界の住人になりたいから」
間に暖簾を挟んだまま各々好き勝手なことをしつつ、ほんの少し思ってることを言ってみた。最初は受け流すように相槌を打ってたマスターだったけど、そこで会話が途切れ、煙を細長く吐き出すような吐息が聞こえる。気にせず次の言葉を待っていると、吸い殻を灰皿に押しつぶす音が響いた。
「……そんなに拒絶してぇなら、最もらしいこと言ってみたらどうだ?」
「──最もらしいこと?」
「そうだ。……ほらお前、今コンテストかなんかの準備してんだろ?」
「だから公募だってば」
「そう。それに集中してぇからしばらく連絡止めるとか、最もらしい理由ってのはたくさんあるだろ」
確かにそうかも。忙しい、集中したいって話なら、彩も分かってくれるかもしれない。自惚も甚だしいけど、アタシのためってことにした方が効果はありそうだ。
「……マスター、それアリかも」
「だろ? ……まあな、別世界の住人になりてぇって言っても……、一緒にいた時間が長けりゃ長いほど難しいもんだ。急に理由もなく離れろって言われたって相手も納得出来ねぇだろうよ。そういう時ァ、もっともらしい理由が要るってわけだ。じゃなきゃ、ハッキリ引導渡してやるとかな」
「はは、確かに」
相手を傷つけない嘘、か。実は苦手だ。アタシは大体、人の目を見れば相手がどんな気持ちで自分と接してるかが何となく分かる。今気を遣われてるとか、お世辞とか、そんな感じのやつ。笑顔の時の目、声音、瞳の動きは正直で、残念なことに大体分かる。分かるから自分がやってもバレるだろうなって思って、ちょっと抵抗がある。だから苦手。
そんなこと話してたらお客さんが来た。マスターが鼻を鳴らす音が続く。
「おい透子、彼氏来たぞ」
冗談めかした声で誰が来たのかを悟った。最近は素っ気なくしてるのに、彩はそれでも変わらずアタシに接して来る。──その行動に、嘘は感じない。
「──だから違うっての。冗談やめてよ」
重い溜息が出たけど、観念してカウンターに向かう。彩はいつものようにニコニコして、「久しぶり、透子ちゃん」なんて言って手を振って来た。だから「コイツ出禁にしろ」って言ったらマスターは笑ってたけど、半分本気だったアタシはその反応も複雑だった。
彩が注文するのはジンフィズ。でも彩は注文する時、いつも「いつもの炭酸とレモンのやつ」って頼み方をする。いい加減名前ぐらい覚えろよって思いながらそれを作って、出来上がったものを笠木に乗せる。それが定番のやり取りだ。
確かに面と向かって話すのは久しぶりな気がした。いつも一緒だったから、たった数日会わないだけでもそう思っちゃう。彩の話に相槌打ちながら、小細工するより引導渡してやる方がいいんじゃないかなんて思考に陥る。それはもう、お互いのためにも。
だから帰り際、迷惑だからしばらく顔見せるなって言った。そしたら彩はワケわかんないって顔して、実際そう返してきた。引導渡してやったつもりだったけど、疑問が勝って効いてない。マスターの言った通りだ。最後の手段は”最もらしい理由”のカードを切ること。
ちょっと前の会話を思い出して、とりあえず公募が終わるまでってことにした。そしたら彩は黙っちゃったけど、別の客が来たことで曖昧になって、そのままぼんやり帰って行った。
アタシは接客で気を紛らわせながら、内心で辛勝の空虚に浸っていた。
”最もらしい理由”の効果はそれほど長くはなかった。はじめのうちはメッセージも来なくなったから油断してた。まさか同じ講義が終わった後、声かけて来るなんて思わなかった。
教室出ようと思って振り返って彩と目が合った時、さっさと逃げろって警鐘が頭に響いて慌てて机に出してた物を鞄に突っ込む。そこからはみ出たペンが前の席に転がって、もう無視して逃げようとしたのに、そこに座ってた奴が親切にも拾ってくれて、アタシに差し出して来た。
礼を言ってひったくるように受け取って、もう全部とにかく鞄に突っ込んで教室を出る。彩はそれでもついて来て、人目がつかないところまで来るととうとう声をかけて来た。
「待ってよ、透子ちゃん!」
「お願いだから今だけ話させて」
「少しだけ伝えたいことがある」
彩は矢継ぎ早にそんなことを言ってきて、アタシは拒絶に声を荒げた。階段の踊り場で言い合いになってるのに気づいた通行人が、こっちを振り向くのが端っこの方に見える。アタシはとにかく焦った。掴まれた手を振り払おうとしたけど、彩はそれを許してくれなかった。
そんなの聞きたくないからそのままそう言ったら、「メッセージだけでも見てほしい」って。ずっと見ないようにしてきたメッセージ……最後のやつだけでも見てほしいって。
乱暴に返事して、今度こそ引導渡して、掴まれた手を振り解いて、必死に逃げた。彩は深追いはしてこなかった。その日は絵に向かう気になれなくてすぐ家に帰った。
通知切れば良い話なんだ。そしたら彩から送られて来るメッセージに気づくこともなくやり過ごすことができる。……でもそれは、なぜだか出来なかった。溜まってく未読の数字は全部彩のやつ。アタシは彩に切った”最もらしい理由”のカードを自分にも切った。
公募が終わったら、覗いてみよう。その時にはもう彩に見限られてるかもしれない。そしたらそれはそれで、気兼ねなく過去のこととして堂々と見ることが出来る。もう寧ろそうなってる未来が最善だ。
何もイメージが思い浮かばないのは苦しかったけど、それでもキャンバスに向かってる時間は心が落ち着いた。真ん中の空白部分は光を描こうかなんてぼんやり思ったりした。宇宙を奥まで照らす強烈な光。ありきたり過ぎる気もするけど、アタシがそれを描きたいならそれでもいいかって。
アトリエで過ごす時はギリギリまで粘った。みんながこの閉じた空間から日常に戻っていくなかでひたすら絵と向き合った。絵のことを考えるフリして目を開けながら寝てるようなもんだったけど、それだけでも絵が進んでるように思えた。
いつの間にか物音がしなくなって、一人でアトリエを歩く。シートが被さった絵が亡霊のように並んでてそれが不気味だけど、ここに一人の夜は不安であり、自由だった。
いつか話した花岡サンのキャンバスが目に入って、いけないことだと分かっていながら興味本位でシートをそっと捲る。罪深い行為に心臓がバクバクしたけど、手は止まらなかった。端っこの方だけ、ちょっと覗くだけって言い訳を重ねて覗き込んで──息が止まる。
大人しくて、小柄で、引っ込み思案なイメージしかなかった花岡サンが描いた絵。たった何分の一の部分を見ただけでも、それが──強烈だということが分かった。
青白い蛍光灯に照らされた、何層もの黒と赤。黒に囲まれた赤は、単なる渦にも、燃え盛る炎にも、灯火にも、血飛沫にも、花束にも見えた。綺麗とかそういうのじゃなくて、衝撃的で、重力がねじ曲げられているような……そんな感じ。燻ってるようにも救いにも感じられる鮮烈さ。
アタシは、シートを捲ったまま動けなくなった。もちろん頭も真っ白だ。時間も空気も音も全部止まって、耳鳴りがした。
「──何してるの?」
背後から突然声がして、面白いぐらい肩が跳ねた。振り返ると、帰り自宅の花岡サンが胸の前で両手の拳を握っていた。眼鏡の奥の瞳は、探るようにこっちに向けられてる。アタシは慌てて振り返って──観念した。
「ごめん、前に話した時のこと思い出して──どんな絵描いてるのか気になって。勝手に覗くようなマネしてごめん」
「う、うん……別に、いいよ」
自分が悪いけど正直気まずい。花岡サンは曖昧な返事をして、絵の脇に落ちていた充電器を拾った。きっとこれを取りに戻って来たんだろう。アタシは断頭台に立たされた気分になりながら、それでも、これだけは言わなきゃと思って口を開いた。
「あの、さ」
花岡サンの表情は読めなかった。でも拒絶は感じなかったから、そのまま続ける。この絵を見て感じたことは、伝えなきゃって思った。
「前にアタシの絵見てすごいって言ってくれたけど……アタシからしたら花岡サンの絵の方がすごいって思った。目が止まるってレベルじゃないよ。自信無いって言ってたけど、全然堂々としてても良いと思う」
花岡サンは目を見開いた。それでも彼女が何を思ってるのか読めなかったけど、手は少しだけ震えたように見えた。いつも今井サンの背後で俯いてる時みたいな、息を殺した立ち姿。でも彼女が描いてる絵は、それとは真逆。
「そ、そうかな……」
「うん。──ねえ、お節介かもしれないけど……今井サンと少し距離を取ってみたら? その方がもっと楽になれるんじゃないかなって。アタシから見た印象だけど、花岡サンって……いつも何か怖がってるように見えるから、さ」
話逸らしてるように感じられるかもしれないけど、何だか”言わなきゃ”って思った。絵を見て感じた素直な感想。花岡サンの本心が絵に描かれてるような気がして、言わずにはいられなかった。
「うん……ありがと。じゃあ、私帰らなきゃだから……」
「あ、そうだね、ごめん。……その、いろいろと」
「ううん。大丈夫」
少し笑って、花岡サンはアトリエを出て行った。アタシは自分のキャンバスに戻って、自分の絵の上に花岡サンの絵の全体像を想像して乗せる。あれはどうしようもない……胃の底に沈殿したものが昇華しようとして渦巻いてる姿を描いたものなんじゃないか。
そして、自分の絵を見る。そこにあるのは、真ん中だけが光のように空いている──ただの宇宙の絵だった。
呆然とする日が続いた。空き時間に何もせずアトリエで過ごしたり、彩がいないのを確認してからカフェでぼーっとしたり……ただ、人目のつくところにいると何だか周りからの視線を感じる気がした。気のせいかと思いつつそっちを振り向くと、スッと視線を逸らすような仕草を見せる知らない生徒がいる。──この間、階段の踊り場で彩とやり合ったことを思い出す。彩は何かと目立つから、あの言い合いが原因で変な噂でも立ってるのかもしれない。
鬱陶しいとは思ったけど、直接の被害が無い限りどうでもよかった。今井サンみたいにわざと絡んでこなかったらそれで良い。ひとりの時間も好きだけど、絵画科には友達もいるから、たまに喋ったり……のらりくらりとした時間を貪った。
彩と一緒の講義のたびにあの日のことを思い出して居心地が悪かったけど、彩は講義終わり一目散に教室を出るようになった。ホッとすると同時に郷愁みたいなものを感じて嫌気が差す。何となく、ゆっくり自分の荷物を片付けながら教室を出ていく彩の背中を見送っていると、前の席から声を掛けられた。
「妹尾サン、天ケ谷と喧嘩してんだって?」
驚いて振り返ると、見たことない男子生徒だった。──いや、前に……彩と言い合った日に、落としたペンを拾ってくれた人だ。何となく覚えてる。彩の、友達だったのか。
「……誰?」
「あ、オレ、デザイン科の寺島。天ケ谷とはたまに話すぐらいなんだけど、二人が喧嘩してるらしいってのがサークルで話題になっててさ」
生徒たちが教室を出ていく騒めきが無くなっていく。教室の奥で立ち止まってるアタシたちは次第に取り残されていく。
「サークル?」
「そう。今井って目立つ奴がいるんだけど知ってる? そいつが何かと話題に出しててさ」
ああ、テニスサークルか。けどこのテラシマって人があのサークルに入ってるイメージは全く湧かなかった。何というか、独特で。
「知ってるけど……ていうか、アタシたちのことはアンタらのサークルに関係なくない?」
「ま、気にしてるのはカオリだけだよ。……あ、今井佳織ね」
「じゃあなんで今声かけてきたわけ? 今井サンに何か吹き込まれでもしてんの?」
初めて喋ったのに、切っ掛けが彩とのことだったから自然と警戒心が生まれる。でもテラシマはアタシが語気を強めてもどこ吹く風って感じだった。
「え? 別に何も頼まれてないよ。オレそんなにカオリと仲いいわけじゃないし。──ただ、天ケ谷が誰かと喧嘩になるなんて意外ってか想像つかなかったからさ。今こうしてんのは、何が理由で喧嘩したんだろってオレ個人の興味本位」
「……はぁ」
あんま気にして見たことなかったけど……彩の友達って変わってる。類は友を呼ぶってこのことなんだろうか。呆気に取られて溜息しか出なかった。
「──好奇心は猫をも殺すって言うけど」
「え、何それ」
「猫の命は九個あるのに、そんな猫でも全部の命を潰して死んじゃうくらい、興味本位で首突っ込むのは危険でくだらないってこと」
「へえ」
彩とは別のベクトルで変わってて何だか拍子抜けだった。それに、不思議と初対面の感覚を忘れる独特な雰囲気。こっちのことに踏み込んでこようとしてるはずなのに、そう思わせない距離感が保たれてる──そんな感じ。そもそもアタシ、話しかけづらいイメージあると思うんだけど。
「でも今誰もいないし、オレも誰にも言うつもりないし、ここだけの話ってことで喧嘩の理由聞かせてよ。壁打ちだと思ってさ」
「何でよ。悪趣味すぎない?」
「いいからいいから。気になってしょうがないんだ」
何でこんなことになってんのか意味分かんなかったけど、壁打ちって言われて、反響して伝わってもいいことなら話していいかと思った。この人にアタシの気持ちを言っておけば、それがサークルに伝搬してアタシのポジションも分かってもらえる。アタシの悪評が広まっても構わないし、そうするのが良い手かもしれない。
「彩には、アタシから離れて別の人と関われって言ってたの。離れてくれって。他の人とつるんだり、付き合ったりすればいいじゃんって。それでも分かってくれないから、これ以上やったら絶交するって引導渡しただけ」
「──じゃあ喧嘩は、その時のやり取りってこと?」
「そうだよ。っていうか、そもそも喧嘩とかそういうんじゃない。単なる意見の食い違いだった」
テラシマは目を丸くして、ちょっと驚いた様子だった。でも正直ドン引きされると思ってたから拍子抜け。ただテラシマは「なるほどね」と呟いただけだった。
「何でそんなに離れたがってんの?」
そう聞かれて気持ちが凪いだ。思考が止まった気がしたけど、浮かんだ言葉はひとつ。
「彩の世界にアタシは必要ないと思ったから」
テラシマは流石に返事に困ったのか、それまで纏っていた飄々とした雰囲気を少し崩した。その反応が面白くて笑いが漏れる。
「──もう行くね」
そう言い捨てて、返事を待たずに教室を出た。テラシマはどんな顔をしてただろう。少しくらい面食らってくれてたら、さっきの話は成功だ。これで少なくとも、興味本位で話しかけてくることはないだろう。──だって人間の命はひとつしか無いんだから。
ひとりでいると気が晴れた。唯一バーでマスターと下らないやり取りをするぐらい。それ以外は講義や絵に向かうか、部屋で過ごすかの二択。とにかく誰にも見られてない状況が楽で、部屋で過ごす静かな夜は一番安心できた。自分の中の想像を膨らませて、絵の完成図を何度も思い浮かべる。そうすると宇宙に漂ってるみたいになって、その感覚に没頭できた。
あの日突き放してやったはずのテラシマとの再会は意外にも早かった。偶然なのか聞きつけて来たのか知らないけど、バーに一人でやって来たから。「あれ」なんて言って意外そうにしてたけど、それが意図的なのかそうじゃないのかは読めなかった。
「へえ、妹尾サンってこういうバーでバイトしてたんだ」
「なんだ、透子の友達か?」
「──別に、ちょっと話したことあるだけだよ」
「あ、まあ友達みたいなもんです。学科は違うんですけど同じ大学で。寺島って言います」
そう言って誰もいないカウンター席に適当に座る。……何なんだコイツ。全然あの時と変わってない。呑気にマスターに嘘ついて笑って、置いてあるメニューを眺め始める。飄々としてるとか淡々としてるとかそんなんじゃない。風みたいにつかみどころがない。アタシの苦々しい表情が面白かったのか、マスターが笑い声を漏らした。
「この、モヒートってやつにしようかな。前どっかの店で気になったんだけど飲めなくてさ」
「……だってよ、マスター」
「お前作ってやれよ。教えただろ」
絶対面白がってる。そういうとこジジくさいんだよな、この人。普段は落ち着いてるのにさ。マスターを睨みつけると、テラシマはカウンターに頬杖ついて小さく笑った。
「だってよ、妹尾サン」
マジで意味分かんない。こういうタイプの人間は初めてだ。お客さんに対して失礼極まりないけど、思わず舌打ちが出た。
アタシがモヒートを作ってる間、テラシマはマスターに「いつから店やってるんですか」とかインタビューじみた質問をしてた。カウンターの木目が味わい深くて良いとか、あそこの棚だけアンティークっぽいのが面白いとか、どういうコンセプトなんですか、とか。マスターは「別に、趣味と好きなものを並べただけだ」って笑ってたけど、何だか気分が良さそうだった。
「はい」
質問の間を縫って注文のカクテルを差し出すと、テラシマはグラスを回してまずその外観を眺めた。次に香りを確かめるように鼻先を近づける。
「へえ、さっぱりしてそう」
「ライムとミントと炭酸だからね。ラムが合わないって人もいるけど」
「ふーん」
テラシマはそれをスマホのカメラで撮影した。ただ撮るんじゃなくて、体を捻って店の壁を背景にすることで抜け感まで演出する。それからようやく飲み始めた。
「──……結構いいね。飲み会の後の締めに最適」
そういえばコイツ、今井サンと同じサークルだった。てことは、飲みサーって言われてるあのサークルで飲み会に参加することも多いんだろう。どんな店でどんな飲み方するのか知らないけど、酒盛りした後の締めにカクテル好むなんてだいぶ酒好きだ。
「馬鹿みたいな飲み方しかしないからなぁ」
「想像しただけでゲロ吐きそう」
「言うねえ、妹尾サン。でも同感」
「締めにバー選ぼうとしてるアンタだって同類なんじゃないの?」
「オレはとりあえず顔出して、隅でしっぽりやってるタイプだから」
そんななら飲み会なんか行かなきゃいいのに。そう思ったのが顔に出てたのか、テラシマは肩を揺らした。
「とりあえず参加しとくってだけで、いろんなことが楽になるしな」
「──例えば?」
「周りは勝手に、オレを仲間だって思うだろ? 同じ場にいるだけでさ」
意外と狡猾なんだ。アタシはそういうの同調圧力としか思えないけど。そう思ってふと、思い出したことがあった。
「花岡サンも同じサークルなんだよね?」
「ああ、エリ? そうだけど。カオリにくっついてよく参加してるよ」
「彼女、大丈夫なわけ?」
テラシマはきょとんとした。してから、苦笑した。
「大丈夫って?」
「大人しそうな子じゃん。そんな飲み会だったら無理して参加してんじゃないかって思って」
言い訳がなんともお節介じみていて、アタシは発言したことを後悔した。同じ学科でちょっと話したことあるくらいなのに、余計なお世話だろって。テラシマからもそう言われると思った。
けど返ってきたのは意外な言葉だった。
「大丈夫大丈夫。アイツああ見えて爆弾魔だから」
「ば、爆弾魔?」
あまりにも意外過ぎて、素直に驚きの声が漏れる。テラシマは肩を竦めると、意味深な笑顔を浮かべた。
「あくまでオレの見解な。大人しそうに見えて、一番爆弾抱えてそうなんだよ。よく言うじゃん、普段大人しい奴は怒らせたら怖いってさ。あのカオリですらああ見えて実はエリに気ィ遣ってそうな時があるくらい。”この先踏み抜いたらダメだ”みたいなさ」
「……そうなんだ」
あの鮮烈な絵を思い出す。一部しか見てないけど、それだけで衝撃を受けた赤と黒の絵。もしこのテラシマがあの絵を見たら、どんな感想を言うんだろう。アタシみたいに、良い意味で騙された感覚は抱かないんだろうか。
「そう。だからなんだかんだうまいこと混じってるよ。側から見たらカオリの親友だしな」
「……へえ。で、今井サンは相変わらず彩を誘ってんの?」
「ああ、まあ……多分?」
「じゃあテラシマ君も後押ししてやったら? 控えめに誘ってるだけじゃ、アイツは動かないよ」
テラシマが二本のストローでグラスの中身をかき混ぜる。アタシの言葉はその氷に吸い込まれて、混じって攪拌された。
「……オレは別に、天ケ谷は好きにすれば良いと思ってるから。サークルなんて無理して入るもんじゃないだろ?」
「──まあ、そうだけど」
「無理やり視線逸らさせようとしたって、……無理だと思う」
視線がかち合う。嗜められた気がして、居心地の悪さを覚える。自分で切り出したのに、アタシは沈黙の返答で無理やりその話題を終わらせた。
それからマスターも混じって世間話をした。テラシマはモヒートをもう一杯頼んで、それを飲み終わると「そろそろ帰る」と言ってきた。平日の夜、テラシマが店にいたのは二時間程度だったが、来客は無かった。
会計を済ませてテラシマが出て行った後、カウンターを拭きに言ったら交通系ICカードのケースが取り残されてた。ああ見えて結構酔ってたのかと溜息が出たけど、マスターに一言言って店を出る。幸いテラシマはエレベーターを待っていた。
「ちょっと、忘れ物」
「え、あ、マジか。ありがとう」
「酔ってんの? まともに電車乗れる?」
「オレん家この辺だから、あとは歩いて帰るだけ」
カードケースを受け取ると、それをズボンの後ろポケットに入れる。なるほど、そこに入れてたから席に座る時邪魔だったわけね。
「じゃ」
「あ、そうだ妹尾サン、連絡先交換しない?」
「は?」
スマホを取り出して、メッセージアプリのQRコードを手早く画面に出して差し出してくる。唐突すぎで思わず固まった。
「え、何で?」
「いいじゃん。今日のことも何かの縁だし、交換するだけはタダじゃない?」
「……タダより怖いものってないんだけど」
エレベーターが来てドアが開く。でもテラシマは振り返りもせずその場に留まった。エレベーターが閉まって静かになってもテラシマは動かない。正直面倒で、アタシはそれを隠さなかったけど……テラシマは意外にも頑固だった。
「でも、タダより効果的な”お試し”って無いだろ?」
──結局、アタシは根負けしてQRコードを読み込んだ。確認のためのスタンプが送られてきて、適当なやつを返す。テラシマはそれに満足すると、再度来たエレベーターに今度こそ乗って帰って行った。
交換するだけして後は何も無いだろう。そう思ってたのに、テラシマは気まぐれにメッセージを送ってきた。不可解なのは、それが道端で見た変わった形の置物とか、建物とかの写真。写真だけ送られてくるから「何これ」って返すと、「路地裏で見つけた石像」とか、「雑居ビルに挟まれたデザイナーズビル」とか、答えだけが返ってくる。それに「へえ」しか返さなくても、返事すらしなくても、テラシマは気にしてないようだった。
次の日大学で会っても目が合ったら軽く会釈したり手を振るぐらい。メッセージでは意味不明のやり取り。それが何だか楽だった。こう言っちゃなんだけど、良い気晴らしになった。変に溜めてたストレスみたいなものも無視できて、絵の仕上げにも取りかかれた。
結局、アタシは空いてたそこに光芒を描くことにした。描くことにしたっていうか、そういう方向性で進めることにしたって言う方が正しいか。自分に巣食ってるものでも良い、他人の中に見えるものでもいい。それを強烈な光にしようと思った。眩しくて、目なんか開けていられないぐらいの。
相変わらずアトリエで過ごす夜、トイレに行きたくなってスマホを持って教室を出る。メッセージアプリには通知が増えていて、それは相変わらずテラシマだった。彩のは未だに開いていない。
また変な景色とか、変わったものの写真だった。コイツのフォルダ、変な写真で埋め尽くされてんじゃないの? 知らないけど。
個室で返事を考えてたらそこそこ時間が経ってて、それに気付いて慌てて用を足してトイレを出る。アトリエまでの廊下を歩いてると、アトリエから花岡サンが出ていくのが見えた。声をかけるには距離が遠くて諦める。今日もアタシが最後かも。早く片付けて帰る準備しないとな。
そんなことを思いながらアトリエに戻り、自分のブースまで歩く。外はもう夜だ。空調の音の下で絵の中に混じるのは慣れたものだけど、ちょっとした不気味さは未だに慣れない。
軽い気持ちでブースに戻ると、──目を疑った。アタシが光芒を描こうとしてた場所が裂かれていた。頭が真っ白になって、床に目を落とす。そこにはアタシのカッターが落ちていて、無意識にそれを拾った。
誰がやったのか──思い浮かんだ姿を振り払おうとしたけど、いくら煙に巻いてもそのシルエットは蘇る。アタシが教室を出た時にどれだけの生徒が残っていたのかは分からない。でも今は誰もいない。予想通り、アタシが最後だ。つまり、さっき出て行った……彼女。
……理由が分からない。彼女にそうされる理由が。何か思いつくとしたら、……それは彩だ。アタシに敵意が向くっていうことは、そういうことだろう。彼女はいつも友人の影に隠れて本当の望みを隠してた。それが、あのキャンバスに描かれていたものの正体だ。
信じられない。でももっと信じられないのは自分自身だった。この有り様を利用するアイデアが浮かばなかった。アタシが本当の変わり者だったら、才能があったら、これを利用して最高の作品に昇華させることが出来るはず。でも、いくら頭をこねくり回しても天啓は浮かばない。絵を破られたことより、そっちの方がショックだった。
今分かった。小学生の時、いじめられてても何の反応も示さなかった彩の気持ち。彩は、本当に興味が無かったんだ。何で自分がこんなことされてるんだろうって単純な疑問もあっただろうけど、自分にも相手にも然程興味がなくて、ただの事象として捉えてた。だから相手に対して嫌悪や敵意もなく、ただされたことを受け流したって結果になった。
アタシもそう。アタシは今、されたことより何の発想も浮かばないことに絶望してる。だからキャンバスを破かれたことがちっともショックじゃない。むしろ、破かれたことによって自分の程度が知れてしまった。それをはっきり見せつけられた気がして吐きそうだった。
「──透子ちゃん、これ……」
背後から彩の声がした。幻かと思って振り返ったら本当にそこにいた。何でって聞く暇もなく、彩はアタシの破かれた絵を見て目を輝かせた。
「僕、これ好きかもしれない。この亀裂、──ただ破れてるだけに見えないよ。何かがここから生まれてくる途中みたいに見える。透子ちゃんの感情が、亀裂の向こうから生まれてくるみたいな──すごく、引き込まれる」
──何、言ってんの? 何も生まれないよ。この亀裂からは何も出てこない。アンタはいつもそうやってアタシを褒めるけど、本当のアタシが見えてんの? 彩の言葉に嘘はない。でも、薄っぺらい嘘に聞こえる。賛辞っていうレッテルがベタベタと身体に貼り付けられる感覚。
「彩」
もうどうでもいい。もう黙って欲しい。アンタの思ってる透子は透子じゃないよ。どういうフィルター使ってんのか知らないけど、現実を見なよ。
「──アンタにアタシの何が分かるっていうの」
……そっから先の記憶は曖昧。ありきたりなセリフから始まって、そこから彩にいろんな言葉をぶつけたと思う。それでも彩は、「何で自分から離れたがるのか分からない」「理由が知りたい」と言ってきた。
警備員の呼びかけがなかったら手が出てたかもしれない。彩は全く悪くないのに。彩はそれでもアタシを責めないと心のどこかで知りながら。
結局アタシは逃げた。逃げて逃げて、自分の巣に飛び込んだ。その日はそれ以上、もう何もしたくなかった。何も考えず、無になって、気づいてしまった自分の正体を見ないフリして、ただ──意識が途切れてくれれば。それをひたすらに願っていた。
アトリエの絵は取り外した。家に持ち帰ってフレームを組み立てて、そこにまた貼り直す。古いイーゼル二つで下を支えて壁に立てかけると、壁の一面が宇宙になった。
宇宙のゴミになって漂う気持ちってこんななのかなって思う。夜部屋を暗くして、ベットに横になりながら薄ら見える絵をぼーっと眺めて意識が途切れるのを待つ。直視できないほど眩しい遠い太陽の光に照らされながら、他の塵と混じって宇宙を漂う気持ち。
何も考えたくないな。別に疲れたってわけじゃないのに動きたくない。アタシの脳、とうとう終わっちゃったのかな。アタシが自分の価値の幻想に浸ってる間はそれに付き合ってくれてたけど、アタシが気づいちゃったから、じゃあもういっかって。
バイトのシフトを出すのも止めた。マスターから連絡が来たけど、「来週は公募に集中する」って言い訳した。定期的に送られてくる父さんからのメールにも一言だけ返信する。「ちゃんとやれてるか」「必要なものあるか」ってのが父さんの定型文で、「普通。何とかまかなえてる」ってのがアタシの定型文だ。
あれから、絵は自分の部屋で完成させようと思った。けど実際は何も出来なかった。もう絵はそこに置いてあるだけで、一生そのままだ。
授業もだんだんサボるようになって、絵画科の友達からメッセージが来たけど適当に返事をした。テラシマからの写真のメッセージも既読無視。アタシはほとんど家のベッドの上で、電気もつけずにただ絵を眺めて過ごした。
何で腹が減るんだろう。ちょっと食べればすぐお腹が膨れるのに、それでもその”ちょっと”を摂取しようとするんだろう。人間ってめんどくさいな。アタシはもう、絵を描く機械になりたい。そしたらこんなことになんかならなかったのに。
『最近返事くれなくね?』
テラシマから来た珍しいメッセージを見た時、ふと彩の顔が浮かんだ。そういえばコイツ、彩と仲良さそうだったんだっけ。そんなことを思ってたら、「彩はどうしてる?」って返事してた。
『天ケ谷は、なんか課題制作で忙しそうだよ』
「へえ」
『なんか、今回は熱が入ってるっぽい。いつものシンプルイズベストじゃない感じ』
「そうなんだ。熱中するなんて珍しい」
『それ』
「陰ながら応援するよ。これ、彩には内緒」
メッセージのやりとりが続く。確かに記憶の限りでは、彩の作品はミニマリズムの典型だった。無駄を削ぎ落とした直線的なものが多くて、柄も凹凸もないさっぱりしたデザイン。”彩”って名前なのに、色もほとんど使わないんだ。
彩の家はコンクリート打ちっぱなしで一見冷たいけど、おばさんの観葉植物の趣味が活かされてた。物が少なくて生活感は無かったけど、おばさんの空間って感じがして温かみがあった。彩の部屋だけはその温かみが削がれていて、色って言えばアタシがあげたサボテンぐらい。漫画も雑誌も置いてないし、ホントにシンプルな部屋だった。
返事が来なくなったから終わったのかと思ったら、少しして通知が来た。暗い部屋でベッドに寝転んで、スマホのブルーライトだけが光る夜。時間は泡みたいに弾けてく。
『天ケ谷と会ってやんないの』
テラシマのメッセージに表示された、初めての”天ケ谷”って文字。アタシが彩の話なんかしたから向こうも気を遣ってきたのかもしれない。彩がテラシマにアタシとのことを何か話してるのかも知れないけど、その裏は感じない。
「なんで」
『一回ぐらい会えば?』
「なんか聞いた?」
『いや何となく。ただ、前に離れたがってたから』
『でも離れてる方が不自然に見えた』
またニコイチの話かと思ったけど、テラシマの言い分はちょっと違う気がした。独特の目線を持ってるから、本当にそう感じたんだろうと思って邪推をやめる。彩もテラシマを利用するような奴じゃない。テラシマは、利用されるような奴じゃない。
「まあお互い、落ち着いたら」
『そっか』
メッセージはそこで終わる。今のやり取りで何故だかちょっと気持ちが凪いだ。そしてまた、絵を眺める。暗い部屋で中央の亀裂が光って、それがだんだん強くなって、周りを焼き尽くそうとする。膨らんで膨らんで、部屋が昼間より明るく照り付けられる。それをアタシは直視して、光がどうなるのか待つ。
隣のサラリーマンが帰ってくる鍵の音と、ドアの開閉音が響く。すると、光は幻のように霧散した。目が焼かれていたはずなのに何の後遺症も無くて笑いが漏れる。当たり前だ。本当は光なんて無かったんだから。
自暴自棄みたいな日が続いて、日常すら分からなくなってきた時。見ないようにしてた彩のトークルームのメッセージ通知が増えてるのに気づいた。いつもならすぐ気づいたはずなのに……気が逸れてるとこんなこともあるんだな。
何となく、ただ本当に何となく、音の無い深夜──闇に紛れるようにしてトークルームを開いた。読んでないいくつかのメッセージと、二つの画像が目に入る。彩がずっと言い続けてるのは、
『透子ちゃんが特別』
『透子ちゃんが好き』
『関係性に名前なんか無くたっていい』
『プレゼンボード 作ったよ。透子ちゃんに見て欲しい』
『出来たよ。一番に見て欲しい』
メッセージをスワイプして、画像を見る。自然の物を使って作った額縁がそこにあった。プレゼンボードに書かれたコンセプトの数々に目を通す。
”積み重なる樹皮や蔦、葉など、自然が生きてた時間をそのまま縁取るデザイン。どんな空間にも馴染みながら絵を静かに引き立て、支える存在となることを目指した”
プレゼンボードの参考画像に描かれた額縁。そこに嵌められてる絵は──宇宙の絵だった。完成品はプレゼンボードから少し変更が加えられてるけど、端っこに咲いてる赤い花は変わらず存在してる。
「ふっ……あはは……」
笑いが込み上げてきた。だって、全然彩らしくないデザインだったから。そして、良くも悪くも……”普通”だった。これまで見たことのある洗練されたデザインじゃない。これを彩が作ったって? 信じられない。アタシがこんなの作らせたの? そうだ、アタシが彩をこんな風にしたんだ。
──でも、どうしようもなく嬉しかった。彩が普通になったのに、アタシに引きずられて才能を潰されたのに、アタシのためにこれを作ったんだって考えたら涙が出てきた。それがおかしくって、腹抱えるぐらい笑った。声も気にせずひたすら笑い続けた。
隣から壁ドンされて、枕に顔を埋める。笑い声が布と綿に遮られて篭った音が鳴って、息苦しくなる。ああ透子、このまま窒息しちゃえよ。それが一番楽で、一番良い方法だよ。そしたらお前は宇宙の塵にだってなれるはず。
そのまま朝が来て、しばらく寝たままボーッとして過ごした。カーテンを開けると晴天の日差しが容赦無くフローリングを焼いた。
どれぐらいの時間を使ったか分からない。アタシは武装するみたいに着けていたアクセサリーを外して机に並べた。並べてから、引き出しの奥に仕舞ってた小さな箱を取り出す。中に入れてたのは、彩から貰った壊れたキーホルダーだ。奇しくも星の形をしてる。
アクセサリーを小箱にひとつずつ入れた。日差しが弱くなってきた頃、スマホだけ持って家を出る。電車に乗って、乗り換えて、大学の最寄駅まで移動して、キャンパス内に入る。──それから、一番高い校舎を探してうろついた。
エレベーターは使わずに、一歩一歩階段を上がる。一番上の空き教室にそっと入って、奥に座り込んで息を潜める。幸いなことに、この教室はもう今日は使われないらしい。静かな室内に、外の喧騒がうっすらと響く。
夕暮れの郷愁に駆られて、アタシは彩にメッセージを送った。「もう観念した」ってさ。アタシはホントは誰より彩を必要としてた。
彩は麻薬だ。アタシの欲しい言葉をくれて、アタシを信じて、ずっと必要としてくれる。そんな羽毛みたいな存在に素直に飛び込んで微睡むのは、最高の幸せだろう。
でも、アタシは自分自身の確証が欲しかった。彩の腕の中で微睡んでいい存在だっていう確証。彩がアタシにくれる言葉は蜜であり、同時に刺でもあって……アタシはその確証を、一生得られない気がした。
彩を自分の部屋に誘き出して、トークルームを閉じる。箱が出しっぱなしだったな。見られたら恥ずかしいけど、そんなのはもうどうでもいい。
蹲ってたら日が落ちて、待ちに待った夜が来た。フラつく足で立ち上がって、窓を開く。上を見上げれば、夏の星空がキラキラしてた。今日は一日快晴だった。月のクレーターもはっきり見える。
スマホを抱いて窓の淵に座る。背後なんか見ない。暗い教室は、そのうち戸締りされるだろう。見つかる前に覚悟を決める。
透子、力を抜いたら重力に沿って身体は落ちる。けど魂は宇宙に飛んで、望み通り宇宙の塵になれるよ。アタシは幽霊になんかならない。彩の未来も見守らない。生まれ変わりたくもない。ただ、宇宙の塵になって遠くから星を眺めたい。
清々しい気持ちなのに、息は荒くなる。でももうそうしたくてしょうがない。アタシは背中の力を抜いて、星空を見上げることにした。
「バイバイ、彩」
都会の星空なのに、銀河まで見えるみたいだった。斜めに走る七色の靄みたいな光と、宝石の欠片みたいな星空。
綺麗だった。
アタシは落ちてるんじゃない。
亀裂の中に、飛び込んだんだ。




