5話 僕のやさしさ
散らばった画材を拾う力ない背中を見て、いてもたってもいられなくなった。静かな室内に、空調と、拾われた物たちの囁くような響きが落ちる。透子ちゃんの息遣いは聞こえない。聞こえるのは、彼女が移動する時に鳴るスニーカーの摩擦音だけ。
罅の入ったキャンバス。蛍光灯の青白い光の下で寒々しく照らされる油彩の凹凸。そこに影を乗せる、亀裂を縁取る短い繊維。一見残酷だ。でもそれでいて、壮絶でもあった。
誘われるように、彷徨うように一歩踏み出す。僕の靴音が透子ちゃんの動きを止める。彼女が振り返り、肩越しに目が合う。いつも静かでありながら苛烈なその瞳は、何だか疲れているようだった。
スランプなのかもしれない。一人で絵と向き合い続ける中で、やり場のない何かが溢れたんだろうか。そう思うと、この亀裂もその感情の一部なのかもしれない。透子ちゃんが内に秘めた激情。僕は、それを今初めて目の当たりにしているのかもしれない。
絵のことは詳しくない。講義で出てきた表面的なことを多少知っているくらいのものだ。でも、美術館に並び飾られた絵は色々見たことがある。記憶の中のそれらのどれと比べても、目の前の透子ちゃんの絵は劇的に見えた。
僕が透子ちゃんをよく知ってるから? 普段は見せない感情が、この絵に描かれているような気がしたから? 分からないけど、僕は無惨に亀裂の入ったキャンバスに、気持ちが高揚した。
「透子ちゃん、これ……」
この感情を伝えたくて、弁明も忘れて呟いた。うまく言葉にできるか分からないけど、僕がどれだけ感動したかってこと、どうしても今伝えたかった。
透子ちゃんは黙ったまま、こちらを見て瞠目していた。まるで時が止まったかのように微動だにせず、息だけを震わせていた。
「僕、これ好きかもしれない。この亀裂、──ただ破れてるだけに見えないよ。何かがここから生まれてくる途中みたいに見える。透子ちゃんの感情が、亀裂の向こうから生まれてくるみたいな──すごく、引き込まれる」
僕は呆けたように感想を伝えた。怒りでも焦燥でも何でも構わない。この絵には透子ちゃんの感情がぶつけられている。これが芸術かどうかなんて分からない。けど、僕は……心臓の鼓動を抑えるために深呼吸が必要なくらい、脳が熱を帯びていた。なのにどうしても、目だけは絵から離せなかった。
「彩」
静かな声で呼ばれる。僕は絵から視線を剥がすのに苦労しながら、立ち尽くす透子ちゃんの方を向いた。絵とは正反対の目が僕を無機質に見上げる。今更になって、空調の冷気に鳥肌が立った。
「……アンタにアタシの何が分かるっていうの」
低い声がリノリウムの床に落ちて転がった。
「アンタがアタシの何を見てきたっていうわけ?」
絵には亀裂が入ってるのに、透子ちゃんには入ってない。押さえ込むように震える声が、刺となって腕に刺さる。
「こっから何かが生まれてくるって⁈ 適当なこと言わないでよ! ……ここに何を描こうとしてるのか自分が分かんなくて、どうしようもないって時に──勝手にこの絵に意味なんかつけないで!」
聞いたこともない大声が室内に響く。空気に罅が入ったみたいだ。透子ちゃんが眉を吊り上げて、白く変色するぐらい拳を握ってる。怒った顔は何度も見てきた。でも、これは初めてだった。
「顔見せんなって何度言ったら理解すんの? どうしてアタシに付き纏うの? 何で離れてくんないの⁈」
透子ちゃんの目が赤くなってる。怒りが僕に向けられてる。僕は焦らなきゃいけない。約束破ったことを誤って、宥めて、許してもらわなきゃいけない。
でも、どんな言葉であっても僕に向けられていること。透子ちゃんが僕と向き合っていること。──それを、頭のどこかで嬉しく思ってる。僕だって今、”どうしようもないって時”を味わってる。なのに、僕とは離れたところに僕がいる……そんな感覚だ。
「だ、だって……」
感情のまま、僕の言葉は溢れていく。
「僕は、どうしても……透子ちゃんと離れなきゃいけない理由が分からないんだ。透子ちゃんに何て言われても」
透子ちゃんは黙ってしまった。肩で息をして、握っていた拳を片方心臓の位置に持っていって、服をぎゅっと掴んだ。
「──言ってよ。何で透子ちゃんは僕から離れようとするの? 今までずっと一緒だったのに……何度も離れようとしたけど、突然すぎて、分かんないんだ」
息を整えながら、透子ちゃんは歯噛みしていた。僕から視線を逸らして、キャンバスを睨む。言葉を選んでいるようには見えなくて、僕はまた、答えは聞けないのだと悟る。
「おーい、君たち。校舎閉める時間だよ」
間延びした声が僕らの間を横切った。入り口のドアから顔を覗かせたのは警備員のおじさんだ。いつの間にか時間が経っていたらしい。
「あ、すみません、今──」
慌てて僕が答えると、それを切っ掛けに弾かれたように透子ちゃんが片付けを始めた。その耳も口も閉ざされているのが後ろ姿からでも分かる。僕はまた、透子ちゃんから無言で引き剥がされるのだろう。
僕を待たず、片付けを終えた透子ちゃんは教室を出ていこうとする。僕はその後を追うようにして、警備員を横切った。「気をつけて」と背中越しに声が聞こえる。振り返って会釈して、透子ちゃんの後を追う。透子ちゃんは僕を顧みず、ひたすら早足で薄暗い廊下を進んで行く。そしてまた、音信不通の関係が再開した。
「ねぇ、天ケ谷君。連絡先教えてよ」
「え?」
次の日、講義の後でこっちに寄ってきた女の子に声をかけられた。よく話しかけてくる人──ハナオカさんとよく一緒にいる、テニスサークルの。彼女は他の男子生徒と話していたのを切り上げて、僕の元へとやって来た。昨日のことで頭がいっぱいだった僕は、面倒に思いながらも短く返事をした。
「そろそろいいかなぁと思ったんだけど。なんか天ケ谷君いっつも一人だしさ」
そう言って、メッセージアプリを開いたスマホの画面を見せてくる。お洒落なカフェの背景に、半分だけ画角に入れた顔面アップのアイコン。僕はその画面に視線を落として、しばし固まった。
「……何で?」
「何でって、それってひどくない?」
この人の名前は何だったっけ? とりあえずアプリの名前は”カオリ”だった。
「天ケ谷君、トオルと仲良いでしょ? 私もトオルとは結構話すしさ、もうサークル入ってとは言わないけど、メッセージのグループだけ入らない? 毎日くだらないこと喋ってるし、トオルもいるし、気軽に何でも話してくれて全然大丈夫だよ」
「──……誘ってくれたのに悪いけど、断るよ。僕別に、あんまりメッセージとか送らないし」
バッグに荷物を詰めながら当たり前に答えると、目の前の彼女は一瞬、眉根を寄せて表情を歪める。でもすぐに苦笑して、スマホを自分のバッグに戻した。
”トオル”っていうのは確か、テラシマの名前だ。確かにテラシマとはよく話してるかもしれないけど、だからといって何人いるかも分からないトークグループに入るなんて意味が分からない。話すこともないのに。
「まあ、……急にこんなこと言われても困るかもしれないけどさ。天ケ谷君、もっといろんな人と喋った方が絶対楽しいと思うんだよね。トオルがさ、天ケ谷君のこと”結構面白いやつだ”って話してたの。みんなも私もそんなの知らないし、知りたいと思っても、切っ掛けが無かったでしょ?」
そう言って、肩を竦める。彼女が話す間、僕はどうやってこの場をすり抜けようかと考えていた。
「もっと友達作った方がいいよ。天ケ谷君なら、人気間違いなしだよ」
その明るい声には、ほんの少しだけ苛立ちが滲んでいる気がした。僕は何だか責められているような気分になって、目の前の相手が何でそんなことを言うのかと理解に苦しむ。この人は前からそうだ。うるさいほど賑やかで、思惑が渦巻くような世界へと僕を手招いてくる。勝手に僕を理解した気になって、勝手に僕を定義づけて、勝手に導こうとする。僕自身の望みより、それ以外のものの方が大事であるかのように。
「──ま、いいや。気が向いたらトオルに言ってね。こっちはいつでも歓迎だから」
片手を振って向こうから去ってくれたことで僕は解放された。肩を落としたシャツにジーンズ姿の彼女は、教室の出入り口で友達らしき人物と合流して笑いながら視界の端に消える。
ああやって話の中心にいることの何が心地いいのか分からないな。何の強引さもなく接点を持ったテラシマみたく、自然に話すようになる方が僕はすんなりとお互いの関係性を受け入れられる。
メッセージアプリのグループなんか論外だ。雑談するのにグループが必要な意味も分からない。──でも、多くの人はそうやって他人と接しながら生きてる。それが普通。
僕は、おかしいのかもしれない。それは前から分かっていたことで、それでいいと思ってた。でもそうやって変わらずにいたことによって、透子ちゃんとの関係が今崩れてる。透子ちゃんにも、もっと周りと付き合えって言われてきた。つまり僕は、間違ってる。
でも、何も思い浮かばないんだよ。新しい関係を築くための会話も、相手への興味も、何も湧かないんだ。どれだけ間違ってるって言われても、笑顔を取り繕えたとしても、感情が全く乗らないんだ。
透子ちゃんだけは違って、特別だ。透子ちゃんは僕にとって大事な人。僕は別に、この気持ちを透子ちゃんが分かってくれるだけでいい。透子ちゃんの特別が欲しいわけじゃない。透子ちゃんはただ普通に、僕と接してくれればいい。でもそれを伝えようとすればするほど、透子ちゃんは僕から離れたがる。──それが何でなのか……僕が他に友達を作ったら分かるものなんだろうか? 透子ちゃんが離れたがってるから離れるんじゃなくて、僕が”普通”になるために離れれば、透子ちゃんは僕を認めてくれるんだろうか?
トークグループのことなんかすぐに忘れて、僕は結局、そんなことばかりを考えていた。そして唯一、透子ちゃん以外で登録しているトークルームをタップした。
”相談したいことがある”とメッセージを送ったら、テラシマは驚いたようだった。ほとんどやり取りしないから、全然動いてなかったメッセージが久々に更新された。テラシマは”え”と一文字打った後、”何?”とすぐに本題を促してくれた。
文字に打とうとすると、曖昧すぎる自分の気持ちが上手く表現出来ないことに気づいた。だからついさっきあった出来事を話の取っ掛かりにする。あの女の子が僕を、あの子の仲間のトークグループに誘ったこと。僕は気乗りしないこと。そしたらテラシマは、”マジか”とだけ返してきた。断片的な返事は間が開いていて、講義か制作の途中なのかもしれない。
空きコマの僕も本当は課題の制作に入らないといけない。けど集中できそうになくて、結局図書館のブースに篭ってグダグダしてる。壁面演出のプロダクト制作課題があるけど、額縁の構想があるだけでスケッチすら途中だ。
壁を彩る物として浮かぶのは絵だった。そして僕が作るとしたら、それを支えるフレーム。絵が主役だからシンプルなものが定番なのかもしれないけど、フレームだって絵をさらに演出するためのアートであるべきだ。そう思ったけど、頭に靄がかかったみたいに曖昧なものしか浮かばなくて、まるで僕の心の中みたいに形を成さずに停滞してる。
昨日見た透子ちゃんの絵。あの絵を見たら、少しだけイメージが浮かんだ気がした。頭の中がクリアになった気がしたけど、今はそれが気のせいだったかのように希薄だ。締め切りはあるからいつかは本腰入れなきゃいけないけど、今は無理。そう言い訳して、大学生の本分を体よく放棄して……絵と向き合って悩んでる透子ちゃんとは大違いだ。
テラシマからの返事が無いのでぼうっとしてたら、通知が来た。ポップアップされたメッセージを見れば、”カフェにいる”と短い伝言。九十分を無駄にした僕はさっさと立ち上がり、移動しながら”分かった”と返事を打った。
カフェに着くと、奥の席でテラシマがノートパソコンを開いていた。近付く僕に気づくと視線と片手を軽く上げる。招かれるままに向かいの椅子に腰かけると、ソファの背もたれに寄りかかって伸びをしたテラシマがひとつ、深呼吸をした。
「相談したいことって結局何? カオリのこと? 妹尾サンじゃなくて?」
「透子ちゃんのことは、テラシマに相談しても……」
「……じゃあ何なんだよ? お前が奇妙なメッセージ送ってくるから何かと思えば、何が聞きたいのかイマイチ分かんないし」
「──僕も、イマイチ分かってなくて……」
「はあー?」
テラシマはグラスの中身をストローでぐるぐるとかき混ぜながら、盛大に眉を顰めた。
「お前、自分が変わり者だって自覚ある? オレ、お前の意図汲める自信なんかサラサラないぜ」
「──相談乗ってくれる気はあるってことでいい?」
「……まあ、それはな。どんな相談持ちかけられんのか興味あるし」
パソコンを閉じ、テラシマはいつものポーカーフェイスで聞く体勢に入った。注文もせずに真っ直ぐ席についた手持ち無沙汰な僕は、とりあえず肩から下ろしたバッグを膝の上に乗せながら、頭の中を何とか整理しようと試みる。
「……さっき言っただろ? その……カオリって子に、トークグループ誘われたって」
「ああ。そんで、乗り気じゃないんだろ?」
「うん、まあ」
「じゃ、別にそれでいいんじゃね? 無理して入ることねーし」
「そうなんだけど、さ」
煮え切らない僕を、テラシマは別に責めなかった。言い出すのを待っている様子もなく、ただストローを加えてる。僕は氷がグラスの中で泳ぐ音を聞きながら、逸らしていた視線をテラシマの顎先に移した。
「テラシマもそのグループに入ってるんだろ? 何で?」
「何でって別に、誘われたから」
「誘われたら、入るのが普通?」
「そりゃお前、人によるだろ」
理解に苦しむといった表情だった。でも、僕もテラシマの言うことがいまいち分からなかった。
「人によるの?」
「オレは別に名前入れとくぐらいいいかなって思っただけだから。入っときゃとりあえず身内認定されるだろうし、たまにメンションされたり名指しされたりすんのダルいけど、その時はスルーすりゃいい話だし。でもお前はそういうの苦手そうじゃん。──だから、人によるって話」
不器用扱いされてる。こう見えて僕は周りに合わせようと思えば合わせられるつもりだけど、どうやらそういうことじゃないらしい。
「お前、ちょっとした発言ですぐ誤解されそうだしなぁ」
それは、勝手に周りが僕の印象を作り上げてるからだ。僕の言動が予想と外れると、勝手に幻滅するんだろう。僕はそうやって一度幻滅されたら、きっと許されない。でもテラシマは何となく許されそうな気がする。──ああ、”人による”ってそういうことか。
「……僕、普通にしてみた方がいいのかな? テラシマみたいに、色んなところに平然と佇んでるような人になった方がいいと思う?」
「──……そのオレの評価は心外だけどな。普通にしてみようと思ってするぐらいなら、しない方が良いと思うぜ」
「──どういうこと?」
「…………お前ってさ、個性的なようで意外と無個性だよな」
テラシマは溜息を漏らすように笑った。
「妹尾サンのために、”普通”になりたがってんだろ?」
僕は目を瞠った。確かに透子ちゃんとのことはよく話すけど、そこまでは言ってない。むしろ僕は、テラシマに言われて今、自分の気持ちが腑に落ちた気がした。
「お前の内心を知ってか知らずか、カオリはせっせと世話焼こうとしてるみたいだし……ま、お優しいことだよな」
周りからしたら、確かに僕は優しくされてるんだろう。僕はそうは思わないけど、でも、扉を開けて中へ誘って、僕を受け入れようとしてくれている。僕は素っ気無いはずなのに、それでも接点を築こうとしてくれている。これは本来、破格の優しさなんだろう。
「──でもさ」
テラシマが、グラスを置いたまま中のコーヒーをストローでかき混ぜた。氷が溶け、水と分離していた液体が緩やかに混ざっていく。そんな小さな渦に視線を落としながら、呟くように続ける。
「カオリ、妹尾サンに声かけてる様子って無いんだよな。──ひとりでいるお前にしてるみたいにさ」
ぼそりと言って、薄くなったコーヒーを吸い上げる。汗をかいたグラスからぼたぼたと水滴が落ち、テーブルを濡らす。テラシマは徐に、ガラスの向こう側に視線を移した。感情の読めない、力なくも見える瞳が外を歩く学生たちの流れを追っている。
僕は、テラシマの発言の意図が掴めなかった。彼が言葉の裏に何かを伝えたかったのか……ただ思いついた言葉を紡いだだけなのか、分からなかった。
「──結局さ、やってみなきゃ何も分かんないし、お前がしてみたいようにするのが良いと思うけど……ひとつ言っとくと」
グラスの中身を空にして、残った溶け掛けの氷まで口に放り込んで噛み砕き、テラシマは横目で僕を見た。
「”優しさ”も、”人による”よ。──打算の割合とかさ」
なぜか、心臓が締め付けられたような気がした。頭の中で”僕は違う”と繰り返す僕の声が渦巻き始め、テラシマに応えられない。
僕は透子ちゃんに特別優しくしてるつもりはない。でもきっと、僕が透子ちゃんを大事に思ってることは、優しさと繋げられる。でも僕は、自分のために透子ちゃんに優しくしてるわけじゃない。
僕は違う、僕は違う、僕は違う──そうやって翻弄されていると、テラシマは僕の顔を見て小さく肩を竦める。そして、苦笑しながら最後にこう言った。
「ま、グループ入ったらめちゃくちゃ絡まれるだろうけど、それでも良いなら試しに入ってみたらいいんじゃね? でも別に強要はしないぜ。オレから言えるのは、そんぐらい」
ノートパソコンが再び開かれる。テラシマは二杯目を注文しに席を立つ。
僕は結局、”そうするよ”とは言えなかった。




