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マネキン男とサボテン女  作者: pochi.


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4話 割れた橋の先端

「しばらく顔見せないでって言ったじゃん」

「守れないなら、……絶縁する」


 頭の中で透子ちゃんの冷えた声がずっとこだましている。階段の踊り場で引き止めるために掴んだ手は、呆然としてるうちに振り払われた。階段を駆け下りていく透子ちゃんの背中──なぜかその姿が、今までで一番僕の焦燥感を強めた。


 僕はあの後、周囲の目も気にせずその場を後にした。いくら誰も使わない階段とはいえ、人目が全く無いわけじゃない。なんだか怪訝そうに僕を見る人たちを無視して、その後の講義もすっぽかして家に帰った。


 あれだけ透子ちゃんに伝えようと考えていた言葉もすっかり吹き飛んで、もう同じ言葉が浮かばない。メッセージを送ろうと思ってたのに、……それだけは読んで欲しいって言ったのに、アプリのメッセージ画面を開いたまま、僕の脳みそは停止している。


 僕は、半分落ちてしまった朽ちかけの橋の先端にいる。ちょっとでも身動きすれば橋は崩れて、底の見えない奈落へと永遠の落下を続けることになるだろう。向こう岸には、透子ちゃんの背中が小さく見える。その顔が、肩越しにでもこっちを見ていてくれないかと期待しながら、僕はただ、彼女から目を離すことが出来ずにいる。





 あれから約束通り……僕はまた、極力透子ちゃんの視界に入らないように心がけた。せめてときどき視界の端に後ろ頭を見てしまうのは許してほしい。あの、透子ちゃんらしさが詰まった正面からしか見ることができない紫のインナーカラー。それももう……随分目にしていない。


 不思議なことに、最近はほとんど誰からも声を掛けられなくなった。ほぼ初対面なのに妙に馴れ馴れしかった男子生徒も、妙に上目遣いの女子生徒もいなくなった。僕はそれが逆に心地よくて、独りでの時間を満喫した。──改めて思い出す。透子ちゃんと知り合う前は、独りが一番楽で、心地よかったこと。”あっちの世界”に僕が存在しないのが、僕の常識だったこと。


 でもそんな見えない壁を越えてくるのは、相変わらず変わり者のテラシマと、──あの、女の子だった。


「ねぇねぇ、天ケ谷君。最近ずっと一人でいるけど、大丈夫?」


 カフェのいつもの席で軽食をとっていると、隣の二人席に女の子二人組がやって来た。見覚えがある。よく二人で一緒にいる、テニスサークルの子だ。


 一人は茶髪のロングヘアにシンプルなシャツとジーンズ、パンプス。アクセサリーは多分ブランド物だ。決して目立つ格好じゃないけど、自分のスタイルと顔を把握しきってる服装とメイクで、周りより大人っぽい。


 もう一人は小柄で、黒髪ロングヘアに眼鏡の女の子だ。いつも黒っぽいトレーナーと、デニムのスカートやジーンズを履いている。靴もスニーカーだ。この子は透子ちゃんと同じ絵画部だから、汚れても良い服装なんだろう。いつも俯いて、ほとんど喋ってるのを見たことがない。


 僕がそんなことを思っていると、茶髪の方が苦笑混じりにまた声を掛けてきた。


「……聞いてる? ていうか、本当に大丈夫?」


 隣のソファ席に座ったその子はこちらを覗き込むようにして、垂れた髪を耳に掛ける。すると、香水の甘ったるい香りがして、反射的にのけぞってしまう。彼女の向かいの椅子に座ったもう一人の子は、両手でグラスを持ってストローを加えながら、窺うようにこちらを見ていた。


「聞いてる。質問の意味がよく分からないけど、僕は別に普通だよ」


 そう答えると、隣の子は小さく笑った。僕の肩に手が触れて、数回叩かれる。僕が眉を顰めると、彼女は眉尻を下げた。


「またまた。平気な顔してるけど、ホントはショック受けてるんじゃない? ……妹尾さんと喧嘩したんでしょ? 噂になってるよ」


 踊り場での一件だ、とすぐに気付いた。なんで透子ちゃんとのことがいちいち噂になるのか不思議だ。僕は胸の内が浮いたような気持ち悪さを感じて、「へえ」と曖昧な返事で誤魔化した。


「ていうか私、実はたまたま通りがかって現場見ちゃったんだけどさ。結構態度キツかったじゃん? 天ケ谷君最近沈んでるように見えるしさ、この際……距離置いてみたらいいんじゃない?」


 その子がそう言って、「ねえ、エリ?」って向かいの子に同意を求める。ああそうだ、そういえば眼鏡の子はエリとか呼ばれてたな。そんなふうに思ってそっちを見たら、エリって子は控えめに頷いた。


「……他人には、関係ないことだと思うけど」


 僕は視線を手元のコーヒーに戻して、小さく反発の意を示した。正直もう話しかけてほしくなかったけど、僕の思いは通じなかった。


「…………そうね。そりゃ二人の問題ではあるけど、──ま、ありがたいアドバイスと思って受け取ってみてよ。実際そうしてみた方がいいんじゃない? って思うし。顔見せないでって思ってる人に近づかれるのって、女的には結構ツラいもんだよ」


 彼女はそう言って、またエリって子に向かって「ね、エリ?」と話を振った。するとまた同意を示す頷きが返されて、僕はさらに居心地が悪くなる。


 でも、受け入れたくはないけど、……確かに、透子ちゃんの気持ちをあまり考えていなかったのは確かかもしれない、と思った。なんで急に突き放すようなことを言うのか全く分からないんだけど、透子ちゃんがそうしたがる理由を想像することすらしてなかった。思い返せば僕は、自分のことばかり考えて行動していた。──彼女の言うことも、一理あるのかもしれない。……それが、世間の常識なのかもしれない。


「……考えてみるよ。ありがとう」


 それだけ言って、僕は飲みかけのコーヒーをそのままに席を立った。彼女の言い分を受け入れることに精一杯で、とにかくそれ以上、話を続けたくなかった。





 僕の生活は、大学とバイト先と家の単純な移動を繰り返すだけになった。そうするとメッセージアプリもたまにテラシマと業務連絡のようなやり取りをするぐらいになって、僕の世界はどんどん静かになっていった。


 バイト先でもぼうっとしがちになった僕を、オーナーのササキさんはよく気にかけて話を聞いてくれた。暇な時間の多い店内のカウンターで、仕事中なのにスツールに座って、互いにコーヒーを淹れ合って……窓から差してくる陽だまりとか夕焼けとか、夜にちらくつく車のヘッドライトの明かりを背景に、いろんなことを話した気がする。


 夫に先立たれてしまったササキさんは、僕によく二人の思い出話をしてくれた。僕はその話が好きで、まるで小説の続きを待ちわびるようにせがむようになって、──今日は、出会いの切っ掛けを聞かせて欲しいと頼んだ。


「道雄さんとはお見合い結婚だったんだけどねぇ。……とっても誠実な人で、何度も手紙を寄越してくれたの。──でも私は恋愛結婚に憧れてたから、最初はそれを読みもしなかったのよ」


 ササキさんはそう言って懐かしそうに笑った。目を細め、カップに注がれたブラックコーヒーの反射の世界に思い出を浮かべているようだった。


「捨てたんですか?」

「いえいえ、そんなことはしないわよ。封を切らずに、押入れの箱の中に入れて鍵を掛けてたの。……今となっては何でそんなことしたのか覚えてないんだけどね。──ああ、両親に手紙を読んでないことがバレないようにしていたのかも」


 穏やかに笑いながら、ササキさんはコーヒーを一口啜った。


「でもそんなのは些細な抵抗でね。ある時、道雄さんとはどうなってるんだと親から責められて……それで、初めて一番上に積まれた手紙を何となしに開いてみたの。そしたら、なんて書いてあったと思う?」


 悪戯眼差しでこちらを見上げてくるササキさんは、すごく楽しそうだ。僕はなんだか目頭が熱くなるような気がして、彼女の真似をしてコーヒーの黒い水面に視線を落とした。


「……ええ? 分かんないな。──誠実な人だとしたら、……ありきたりかもしれないけど、純粋に告白とかですか?」


 僕の答えに、ササキさんは心底可笑しそうな声で笑った。揺れる肩からカップを守るようにソーサーへ戻す。骨董品のような花柄が描かれた白磁のティーセットは、ササキさん専用の品だ。


「ふふふ、そう思うでしょう? 当時の私も何を思い上がってたのか、そうだと疑わなかったわ。──でもね、彼ったら……ふふ、自分の好きなものをつらつらと書き連ねた挙句、最後に必ず、勝手に待ち合わせの予定を決めていたの」

「え、どういう事です?」


 怪訝そうな顔が予想通りだったのか、ササキさんはさらに堪えるような笑いを零して続けた。


「”私は魚類が好きなのですが、次の週末、観魚室へ参りましょう”、”近頃の趣味は活動写真の観賞です。もしよければ次の週末、活動写真館へ共に参りませんか?”、……”巷ではジャズが流行っておりますが、私も例に漏れず好んで聴いております。つきましては次の週末、銀座のカフェーへ参りましょう。駅でお待ちしています”」


 ぽつぽつと述べられたのは、どれも独りよがりな誘いだった。僕は目を丸くしたが、ササキさんは思い出し笑いに肩を揺らし、やがて目を伏せた。


「他にもあったけど、場所こそ違えど全部同じような内容で……どれもしっかり時間指定までしてて、呆気に取られちゃったんだけどね。試しに一番新しい手紙に書かれた場所に行ってみたの。……そしたら、駅の出入り口の、街灯の下に見覚えある背広姿を見つけてね」


 頭の中にその時の情景を思い浮かべているんだろう。ササキさんは口元に微笑みを湛えたまま、静かに語り続けた。


「様子を見に行っただけだったから、服装なんて少しも考えてなかったの。……でも、街灯の下でぽつんとスポットライトを浴びてる道雄さんを見た途端、色んなものがこみ上げてくるような感じがして、思わず駆け寄っちゃったのよ。そしたら彼、嬉しそうに笑って、”ようやく来てくださったんですね”って」


 まるで、映画のような話だと思った。でもササキさんの表情がフィクションじゃないことを物語っていて、僕は唐突に、道雄さんの感情が乗り移ったように喜びを感じた気がした。


「その後そのまま喫茶店に行って、以降はちゃんと手紙の返事も書いて、週末一緒に出かけるようになったの。私は彼の手紙が待ち遠しくなっていて、何度も段階を踏む行為に、寧ろなぜそんなに奥手なんだってヤキモキするようになってしまって……随分勝手な女だったわ」


 ササキさんはコーヒーを一口飲むと、僕に向き直った。なんだか心が温まるような感覚に浸っていた僕は、突然の視線に驚いて、持ち上げかけたカップの手を止める。僕と視線が合うと、ササキさんは慰めるような笑いを向けた。


「私の中の道雄さんからアドバイスがあるとしたら、”待ってみるのもひとつの手だぞ”って、言うかもしれないわね」


 だから、あんまり気にしないで。──と、ササキさんはそう言って話を終えた。ちょうど、常連客が来る時間だったからだ。程なくしてドアベルが鳴り、サラリーマンの一人客がカウンターに座る。外はもう暗い。店内の控えめなダウンライトの下で小さな会話が繰り広げられる。


 僕は時折会話に混じりながら、ふと、夜の街頭のスポットライトを鮮明に思い浮かべていた。





 ”待つ”ということ。それは僕にとって、不安なことでしかない。常に一緒だった透子ちゃんが離れた場所で、僕の知らない生活をしてるって考えると、寒気すら感じる──と思っていた。


 僕は自分の部屋のベッドの上で、コンクリートの天井を見上げて物思いにふけった。ササキさんが話した、道雄さんの話──あれは、同じ”待つ”でも意味が違うような気がする。相手のことなんかほとんど知らないはずなのに、来るかどうかも分からない相手を何度も待ち続けた人。まるで忠犬みたいだ、なんて思うこともできるけど……ひたむきな人って道雄さんみたいな人のことを言うんだろうか、とも思う。僕は、彼と同じことが出来るだろうか。今なら、吹き飛んでしまったメッセージが思い出せるような気がした。


「──あ、そうだ。……水やらないと」


 ふと思い出して起き上がり、部屋を横切って窓際にあるシェルフのもとへ向かう。一番上に飾ってあるのは、サボテンの鉢植え。もう十年以上の付き合いで、毎年春ごろに冠のような花を咲かせるんだ。来年もまたその姿が見られるように、ちゃんと育てないと。透子ちゃんからの贈り物で、僕の大事な宝物なんだから。


「前は枯らしてたけど、サボテンだったらアンタでも育てられるはずだって」


 そう言って、鉢植えをそのまま持って来た小さな透子ちゃんの姿は、今でも鮮明に思い出せる。この郷愁に満ちた右脳で自分の思いを鮮やかに描いて、それを左脳で文字にして綴っていこう。僕は机に向かい、恭しくスマホを置いて、メッセージアプリを開いた。





 翌日。二限の講義を終えて講義室を出ると、図書館に向かった。三限が空きコマだから、昼休みで食堂が混む時間帯を避けられる。そういう時、時間を潰すのには格好の場所だ。


 無事に個人ブースに入ることが出来て、荷物を下ろしてほっと息を吐く。椅子に落ち着くと、とりあえず目を閉じて無音の空間に浸る。


 昨日、透子ちゃんにひとつだけメッセージを送った。見てくれなくてもいい、返事が無くてもいい。これが最後でもいいから、これだけ言わせて欲しいって前置きをして……送った後、透子ちゃんからの通知はオフに設定した。返事が無いことを実感したくないっていう、最後の足掻きみたいで情けなかったけど。それから、透子ちゃんとのチャットは見ないようにしてる。幸か不幸か、テラシマとかササキさんとか、母さんからのメッセージが透子ちゃんの名前を下に追いやった。あと、アプリゲームの通知も。だからわりと簡単に目を逸らすことが出来てしまっている。


 ”僕は、どんなことがあっても透子ちゃんが大事。大事で、特別なんだけど──特別じゃない”と、そんなメッセージを送った。特別だけど特別じゃないって矛盾してるけど、それ以外に言いようがなかったから、そのまま送った。それを見て透子ちゃんがどう思うのかは分からないけど、ひとまずは、それでいい。サボテンみたいに、水をあげすぎると萎んじゃうだろうから。


 それも以前、透子ちゃんに言われたことだった。母さんからもらったサボテンをすぐ枯らしてしまって、それでもまだ水をあげれば復活するんじゃないかって世話を続けてたら、遊びに来た透子ちゃんが呆れて教えてくれたんだ。


「サボテンは体の中に水を蓄えてるんだよ。だから、水をあげすぎると腐っちゃうの」


 そう言って、萎れてしまったサボテンはもう戻らないことも教えてくれた。母さんも教えてくれようとしてたみたいだったけど、僕がずっと水をあげてるから言えなかったんだって、後から話してくれたっけ。


 昔の記憶がどんどん蘇ってくる。そうなると止まらなくなるから、頭を振って吹き飛ばす。透子ちゃんは公募に向けてキャンバスと睨み合ってるところだろう。将来は画家になるって言って、ちゃんとした目標がある。──もう子供じゃない。


 僕は自分がどんな道に進みたいのか、あまり真剣に考えたことがない。講義を選ばなきゃいけないからそれだけは考えたけど、これなら続けられそうってだけでプロダクトデザイン系を多く選んだ。僕が思いつくのはミニマリズムを投影したモノばっかりで、奇抜さとは縁が無い。でも透子ちゃんの描く絵を思い出すと、たまにとてつもなく洗練されてそうなモノが浮かぶ。色づかいとか、思い切りの良さとか──いや、やめよう。考え事をすると結局いつも透子ちゃんに行きついてしまう。


 三限の時間まで適当に読書して過ごすと、カフェへ向かった。正直食堂のほうが人口密度が高いから、授業中のカフェは大体空いている。けど想定外にも、いつもの席には既に客がいた。


 こちらに気付くと、そいつは軽く手を振ってきた。──テラシマだ。溜息を吐いて別の空席を探そうとすると、テラシマは意外にも手招きをして僕を呼び寄せた。


 仕方がないので呼ばれるがまま、僕はテラシマの向かいに座った。財布だけ持ってカウンターで注文をし、トレーを携えて戻る。テラシマはイヤホンを耳から外して、何やら僕に用事があるようだった。


「よ、天ケ谷」

「……何か用?」


 相変わらず、テラシマは淡々と軽い。表情も乏しいけど、何故か妙な親しみやすさがある。彼はグラスで二層に分離しかけていたコーヒーをストローでかき混ぜながら、「まあな」と呟くように答えた。


「いや、お前大丈夫かなーと思って」

「…………透子ちゃんとのこと?」


 既視感。先日女の子たちに聞かれた事と同じで、気分が沈む。放っておいてくれないか、というのが表情に出てたのか、テラシマは目ざとく僕の感情を読んで首を捻った。


「うーん、っていうか……カオリのこと?」

「…………カオリ?」

「え、お前マジ? 散々お前に絡みに行ってるだろ。──今井佳織。よく、花岡絵里っていう眼鏡かけた子と一緒にいる。……まさかそっちも記憶にナシ?」


 名前がピンと来なくて返事に戸惑った僕に、テラシマは心底呆れたような眼差しを向けた。説明を受けると顔は思い浮かんだので、僕は悪気なく「ああ」と返事をした。


「テニスサークルの?」

「そうだよ。お前よく覚えないでいられるな……目立つだろ、アイツ」


 テラシマは大袈裟な抑揚をつけてそう言って苦笑する。けどその瞳は、それほど気にしてなさそうにも見えた。


「ちょくちょく話しかけられるな、とは思ってたけど……別にそれほど接点も無いし」

「お前の記憶に残ってないだけってわけじゃなくて? ったくこっちはサークル顔出すたんびにお前の話されるってのに……報われねぇなぁ」


 独り言のように愚痴ると、テラシマはさっさと話を元に戻した。


「いや、お前さ、妹尾サンと何かあったんだろ? で、カオリが心配してんのか気を引きたいのか──まあどっちもなんだろうけど、最近会話がお前一色なんだよ。あっちこっちでその話してお前が大丈夫かいろんな奴に聞いてるみたいだからさ、本人にも突撃してんじゃねぇかなと思って」

「……まあ、昨日一回だけなら」


 それほどまでに気にかけられていたとは知らなかった。サークルに散々誘われた事はあったけど、断り続けたらそんなにそれも無くなったし、最近ではあまり気にしなくなっていた。──昨日は流石に驚いたけど。


 テラシマは僕の返答に「やっぱり」といった感じで眉を持ち上げた。


「ったく、おせっかいな奴。……お前、なんて言われたの?」

「大丈夫、とか、距離とったほうがいいとか……そんな感じのこと」

「で、なんて答えたんだよ」

「考えてみるって」


 僕は飲み込んだサンドイッチをコーヒーで流しながら、短く答えた。テラシマは「ふうん」と何とも言えない返事をして、今度は手持ち無沙汰にコーヒーを掻き混ぜた。


「……それが、何?」

「考えてみて、どうすることにしたんだ?」

「──え」


 意外な質問だった。テラシマから踏み込んだ質問をされたことが無かったから。表情や雰囲気は変わらないのに、なにかいつもと違う空気が漂う。僕はそれに、少なからず動揺した気がした。


「…………しばらく、距離を置こうかなって」

「マジ? カオリの助言聞いたの? お前が?」

「というより、バイト先のササキさんの話が切っ掛けかな。しつこく分かって貰おうとするより、待つことも大事かもって思って」


 するとテラシマはまた、「ふうん」と呆けたような声を漏らした。それからササキさんの話がどんな話だったのか聞いてきたから、昨日聞いたばかりの話をかいつまんで聞かせた。そしたら珍しく、難しい表情で小さく唸った。


「──それってさ、妹尾サンは大丈夫なわけ?」

「……え?」


 再びの意外な質問。僕はいよいよテラシマがいつにも増して何を考えているのか分からなくなった。──僕が言えることでもないけれど。


「……だって、透子ちゃんの方から僕と──距離を置きたいって言ってきたんだよ?」

「理由は?」

「何回も聞いたけど、分からずじまいだった。だから、透子ちゃんの気持ちを考えて……距離を置こうと」

「俺、思うんだけどさ」


 テラシマは僕の言葉を遮って、いつの間にかいつも通りの淡々とした表情と声でそう切り出した。


「”誰か”の体験談って、所詮”誰か”のものでしかないんだよ。その二人だからそうなったってだけで、お前と妹尾サンは違うかもしれないだろ」


 心臓が軋んだ気がした。テラシマの言葉が針となって刺さって、抜いたら血が溢れるんじゃ無いかっていうぐらいの恐怖にも似た感情が脳に染みていく。またあの妙な焦燥感みたいなものが全身を蝕んで──僕の平静は短い寿命を終えた。


 僕が固まっているうちに、テラシマはグラスの中身を勢いよく飲み干した。


「もっと気を付けろよ。──色んなこと」


 そう言い残して、テラシマは席を立った。僕は呆けたような返事をして、カフェを出ていくテラシマの背中を見送って……ひとまず彼が座ってた席に移動した。透子ちゃんがよく使ってた、僕にとっての特等席。


 この席で、透子ちゃんはいつもどんなことを考えていたんだろう。





 あの、今井さんって子が言ったこと、ササキさんの思い出話、そして──テラシマが言ったこと。僕の中では全部、答えのような気がした。でもじゃあ、僕の答えは? 透子ちゃんの気持ちを考えた上で、僕はどう考えを改めたらいいのか。その答えはすぐに出せなかった。


 透子ちゃんは僕から離れたがってる。僕はそれを押し切っていつも通り一緒にいたいけど、そうすると関係そのものが終わってしまう。でも僕は内心、様子が気になって仕方ない。テラシマも、気を付けろって言った。


 全部綯い交ぜになった結果、僕は、透子ちゃんの様子を見てみることにした。──透子ちゃんには、バレないように。オフにしてた通知は結局また元に戻した。僕がトークルームを開かなきゃいい話だし。それに、もしかしたら僕と一緒じゃない透子ちゃんを見たら、何かわかるんじゃないかと思った。


 僕は五限の演習を終え、ほとんど上の空で自分の作品のアイデア出しをして……暗くなってから、絵画棟へ足を運んだ。荷物は全部、ロッカーや教室に置き去りだ。夜にもなれば、アトリエに籠もって作品を描き進めてる生徒もバイトや帰宅で姿を消していく。僕は透子ちゃんが、バイトの無い日は閉館ギリギリまで粘っているのを知っている。百号のキャンバスをイーゼルに固定して、パーテーションに仕切られただけの自分のスペースで、只管筆を動かしてるんだ。


 絵画棟に入って、目的のアトリエまで廊下を歩く。昼間と違って夜の校舎はすごく静かだ。スニーカーが、絵具の染みの残るリノリウムの床で音を立てないよう、自然と忍び足になる。蛍光灯の青白い光がそんな僕を冷たく見下ろしている。


 最後の角を曲がった時、誰かとぶつかりかけた。驚いて肩を跳ねさせながら一歩後ずさったのは、記憶に新しい人物だった。今日の昼、テラシマから初めて聞いた──確か、ハナオカさん。


「あ、ご、……ごめんなさい」


 彼女は俯きながら、握った両手の拳を胸元に持ち上げた。黒いトレーナーには所々に色が滲んでいる。小柄な彼女を見下ろす時に目に入った白いスニーカーにも、まるで最初からそういうデザインだったかのように色彩が飛び散っていた。


「こっちこそごめん。──えっと、ハナオカさん……だっけ」


 何故学科の違う僕がここに居るのか──それを聞かれるのが怖くて話しかけたけど、言ってすぐに下手な誤魔化しだったと後悔した。気まずくなってそそくさと通り過ぎようとしたら、突然顔を上げたハナオカさんと視線がかち合う。眼鏡の向こうの目は見開かれ、彼女は口を小さく開けたまま、呆けた表情で僕を見上げていた。


「……何?」

「あ、名前……」


 彼女の声は聞いたことあるんだろうけどほとんど記憶に無い。初めて聞いたような感覚だったが、雰囲気通り消え入りそうな声だった。


「名前? ハナオカさんじゃなかった?」

「ううん、……お、覚えててくれたんだと、思っただけ」


 そう言ってまた俯く。胸元の拳には力が入っているのが明らかで、何をそんなに緊張しているのかと不思議に思う。でもすぐに、見た感じの印象通りとにかくおとなしい人なんだと僕は結論付けた。


「今日、テラシマが言ってたから」

「そ、そうなんだ……ありがとう……」


 何が「ありがとう」なのか分からないけど、長引かせる必要もない。僕は話を早々に切り上げた。


「帰りなんでしょ? じゃあね」

「あ、うん。……また」


 ハナオカさんは、ボディバッグだけを斜めがけにしていた。絵画科の人って本当に荷物が少ないから羨ましい。僕は普段、あれこれ抱えてることが多いから。


 それにしても、あの人も遅くまで居るタイプなんだな。別れた後にちらりと振り返ったみたが、もう角を曲がった後だったからそこには誰も居なかった。僕は気を取り直して、息まで潜め、透子ちゃんのアトリエへと足を進めた。


 ほとんど消灯されたアトリエは、大体透子ちゃんのスペースのところだけ蛍光灯の明かりに照らされている。今日もそうだった。それが何だか舞台みたいで、モノクロの無声映画のような趣がある。実際の透子ちゃんは服や手や顔にまで油彩絵具を散らしながら、狂気迫る無表情でキャンバスに向かっている。


──そのはずだった。そっと爪先で歩きながら、パーテーションに隠れつつ視界に捉えた透子ちゃんは、キャンバスを前に立ち尽くしていた。両手をだらりと下げていて、その下の床ではパレットや筆などの画材が絵具を散らしている。空調が低く唸り、その風に小さくはためく、他のキャンバスに掛けられた布やシートの音。それだけが部屋の中で渦巻いている。僕はそのわずかな雑音に紛れ、どうにか彼女の背中越しに……作品を覗き見た。


 縁を靄のような黒が蠢き、中央に向かって赤やオレンジ、黄色の色彩に滲んでいく。それは、暗い部屋にたった一つだけ取り付けられた白熱電球の灯りのようで、所々に星空の穴が空いている。濃い青や、飛沫のような白……僕が知るよりも、遥かにキャンバスは埋められていた。だから、透子ちゃんに隠れて見えない中央部分に何があるのか、僕はまだ知らない。


 パーテーションの陰に隠れつつ、僕はそれを見ようと背伸びをした。けどそんなことをしなくても、簡単にキャンバスは全貌を現した。


 ガシャン!


 大きな音に、肩が跳ねる。透子ちゃんが何かを投げたらしい。それがキャンバスに跳ね返り、床を滑る。次の瞬間、徐に彼女がしゃがみ込んだ。そのせいで隠れていた部分が露わになる。


 息を呑んだ。暗闇と灯火、熱と冷気が入り混じって銀河にも見える絵だった。そして同時に──中央を走る一本の裂傷に気付いた。


 中央に描かれようとしていたのは、光芒のような一筋。その一筋に沿ってキャンバスを真っ二つに裂くような──


──異様な傷跡が残されていた。

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