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異世界交番 遺失物係 ―世界という落とし物を、持ち主に返すまで―  作者: もしものべりすと


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第九章 符牒

王都ヴェーラへは、馬車で、五日の道のりだった。


 俺と、ノエと、メルヴ。世界一小さな帳場の、三人旅だった。ガレトは、「町は、俺が見てる。留守は任せろ」と、胸を叩いて、送り出してくれた。


 道中、俺は、あの通行証の符牒を、メルヴと二人、解き続けた。


 符牒というのは、慣れれば、ただの、決まりごとだ。この記号が、この棚。この線の数が、この階。規則さえ掴めば、あとは、根気の作業だった。四十年、細かい書類と、にらめっこしてきた、落とし物係の、得意分野でもあった。


 「ミノワは、すごいね」ノエが、揺れる馬車のなかで言った。「難しい暗号、どんどん、読んじゃう」


 「暗号ってのは、隠したい奴が、作るもんだ」俺は、答えた。「隠したいってことは、そこに、隠したい何かが、確かにある。それが、読む側の、いちばんの手がかりだ。何もない場所に、鍵は、かけない」


 旅は、静かだった。


 窓の外を麦の畑が、流れていく。だが、五日の道のりの、半分ほどを過ぎた頃から、その景色が、変わり始めた。


 畑の、ところどころに、ぽっかりと、色の抜けた空白がある。俺の眼には、そこに、耕す者を失った鍬や、脱ぎ捨てられた麦わら帽子が、白く、視えた。零れが、王都の近くまで、迫ってきているのだ。


 「王都に近いほど、零れは、遅いはずじゃ、なかったの」ノエが、不安げに、言った。


 「早まってる」メルヴが、暗い声で答えた。「近ごろ、勇者王が、また、喪の主を討つと、宣言したそうだ。派手な儀式をするらしい。……そのたびに、なぜか、零れは、深まる」


 俺は、その言葉を台帳に書き留めた。勇者が救うと言うたびに、零れが深まる。このあべこべの符合が、事件の、核心に繋がっている気がした。


 夜、宿の、粗末な灯りの下で、俺は、符牒を解き続けた。


 メルヴが、教会の暗号の、基本を教え、俺が、その規則から、抜けや、例外を拾っていく。落とし物係の仕事と、同じだった。台帳の、書き損じや、数の合わない一行にこそ、真実が、隠れている。


 解き進めるうちに、俺は、あることに気づき始めた。


 この符牒の、記号の組み方。点と線の、並べ方。それが、どこかで、見たものと、よく似ている。


 どこで、見た。


 馬車が、街道の、大きな広場に、差しかかった、その時だった。


 俺は、思い出した。


 ◇


 その広場には、あの英雄王の石碑が、立っていた。


 俺が、この世界で、最初に、鷲塚の顔を見た、あの碑だ。剣を掲げた、勇壮な英雄の像。その台座には、救済神話を讃える、長い碑文が、彫られていた。


 俺は、馬車を止めさせた。


 「どうしたの、ミノワ」


 「……あれだ」


 俺は、石碑の、台座に、歩み寄った。碑文を指で、なぞる。勇者が、喪の主を討ち、世界を救った。その美しい、嘘の物語。


 だが、俺の眼は、文字の、その奥を視ていた。


 碑文の、文字の、へこみの、深さ。彫りの、角度。一見、ただの飾りに見える、文字と文字の、あいだの、小さな刻み。


 それが、あの符牒と、同じ規則で、並んでいた。


 「メルヴ」俺は、掠れた声で、呼んだ。「この碑文……表と、裏が、ある」


 「なんだと」


 「表は、勇者の物語だ。誰もが読める、救済神話。だが、その文字の、彫りの奥に、符牒が、隠されてる。飾りのふりをして。……これは、二重書きだ」


 俺は、石碑の前に、膝をついた。


 夕暮れの、斜めの光が、碑文の、彫りの奥に、影を作る。その影の、濃淡。ふだんは、ただの装飾に、埋もれて見えない、微かな刻み。それが、光の角度が、変わった、この一瞬だけ、浮かび上がっていた。


 俺の眼が、その一つ一つを拾っていく。点。線。間。点。


 現認の眼と、四十年の、書類を読む眼と、教会の符牒の知識。その三つが、重なった、たった今、この瞬間にだけ、読める文字だった。


 「……ミノワ、大丈夫?」ノエが、心配そうに、俺の背に、声をかけた。俺の手が、震えていたからだ。


 俺は、震える指で、その隠された符牒を一文字ずつ、拾い読んでいった。


 三百年、誰も、気づかなかった。いや――気づけなかった。この符牒を読むには、教会の古い暗号と、落とし物係の眼と、両方が、いる。世界を一つまたいで来た、俺のような、はぐれ者にしか、読めない。


 拾い読んだ、その符牒の、最初の一文。


 俺は、それを読んで、しばらく、動けなかった。


 ◇


 そこには、こう、書かれていた。


 ――これは、調書である。最初の、現場の、記録である。


 調書。俺の、世界の、言葉だった。


 警察官が、事件の現場で、見聞きした事実をありのままに、書き記した、記録。あとで、誰かが読み返し、真実を突き止められるように。嘘を書いてはならない。それが、調書だ。


 三百年前。ソルナの民が、穴に身を投じた、その現場に立ち会った、誰かがいた。そいつは、教会に命じられて、美しい救済神話の、碑文を彫った。


 だが、そいつは。


 その碑文の、彫りの、奥に。


 誰にも読めない符牒で、本当のことを隠し書きしていた。彫らされた嘘の裏側に、命がけで、事実の調書を遺していた。


 いつか、これを読める者が、現れることを信じて。


 「……こいつは」俺の声が、震えた。「同業者だ」


 「え?」ノエが、聞き返した。


 「三百年前の、俺だ」俺は、碑文を掌で、そっと撫でた。「誰にも、読まれなくても。手柄に、ならなくても。なかったことに、されても。それでも、事実を書き遺した奴が、いた。返される日を信じて。……三百年、この石のなかで、待ってた」


 俺の眼から、熱いものが、こみ上げそうになった。四十年、握りつぶされた一行を抱えてきた俺には、この三百年ぶんの、届かなかった一行の、重さが、痛いほど、わかった。


 碑文を彫った、その男の、気持ちが、視えるようだった。


 嘘を彫れと、命じられた。逆らえば、殺される。家族も、いたかもしれない。だから、表向きは、命じられた通り、美しい神話を彫った。


 だが、その男は、どうしても、事実を闇に葬れなかった。おまわりの、性分だ。見てしまった事実をなかったことには、できない。だから、命がけで、誰にも読めない裏側に、本当の調書を隠した。三百年後の、たった一人の読み手のために。


 「あんた、独りぼっちだったろう」俺は、石に向かって、呟いた。「誰にも、言えなくて。誰にも、褒められなくて。それでも、書いた。……もう、独りじゃない。俺が、読んだぞ。ちゃんと、読んだからな」


 ノエが、俺の隣に、しゃがんだ。そして、自分の首の鈴をそっと両手で包んで、石碑の、彫りに近づけた。


 りん、と、鈴を鳴らす。


 三百年、返事を待っていた誰かへの、初めての、返事のように。


 「聞こえてる?」ノエは、石に、そっと囁いた。「あなたが遺したもの、ちゃんと、届いたよ。もう、忘れられたままには、しないから」


 鈴の音が、夕暮れの広場に、澄んで、消えていった。


 俺は、その光景を黙って、見ていた。


 落とし物には、時効がない。三百年前の、届かなかった調書にも、時効はなかった。ようやく、拾い手が、現れたのだ。


 あとは、これを持ち主に返すだけだ。


 ――だが、持ち主とは、誰なのか。


 その最後の一片は、まだ、王都の地下で、封じられたまま、俺たちを待っている。


 碑文の、符牒は、こう、続いていた。


 ――真実の、原本は、大聖堂、地下。最深書庫。返却を請う。持ち主は――


 そこで、符牒は、風化して、途切れていた。


 持ち主は、誰なのか。


 その最後の一片だけが、王都の、大聖堂の地下に、眠る原本にしか、書かれていない。


 ◇


 「行こう、ミノワ」


 ノエが、俺の袖を引いた。その目は、決意に、燃えていた。


 「三百年、待ってた人がいるんだ。読んでくれる人を。返してくれる人を。……わたしたちが、行かなきゃ」


 俺は、頷いた。


 馬車は、再び、王都へ向けて、走り出した。


 石碑の、英雄王の像が、遠ざかっていく。剣を掲げた、鷲塚の、傲慢な顔が。


 その顔の、足元の、台座の奥に、三百年、隠され続けた、本当の調書があることをあの男は、たぶん、知らない。


 俺は、前を見据えた。


 王都ヴェーラ。勇者王・鷲塚統吾の、膝元。


 十二年ぶりの、再会が、近づいていた。

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