第七章 記録にない村
「ソルナは、実在した」
その夜、交番の奥の部屋で、メルヴは、ようやく、話し始めた。
ランプの灯を挟んで、俺と、ノエと、老人が、車座になった。窓の外は、雨だった。屋根を打つ音が、話し声を外へ漏らさぬように、包んでくれていた。
「三百年前まで、王国の西のはずれに、ソルナという村があった。鈴を作る民の村だ。彼らの鈴は、よく響いた。迷子の子に持たせれば、必ず見つかる。死者の枕元に置けば、迷わず、あの世へ行ける。そう信じられていた」
メルヴは、焼け焦げた紙片をそっと卓に置いた。鈴の紋。
「儂は、教会の記録係だった。四十年、この国の、あらゆる出来事を書き留めてきた。だが、あるとき、書庫の、封じられた棚の奥で、見つけてしまったのだ。ソルナの村の、記録の束を。……そして、その束が、なぜ、封じられていたのかを」
「なぜ、だ」俺は、聞いた。
老人の、しわがれた声が、震えた。
「この国の、建国の秘密が、そこに、書かれていたからだ」
メルヴは、目を閉じた。まぶたの裏の、遠い記憶をたぐるように。
「三百年前。この世界に、初めての、大きな零れが、起きた。西の空に、穴があいた。人も、物も、名前も、次々と、吸い込まれていった。国が、滅びかけた」
「それを勇者が、止めたんじゃないのか」ノエが、震える声で、聞いた。「喪の主を討って」
「そういうことになっておる」メルヴは、目を開けた。「だが、儂が見つけた記録には、こう書いてあった。――穴を鎮めるには、生贄が要った、と」
ランプの灯が、じじ、と、鳴った。
「鈴を作る民、ソルナの民。彼らの鈴だけが、穴の口を塞ぐことができた。だが、それには、村ごと、鈴になる必要があった。民は、一人残らず、あの穴のなかへ、身を投じたのだ。世界を繋ぎ止めるために」
俺は、息を詰めた。
「そして、王家と教会は、その事実を消した」老人の声が、憎しみで、掠れた。「生贄で世界を救った、などという話は、都合が悪い。だから、代わりに、勇者が怪物を討った、という美しい話をでっちあげた。ソルナの民は、なかったことにされ、還らずの民、と、蔑まれるようになった。……英雄譚の裏で、返されなかった、いちばん大きな落とし物。それが、彼らだ」
◇
翌朝から、俺は、地取りを始めた。
ソルナは、本当に、あったのか。それを、俺自身の眼と足で、確かめる。現認だ。噂や、古文書ではない。俺が、この目で見た事実だけを信じる。
まず、町の年寄りを片っ端から、訪ねて回った。
最初は、誰もが、首を振った。「ソルナ? 知らんな」「そんな村、聞いたこともない」。教会の言う通りだった。誰の記憶にも、その村は、なかった。
だが、俺は、諦めなかった。落とし物ってのは、必ず、どこかに、痕跡を残す。抹消された記録にも、消し忘れが、ある。
三日目。町一番の年寄りだという目の見えない老婆が、俺の問いに、ふと手を止めた。
「ソルナ……ああ、その名は、知らん。だがねえ」老婆は、宙を探るように、言った。「子どもの頃、婆さまが、歌ってくれた子守唄が、あってねえ。西の鈴の里の、鈴が鳴る、って。……あれは、どこの里だったかねえ。もう、思い出せないけど」
俺の眼が、老婆の、枯れた喉のあたりを視た。
消えかけた記憶の、白い痕。そこに、確かに、村があった。歌があった。抹消されても、消しきれずに、子守唄の、節のなかにだけ、残っていた。
「その唄、もう一度、歌ってくれないか」
老婆は、かすれた声で、ゆっくりと歌った。
西の鈴の里の、鈴が鳴る。迷子の子よ、帰っておいで。
その節を、俺は、台帳に、書き取った。ノエが、隣で、じっと聞いていた。ノエの首の鈴が、その唄に、共鳴するように、りん、と、小さく鳴った。
それだけではなかった。
俺は、その足で、町はずれの、古い墓地へ向かった。ノエの鈴と同じ紋が、どこかに、残っていないか。落とし物ってのは、一つ見つかれば、芋づる式に、次が出てくる。
崩れた墓石の、いちばん奥。苔にまみれて、ほとんど読めなくなった、小さな石があった。俺は、その表面を指で、丹念に、なぞった。
彫られていたのは、鈴の紋。そして、その下に、かすかに――「ソ」の一文字だけが、削り残されていた。誰かが、村の名を消そうとして、消しきれなかった痕だ。
俺の眼が、その削り跡を視た。
削った者の、迷いが、視えた。命じられて消しながら、どうしても、最初の一文字だけは、消せなかった。そういう、震える手の痕だった。
「……消しきれなかった一文字が、いちばん、雄弁だ」俺は、呟いた。「隠したい事実ほど、隠しきれない。それが、遺留品ってやつだ」
ソルナは、あった。
俺の眼と、耳と、指が、それを現認した。誰が、なんと言おうと。
◇
だが、地取りを続けるうちに、俺は、妙な視線に気づき始めた。
巡回の道すがら、路地の陰から、こちらを窺う者がいる。灰色の外套の、無表情な男たちだ。俺が振り向くと、すっと、姿を消す。尾行の、いろはも知らない連中だ。四十年、尾ける側だった俺には、丸わかりだった。
教会だ。俺が、ソルナを嗅ぎ回っているのを快く思っていない者が、いる。
そして、四日目の朝。
交番の前に、一人の男が、立っていた。
銀の刺繍の入った、白い法衣。整った、冷たい顔。腰には、細身の剣。教会の、位の高い者――審問官と呼ばれる、異端を狩る役職の男だった。
「あなたが、落とし物屋の、蓑輪殿か」
男は、俺の看板を蔑むように、一瞥した。
「近ごろ、ありもしない村の話を触れ回っているそうだな。年寄りをたぶらかし、ありもしない過去をでっちあげていると」
「でっちあげちゃいない」俺は、平らな声で答えた。「あった村をあったと言ってるだけだ」
審問官の、薄い唇が、笑みの形に、歪んだ。
「面白いことを言う。だが、忠告しておこう。この国の歴史は、勇者王・統吾様が、お決めになる。過去を掘り返す者は、異端だ」
統吾。その名に、俺の指が、わずかに、こわばった。
「そして、異端は」審問官は、俺の、そして、その後ろに立つノエの顔を順に、見た。「……なかったことに、される」
俺は、その視線が、ノエの首の鈴に、留まったのを見逃さなかった。
こいつは、ノエが何者か、気づいている。あるいは、気づき始めている。俺は、さりげなく、半歩、ノエの前に、体を入れた。
「忠告、痛み入る」俺は、頭を下げた。低く、慇懃に。四十年で身につけた、相手を油断させるための、おまわりの礼だ。「だが、俺のは、掘り返しじゃない。落とし物の、届け出があっただけだ。村を一つ、なくした、というな。届け出があった以上、おまわりは、動く。それだけだ」
審問官の、冷たい目が、初めて、わずかに、揺れた。この男の、理屈の外にある返事だったのだろう。
「……せいぜい、その減らず口が、いつまで叩けるか、だな」
男は、白い法衣を翻して、去っていった。
男が、去ったあと。
俺の胸で、四十年ぶんの、刑事の勘が、はっきりと告げていた。
――当たりだ。
なかったことにされた村。それを隠したがる、教会と、勇者王。
この事件の帳場は、俺が思っていたより、ずっと、大きい。
◇
「ミノワ」
その夜、ノエが、消え入りそうな声で言った。
「わたしが……還らずの民、だったら。わたしも、なかったことに、されるの?」
俺は、鉛筆を置いて、ノエの、赤い鈴を見た。
「されない」
俺は、はっきりと言った。
「あんたは、俺の台帳に、書いてある。ノエ。ラドの町。交番の、俺の相棒。よく働く、いい娘だ。……この一行がある限り、あんたは、絶対に、なかったことになんて、ならない」
ノエの目が、潤んだ。
「落とし物には、時効がない。忘れられた村にも、たぶん、時効はない」俺は、静かに続けた。「三百年前に落とされた村を、俺が、拾いに行く。持ち主に返しに行く。……それが、たぶん、この世界の、本当の初動だ。三百年、誰も、やらなかった」
窓の外の雨は、いつのまにか、上がっていた。
遠くで、また、鈴が、鳴っていた。




