第六章 立番と巡回連絡
その日、俺は、いつものように、町の家々を回っていた。
巡回連絡、というやつだ。受け持ちの家を一軒ずつ訪ねて、顔を覚え、名を覚え、変わったことがないか、聞いて回る。俺のいた世界では、これも、立派な警察の仕事だった。事件を待つのではなく、事件になる前に、町の隅々を歩いて知っておく。誰が、どこに住み、何を大切にしているか。それを知っている者だけが、いざというとき、正しく動ける。
ラドの町の連中は、最初、この習慣を気味悪がった。だが、今では、俺が路地に顔を出すと、みな、当たり前のように、困りごとをこぼすようになっていた。
その巡回連絡の途中で、俺は、聞いたのだ。西のはずれの家で、また一人、鈴の音に、呼ばれ始めた者がいる、と。
◇
「おまわりさん。うちの人が、変なんだ」
その家の戸口で、若い女房が、俺にすがりついた。顔が、青ざめている。
「夜中に、突然、起きて。遠くで鈴が鳴ってる、呼ばれてる、って。窓の外をずっと、見てるんだ。今朝は、あたしのことも、名前を思い出せないみたいで……」
俺は、鉛筆を置いて、立ち上がった。
呼ばれてる。鈴が鳴ってる。台帳で見た、零れの前兆と、同じだった。この女房の亭主は、消えかけている。
「案内しろ。急ぐ」
初動だ。ここで、間に合うかどうか。
俺とノエは、女房のあとについて、走った。ラドの裏通り。傾いた家の、薄暗い部屋。そこに、一人の男が、窓辺に座っていた。
男は、俺たちが入ってきても、振り向かなかった。虚ろな目で、窓の外――西の、ソルナのあった方角を見つめていた。
「聞こえる」男は、うわ言のように、呟いた。「鈴が。おいで、おいで、って。俺を呼んでる。あそこへ、行かなきゃ……」
男の体が、薄く、白んで視えた。
零れかけている。俺の眼にも、はっきりと、その輪郭が、薄れ始めているのがわかった。あと少しで、この男は、名前ごと、消える。
「――おい」
俺は、男の肩を掴んだ。強く。
「聞け。その鈴は、あんたを呼んでるんじゃない」
男の、虚ろな目が、わずかに、揺れた。
「あんたには、名前がある。ここに、あんたの名を呼ぶ女房がいる。あんたを待ってる家がある。あんたは、落とし物じゃない。まだ、誰にも、落とされちゃいない」
◇
俺の言葉は、けれど、鈴の音には、届きそうになかった。
男の体は、じわじわと、薄れていく。女房が、悲鳴を上げて、亭主にすがりついた。だが、その手は、男の体をすり抜けかけていた。
どうすればいい。剣なら、斬れる相手だ。魔法なら、祓える呪いだ。だが、俺には、そのどちらもない。
俺にあるのは、落とし物係の、眼と、四十年だけだ。
――落とし物には、返す手がかりが、必ず、残っている。
俺は、部屋を見回した。現認。この男が、この世界に「いた」という痕跡を。
あった。
窓辺の、埃の積もった棚に、小さな木彫りの、鳥の人形。粗い、下手くそな彫りだ。だが、大切にされてきたのが、わかる。
「これは」俺は、それを掴んで、男の顔の前に、突きつけた。「あんたが、彫ったんだろう。この鳥は」
男の目が、その人形を捉えた。
「……娘に。生まれてくる、娘に。やる、つもりで……」
「まだ、渡してないな」俺は、たたみかけた。「渡してない落とし物が、ここにある。あんたが消えたら、この鳥は、誰が娘に渡す。誰が、あんたが彫ったって、教えてやる」
男の、薄れかけた手が、震えながら、人形へ伸びた。
「俺の……鳥だ。これは、俺が……」
その瞬間だった。
男の指先が、木彫りの鳥に触れた。
薄れていた輪郭の、指の先から。じわり、と、色が、戻り始めた。手首。腕。肩。窓の外へ引かれかけていた体が、一枚ずつ、こちら側へ、塗り直されていく。
男の目に、光が、戻った。虚ろだった瞳の奥に、この鳥を渡すはずだった娘の顔が、映ったのだろう。
「俺の……鳥だ。これは、俺が、彫った。娘に、やるんだ」
男が、そう言い切った瞬間。
鈴の音が、遠ざかっていった。りん、りん、と、名残惜しそうに。まるで、獲物を取り逃がした手を引くように。やがて、聞こえなくなった。
男は、大きく、息を吐いて、その場に、崩れ落ちた。
「……あれ。俺は……何を……」
女房が、泣きながら、亭主に抱きついた。今度は、その手は、すり抜けなかった。ちゃんと、亭主の背に、回った。
◇
「間に合った、のか……?」
部屋の隅で、ノエが、呆然と呟いた。
「ああ」俺は、額の汗をぬぐった。手が、少し、震えていた。「渡してない落とし物が、この男をこっちに繋ぎ止めた。返す相手がいるうちは、人は、そう簡単には、消えない」
零れは、ただの消失じゃない。俺は、確信した。
あれは、「呼ばれて」いくのだ。西の、ソルナのほうから、鈴の音で。そして、この世界に返すべきもの、返される相手を持たない者から、順に、引かれていく。
拾われ子のノエが、無事なのも、たぶん、偶然じゃない。彼女には、鈴がある。返すべき持ち主を探している、鈴が。
この話が、町中に広まるのに、時間はかからなかった。
「あのおまわりが、零れかけた男を連れ戻した」
「鈴に呼ばれても、あの交番に行けば、助かるらしい」
ラドの町の連中は、夜、鈴の音が聞こえると、俺の交番へ駆け込んでくるようになった。俺は、そのたびに、その者の「まだ返してない落とし物」を現認で探し出し、握らせた。彫りかけの人形。編みかけの毛糸。書きかけの手紙。返す相手のいる品を握るたび、彼らは、こちら側へ、繋ぎ止められた。
交番の前には、いつしか、列ができるようになった。
「勇者様の剣は、王都までしか、届かねえ」列に並んだ、老いた行商人が、言った。「けど、あのおまわりさんは、俺たちみたいな、辺境の名もねえ連中を一人ずつ、繋ぎ止めてくれる」
「魔法じゃねえんだ」隣の若者が、頷いた。「落とし物を握らせてくれるだけだ。それだけで、消えずに済む。……なんでだろうな。あんな地味なことで」
地味なこと。
その言葉が、四十年、俺自身が、自分の仕事に貼ってきた札と、同じだった。地味で、手柄にならなくて、誰の記憶にも残らない。俺は、そう思ってきた。
だが、その地味なことが、この町では、人の命を一人ずつ、この世に繋ぎ止めていた。
俺は、列に並ぶ顔を一つずつ、見た。そして、静かに、思った。
――事件は、初動で決まる。世界も、同じらしい。
派手な一撃で、まとめて救うのが、勇者の仕事なら。一人ずつ、落とし物を返して、繋ぎ止めるのが、おまわりの仕事だ。どちらが正しいかなんて、俺にはわからない。だが、俺にできるのは、後者だけだった。
それでも、俺の胸には、晴れない疑問が、残っていた。
誰が、鳴らしているのだ。あの鈴を。
なぜ、ソルナのほうから、この世界の者たちを呼び続けているのだ。
◇
その夜、ずっと黙って様子を見ていたメルヴが、ぽつりと、口を開いた。
「……あんたは、本物のようだな」
老人の、鋭い目が、俺を見据えていた。
「消えかけた者を繋ぎ止める。なかったことにされた者を書き留める。そういう男は、この三百年、一人も、いなかった」
「三百年」
「そう」メルヴは、しわがれた声を落とした。「あの鈴の音の、本当の意味を知りたいなら――ソルナの村が、なぜ、なかったことにされたのかを知らねばならん」
老人は、震える手で、懐から、一枚の、焼け焦げた紙片を取り出した。
紙片には、俺の眼にも見覚えのある紋が、描かれていた。
鈴だ。赤い紐のついた、子ども用の、迷子鈴の紋。ノエが、拾われたとき握っていた、あの鈴と、同じものだった。
「これは……」
俺の隣で、ノエが、息を呑んだ。自分の首の鈴を震える指で、握りしめる。
「ソルナの民の、しるしだ」メルヴは、静かに言った。「なかったことにされた、村のしるし。……娘、おまえがその鈴を握って拾われたのなら」
老人の目が、ノエを真っ直ぐに、射た。
「おまえもまた、還らずの民の、生き残りかもしれん」
ノエの顔から、血の気が、引いた。
交番の窓の外で、また一つ、遠くの家で、鈴の音が、鳴り始めていた。




