第五章 遺失物台帳
メルヴという老人は、その日から、時々、交番に顔を出すようになった。
だが、村のことは、なかなか話そうとしなかった。俺が水を向けても、「まだ早い」「あんたが、どこまで信用できる男か、見ておる」と、はぐらかすばかりだった。
俺は、急かさなかった。四十年、口の重い相手からは、急いては何も引き出せないと、知っていた。相手が話す気になるまで、こちらは、目の前の仕事を淡々とやる。それだけだ。
その頃には、ノエが、交番に住み着いていた。
拾われ子の彼女には、もともと、帰る家がなかった。俺が交番を開くと、ノエは当然のように、掃除を始め、棚を整え、届けられた落とし物を並べ、俺の書いた台帳を隣で覗き込むようになった。
「ミノワ、また字が汚い」
「うるさい。読めればいい」
「これじゃ、返すとき、間違えるよ。書き直す」
ノエは、俺の台帳を丁寧に清書し直した。拾われた品の絵を隅に描き添えた。誰が、いつ、どこで届けたか。持ち主の心当たりは。几帳面な、いい仕事だった。
「あんた、筋がいいな」俺は、素直に言った。「落とし物ってのは、書いた者の心が出る。あんたのは、返す相手のことをちゃんと考えてる」
ノエは、ぷいと横を向いた。だが、耳のあたりが、赤かった。
俺たちは、二人で、町を歩いた。
地取り、と俺は呼んでいた。受け持ちの家を一軒ずつ、訪ねて回る。落とし物はないか。困りごとはないか。近ごろ、変わったことはないか。地味な、足で稼ぐ仕事だ。派手な魔法も、鋭い剣も、いらない。ただ、聞く。ただ、覚える。ただ、書く。
「なんで、こんな地味なこと、するの」と、最初、ノエは聞いた。
「事件ってのは、いきなり起きるんじゃない」俺は、答えた。「起きる前に、必ず、匂いがある。誰かの小さな困りごとのなかに。それを拾っておく。地取りってのは、その匂いを集めて歩くことだ」
軒先で、老婆が、なくした指ぬきの話をした。井戸端で、若い母親が、隣家が急に静かになった、と眉をひそめた。俺は、その一つ一つを台帳に書き留めた。
ノエは、俺の隣で、同じように、耳を澄ませるようになった。人の話を最後まで、遮らずに聞く。それは、拾われ子として、誰にも話を聞いてもらえなかった娘には、たぶん、初めて手にした役割だった。
◇
遺失物台帳は、日ごとに、分厚くなっていった。
俺は、ラドの町で失われた、あらゆるものを書き留めた。
掏摸に遭った財布。どぶに落ちた鍵。迷子の子ども。それだけではない。零れによって、名前ごと消えた者たちのことも、俺は、一つずつ書いた。
パン屋のテオ。井戸端でよく笑っていた、洗濯女のマヤ。子どもたちに昔話をしていた、片脚の元兵士。俺の眼が拾った、彼らの遺留品を、俺は台帳に記録し、覚えている者から、話を聞いて、書き添えた。
「なあ、ミノワ」ある夜、ノエが、ランプの下で、台帳をめくりながら、言った。「これ、書いて、意味あるのかな。消えた人は、戻らないのに」
俺は、鉛筆を削りながら、答えた。
「意味は、ある」
「どんな」
「落とし物には、時効がない」
ノエが、顔を上げた。
「時効ってのは、俺のいた世界の言葉だ。罪ってのは、犯してから長い年月が経つと、もう罰せられなくなる。それを時効という。過ぎちまえば、どんな悪党も、裁けなくなる」
「ひどい仕組みだね」
「ああ。だが、落とし物には、それがない」俺は、削った鉛筆の先をふっと吹いた。「持ち主が現れる限り、たとえ百年経とうが、預かった物は、返さなきゃならん。それが、決まりだ。罪には時効があっても、落とし物に、時効はない」
ノエは、その言葉を口のなかで、繰り返した。罪には時効があっても、落とし物に、時効はない。
「だから、書く」俺は、続けた。「テオも、マヤも、消えた村の連中も、みんな、この世界が落とした落とし物だ。まだ、返せてない。返せる日が来るまで、誰かが、覚えてなきゃならん。書いておかなきゃ、ならん」
ランプの灯が、揺れた。
ノエは、しばらく黙って、台帳の、テオの一行を指でなぞっていた。
「……ミノワ」やがて、ノエは、小さな声で言った。「わたしの名前も、いつか、誰か、書いてくれるかな」
俺は、鉛筆を止めた。
拾われ子。親も、故郷も、名前の元も知らない娘。もし自分が消えても、誰も探してくれないと、この娘は、たぶん、ずっと思ってきたのだ。
「書くさ」俺は、台帳を開き、新しい一行に、鉛筆を当てた。「今、書いてやる。ノエ。ラドの町。交番の、俺の相棒。よく働く、いい娘だ、と」
ノエの目が、みるみる潤んだ。
「……なにそれ。落とし物じゃ、ないじゃん」
「落とし物になる前に、書いとくんだ」俺は、ぶっきらぼうに言った。「そうすりゃ、あんたが消えても、俺が、絶対に、探し出す。返す相手が、ここにいるって、書いてあるからな」
ノエは、両手で、顔を覆った。
肩が、小さく震えていた。首の鈴が、りん、と、かすかに鳴った。
「……こんなふうに、書いてもらったの、初めて」ノエは、手のひらの奥から、くぐもった声で言った。「いなくなったら困る、って。誰かに、思われたの、初めて」
俺は、なんと返せばいいか、わからなかった。
だから、いつもの、ぶっきらぼうな声で言った。
「じゃあ、消えるなよ。書いた俺が、探しに行くのは、骨が折れる」
ノエは、顔を覆ったまま、こくこくと、何度も頷いた。
その晩、俺は、台帳の「ノエ」の一行をいつもより、ずっと丁寧な字で、書き直した。汚い字だと、返すとき、間違えるからだ。この娘だけは、絶対に、間違えたくなかった。
◇
その夜遅く。
ノエが眠ったあと、俺は一人、ランプの下で、台帳を見返していた。
ふと妙なことに気づいた。
零れで消えた者たちの遺留品を書き並べていくうちにあるものが、浮かび上がってきたのだ。
消え方に、偏りがある。
零れは、でたらめに、世界を食っているわけではなかった。消えた者の多くが、ある一点――地図から消えたという、あの村、ソルナのほうから、順に、抜け落ちていた。まるで、そこにあいた穴から、じわじわと、世界がこぼれ落ちているかのように。
最初は、ほんの、微かな違いだった。
消えた者の順番を日付で並べてみる。すると、王都に近い豊かな土地ほど、零れが遅い。ソルナに近い、貧しい辺境ほど、零れが早い。
次に気づいた。
消えた者たちが、生前、口にしていた、ある一言。「あの村の話は、するな」「聞いてはいけない」。誰もが、その名を恐れるように避けていた。まるで、触れてはいけない何かが、そこにあるかのように。
そして、最後に、決定的な謎に、突き当たった。
テオも、マヤも、片脚の元兵士も、消える数日前、決まって、同じことを言っていたという。夢を見た、と。誰かが、遠くで、鈴を鳴らして、自分を呼んでいる夢を。
俺の眼が、台帳の上で、点と点を線で結んだ。
これは、怪物の仕業なんかじゃない。
もっと、静かで、もっと、根の深い、一つの「事件」だ。
消えた村。避けられる名。呼ぶ鈴。すべては、あの地図から消されたソルナに繋がっている。
俺は、鉛筆を置いた。
――帳場を立てなきゃならんな。
帳場、というのは、俺のいた世界の言葉だ。大きな事件が起きると、警察は、署のなかに、捜査本部を置く。大勢の刑事が集まって、寝泊まりし、全力で真相を追う。その本部のことを現場の符牒で、帳場と呼ぶ。
符牒というのは、警察官どうしが使う、身内だけの隠語のことだ。外に漏らせない事件の話を手早くやり取りするために、昔から使われてきた。落とし物係の俺には、本来、縁のない言葉だった。
だが、この事件は、帳場を立てるに、値する。
久しく忘れていた、刑事の血が、静かに、疼いた。
もっとも、この帳場に集まるのは、大勢の刑事じゃない。俺と、拾われ子の相棒と、口の重い老人が一人。それだけの、世界一小さな帳場だった。




