第四章 交番を開く
テオは、戻らなかった。
三日、俺はラドの町を歩き回った。だが、一度零れた者を取り戻す方法は、俺の眼にも、見つからなかった。現認で視えるのは、あくまで、失われたものの痕跡だけだ。返す相手がいる落とし物は返せても、持ち主ごと消えた者をこの世に引き戻す力は、俺にはない。
それでも、俺は、やるべきことをやった。
テオの遺留品を拾い集めたのだ。粉まみれの前掛け。三つのパン型。焦げた鍋つかみ。俺の眼にしか視えないそれらの在り処を一つずつノエに教え、掘り起こさせた。土に埋もれ、瓦礫に紛れていた品が、ノエの手のなかに、次々と戻ってきた。
「これ、テオの……本当に、あった……」
ノエは、前掛けを胸に抱いて、声もなく泣いた。
消えた男は、戻らない。だが、その男が確かに生きて、この娘を可愛がっていたという証は、なかったことにされずに、残った。
「テオって男は、いた。ここで、パンを焼いてた。あんたに、細長いのをくれてた」
俺は、台帳を開いた。持ち歩いていた、この世界の粗末な紙束に、俺は一行、書きつけた。
「パン屋・テオ。ラドの町・角の家。零れにより喪失。遺留品、前掛け一、パン型三。届け先、ノエ」
落とし物を記録するときの、いつもの書き方だった。
「なにしてるの、それ」ノエが、涙をぬぐって、覗き込んだ。
「遺失物台帳ってやつだ。落とし物を一つずつ書いておく。誰の、何が、いつ、どこで失われたか。持ち主が現れたとき、すぐ返せるようにな」
「でも……テオは、もう、戻らないよ」
「戻らなくても、書く」俺は、鉛筆を止めなかった。「書いておけば、少なくとも、いたことは、消えない。忘れられなくなる。落とし物ってのは、返せる日まで、誰かが覚えてなきゃならん。それが、預かった者の、務めだ」
ノエは、台帳の一行をじっと見つめた。
その一行のなかに、消えたはずのテオが、確かに、生きていた。
◇
その日から、俺は、ラドの町に居着くことにした。
広場の隅の、零れで主のいなくなった、傾いた空き家。俺はそこに、拾った板を打ちつけ、下手な字で、一枚の看板を掲げた。
――落とし物、預かります。
交番だ。
こちらの世界には、そんなものはなかった。困った者が駆け込む場所も、落とし物を届ける場所も、道の端に立つ者も、いなかった。零れて主を失った品は、ただ打ち捨てられ、忘れられていくだけだった。
だから、俺は、立つことにした。
朝、看板の前に立つ。ただ、立つ。立番だ。何をするでもない。だが、そこに一人、いつも立っている者がいるというだけで、町の空気は、少しずつ変わっていった。
「なんだ、あのおっさん」
最初、町の連中は、俺を胡散臭がった。当然だ。ハズレ技能のよそ者が、意味不明な看板を掲げて、突っ立っているのだから。
だが、俺の眼は、働いていた。
「そこの姉さん、市場で財布、掏られたろう。掏ったのは、あんたの右後ろにいた、青い頭巾の男だ。今なら、三軒先の路地に、まだいる」
「そこの親父、鍵、どぶに落としたろう。二本目の格子の、下だ」
俺は、失われたものの在り処を次々と言い当てた。掏摸に遭った者に、犯人の逃げた先を。物をなくした者に落ちた場所を。
初動、というやつだ。
事件が起きた、その直後の、最初の動き。ここで正しく動けるかどうかで、あとの結末が、まるで変わる。犯人を捕まえられるか。落とし物が戻るか。四十年、俺が叩き込まれてきた、警察の一番の要だ。
俺は、剣も魔法も使えない。だが、初動なら、誰にも負けない。
ある日、パン屋の跡地の近くで、子どもが一人、迷子になった。
母親が、半狂乱で広場を走り回っていた。ラドの町には、迷子を探す仕組みなど、なかった。零れかもしれない、と誰かが言い、母親は、その場に膝をついて泣き崩れた。
俺は、まず、母親を落ち着かせた。
「零れじゃない。この子は、生きてる。俺の眼に、この子の靴の跡が、まだ視えてる」
俺は、しゃがんで、石畳を指でなぞった。素人には、ただの石畳だ。だが、俺の眼には、小さな靴の残した痕が、点々と、白く灯って視えた。
「西へ、走ってる。……途中で、猫を追いかけて、角を折れた。この先の、樽の並んだ路地だ」
俺が言い終わる前に、ガレトが走り出していた。ほどなく、樽の陰で丸くなって眠っていた子どもを抱えて戻ってきた。
母親は、子どもを抱きしめて、俺の足元に、崩れるように頭を下げた。
「あんた……あんた、いったい、何者なんだ」
その声を聞きつけて、広場に、人が集まってきていた。
「西へ走ったのが、なんでわかった」
「猫を追ったなんて、見てもいねえのに」
ざわめきが、広がっていく。俺を胡散臭がっていた目が、少しずつ、別のものに変わっていく。
俺は、なんでもない顔で、立ち上がった。
「見てなくても、わかる。この子が、落としていった足跡が、そう言ってる。それだけだ」
誰かが、ぽつりと言った。
「……このおっさんがいれば、この町、零れても、大丈夫かもしれねえ」
その一言を、俺は、聞かなかったふりをした。だが、掌のなかで、鉛筆を少し強く握っていた。
◇
「――あんた、ただのおっさんじゃねえな」
そう声をかけてきたのは、隣の酒場の主だった。
でっぷりと太った、腕の太い男で、名をガレトといった。酒場「片手桶亭」を一人で切り盛りしている。
「この一週間で、掏摸が三人、しょっ引かれた。なくし物の届けが、五件戻った。町の連中が、夜、安心して眠れるって言い出した」ガレトは、樽のような腹を揺すって、笑った。「あんたが看板出してから、この町、妙に、まっとうになりやがった」
まっとうに。
その言葉が、俺の胸の、どこか古い場所を小さく突いた。
――あんたが立っててくれるだけで、安心して眠れる。
豆腐屋の婆さんの声が、遠い世界から、蘇った。
「たいしたことは、してない」俺は、いつものように、頭を掻いた。「落とし物を返してるだけだ」
「そのたいしたことねえのが、誰にもできなかったのさ」ガレトは、俺の前に、酒を一杯、どんと置いた。「勇者様は、化け物は斬るが、掏摸は捕まえちゃくれねえ。なくした鍵は、探しちゃくれねえ。あんたは、その誰も拾わなかったもんを拾ってる」
俺は、酒を一口なめた。ぬるく、酸っぱい、粗末な酒だった。だが、その日の酒は、四十年で一番、うまかった気がした。
四十年、誰の記憶にも残らないと思ってきた仕事が、世界を一つまたいだこの町で、静かに、感謝されていた。
「なあ、ガレト」俺は、酒杯を見つめたまま、言った。「俺のいた場所じゃ、こういう仕事は、手柄にならなかった。誰も、覚えちゃくれなかった」
「そりゃ、あんたのいた場所が、目の悪いとこだったのさ」ガレトは、あっさりと言った。「拾われて、返ってきて、初めてありがたみがわかる。落とし物ってのは、そういうもんだろ」
拾われて、返ってきて、初めて。
その言葉を、俺は、しばらく噛みしめていた。
悪くない気分だった。認めてしまえば。
◇
交番を開いて、七日目の朝だった。
一人の老人が、看板の前に立った。痩せて、背の曲がった、目つきの鋭い老人だ。
「落とし物を預かるというのは、本当か」
「ああ。何をなくした」
老人は、しばらく黙って、俺の顔を値踏みするように見た。それから、しわがれた声で言った。
「村をひとつ」
俺は、鉛筆を止めた。
「村だと」
「地図から、消えた村だ。名をソルナという。……いや、そう呼ばれていた、はずだ」老人の目が、暗く光った。「誰も、覚えておらん。教会は、そんな村は初めから無かったと言う。だが、儂は、覚えておる。あの村は、なかったことにされたのだ」
なかったことに、された村。
俺の落とし物係の勘が、みしり、と音を立てた。
これは、ただの零れではない。もっと、根の深い、誰かの手が入った、落とし物だ。
「あんた、名は」
「メルヴ」老人は言った。「元は、教会の記録係だった男だ」




