第三章 勇者王の名
その男の噂は、酒場のどこでも、聞くことができた。
鷲塚統吾。三年前、突然この世界に現れ、瞬く間に喪の主を討ち、零れを鎮めた英雄。以来、王都ヴェーラに居を構え、勇者王として、この国の実質的な主となっている男。
「まあ、あの世からの使いってやつだな」と、酒場の主は言った。「時々いるのさ。世界が滅びかけると、別の世界から、選ばれた勇者が来る。統吾様は、その最新のお方ってわけだ」
俺は、酒をなめながら、それを聞いていた。
なるほど。俺と同じだ。あの男も、あの世からこの世へ流れてきた口らしい。同じ川に落ちて、片方は勇者王の椅子に座り、片方は落とし物係の眼を持て余している。
笑えない話だった。
十二年前、鷲塚は俺の一行を弾いた。手柄にならない仕事を心の底から見下していた。目に見える結果だけが、あの男の世界のすべてだった。
そういう男が、こちらでは、剣で化け物を斬るという、この上なく目に見える手柄で、英雄になっている。実に、あの男らしい。
――関わるまい。
俺は、そう決めた。
俺は、この世界の勇者じゃない。ハズレ技能を引いた、ただのおっさんだ。あの男に会ったところで、掴みかかる資格も、正す力もない。四十年、そうやって、俺は道の端に立ってきた。ここでも、同じでいい。
目立たず、静かに、余生を送る。落とし物係の眼で、日銭くらいは稼げるだろう。それで十分だ。
だいたい、あの男に正面から物を言ったところで、どうなる。十二年前、現役の警察官だった俺ですら、あの男を止められなかった。爪で弾かれた一行が、その証拠だ。今の俺は、階級も、後ろ盾も、何もない、身元不明のよそ者だ。職務質問されれば、答えに詰まる立場だ。
職務質問というのは、警察官が、怪しいと見た相手に、身元や行き先を尋ねる、あれだ。俺は四十年、する側だった。この世界では、たぶん、される側になる。
力のない者が、正義を叫んでも、届かない。それを、俺はいやというほど、知っていた。
だから、関わるまい。もう、届かない一行を書くのは、こりごりだ。
そう、自分に言い聞かせて、俺は席を立った。
立てるはずだった。
◇
辺境の町、ラド。
俺が流れ着いたのは、王都から馬車で数日、王国のはずれにある、小さな町だった。石畳は割れ、家々は傾き、零れに何度も削られてきた、貧しい町だった。
町の入り口で、俺は一度、足を止めた。
半分ほどの家に、灯りがなかった。空き家ではない。ただ、そこに住んでいた者が、丸ごと零れて、家だけが残っているのだ。俺の眼には、そこかしこに、白い空白と、主のいない遺留品が視えた。忘れられた鍬。錆びた鍋。片方の耳飾り。
零れは、この辺境から、じわじわと世界を食っているらしかった。王都から遠く、勇者様の剣も届かぬ、貧しい町から。
その町の広場で、俺は、鈴の音を聞いた。
りん、と。澄んだ、子ども用の鈴の音。
俺の足が、勝手に止まった。心臓が、跳ねた。十二年、忘れられずにいた音。返せなかった落とし物の音が、この異世界の広場で、鳴っていた。
音のほうを見る。
一人の少女が、井戸の縁に立って、必死に鈴を振っていた。十五かそこらの、痩せた娘だ。首から、赤みがかった古い鈴を下げている。
「誰か……誰か、テオを知りませんか」
娘は、通りすぎる大人たちに、声をかけていた。
「昨日まで、そこの角の家にいたんです。パン屋のテオ。太った、優しいおじさんで……誰か、覚えてませんか」
大人たちは、困った顔で、首を振った。誰も足を止めない。誰も、テオという名を知らない。
零れだ、と俺は察した。テオという男は、昨夜、名前ごと、この世界から抜け落ちたのだ。だから、誰も思い出せない。娘一人を除いて。
「知らねえよ。パン屋なんざ、初めからそこにゃなかった」
男の一人が、うるさげに手を振った。娘の肩が、びくりと縮んだ。
俺は、それを見ていた。
声を上げているのに、誰にも届かない。届かない一行をたった一人で、鳴らし続けている。
――十二年前と、同じだ。
気づけば、俺は歩き出していた。娘のほうへ。俺の頭より、俺の足が、先に。
◇
「その角の家だな」
俺が声をかけると、娘は、はっと顔を上げた。警戒した目で、俺を見る。よそ者の、うさんくさいおっさんだ。当然だろう。
俺は、娘の隣に立って、角の家のほうへ、眼を凝らした。
あった。空白だ。石畳の上に、竈の跡と、パンを並べていた台の輪郭が、白く残っている。そのそばに、小さな品がひとつ。
「粉まみれの前掛けが、落ちてる。台の下だ。あんたには、視えてないだろうが」
娘の目が、見開かれた。
「……見えるの? テオの、前掛けが」
「ああ。それに、その竈で焼いてたパンの型が三つ。丸いのが二つと、細長いのが一つ。よく、朝いちばんに、あんたに一つ、焼きたてをくれてたんじゃないか。細長いほうを」
娘の唇が、震えた。目に、みるみる、涙が盛り上がっていく。
「……なんで。なんで、それを」
「落ちてる物が、そう言ってる」
俺は、しゃがんで、視えない前掛けのあたりに、そっと手を伸ばした。掴めはしない。だが、そこに、確かにあった。テオという男が、生きて、パンを焼いて、この娘を可愛がっていた、その痕跡が。
「あんたの名は」
「……ノエ」
「ノエ、か。その鈴は」
「わたしのじゃない」ノエは、首の鈴を指で握った。「拾われたとき、これだけ、握ってたんだって。わたし、親も、故郷も、名前の元も、なんにも知らないの。ノエってのも、拾った人がつけた名前」
拾われ子。この娘自身が、持ち主のわからない、遺失物のようなものだった。だから、消えた者の名を、誰よりも必死に、覚えていようとするのかもしれない。忘れられることが、どういうことか、この娘は、知っているのだ。
「テオはね、わたしに、初めてパンをただでくれた人なの」ノエは、洟をすすった。「拾われ子は、店に入るなって、みんな言うのに。テオだけは、朝いちばんの、細長いのを……」
声が、詰まった。
「その人が、消えて、名前まで、みんな忘れて。わたしだけが覚えてて。……こんなの、あんまりだよ」
俺は、しゃがんだまま、その言葉を静かに受け止めた。
あんまりだ。まったく、その通りだった。
「テオは、消えた。俺の眼にも、もう本人は視えん。正直に言う。取り戻す方法は、俺にもわからん」
ノエの顔が、くしゃりと歪んだ。
「だが、あんたが覚えてる。あんたが鳴らした鈴を、俺は聞いた」
俺は、娘――ノエの、赤い鈴を見た。それから、自分の胸に、まだあるはずのない鈴の感触を探した。
「消えたものをなかったことにはしない。それが、俺の、昔からの仕事だ」
なぜ、そんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。関わらないと、決めたばかりだったのに。
ただ、この娘の鈴の音が、十二年、俺の棚の奥で鳴り続けていた音と、同じだったのだ。
ノエは、俺の顔をじっと見上げた。涙を手の甲でぬぐって、それから、小さな声で言った。
「おじさん、名前は」
「蓑輪。蓑輪巡一だ」
「ミノワ」ノエは、その名を大切そうに繰り返した。「――お願い。テオを探すの、手伝って」
りん、と。
ノエの鈴が、もう一度、鳴った。
俺の四十年が、その音に、静かに返事をしてしまった。
関わるまいと、決めたばかりだった。だが、俺という男は、結局、鈴の音に背を向けられない。四十年、そうやって生きてきて、たった一度、背を向けた夜のことを、俺は今も悔いている。
二度と、同じ悔いは、抱えたくなかった。
「わかった」
俺は、立ち上がった。膝が、痛まない体で。
「まず、現認だ。テオが最後にいた場所を隅から隅まで見せてもらう。落とし物ってのは、必ず、どこかに返す手がかりを残していく」
この日、俺は知らなかった。
この小さな鈴の音が、やがて、世界そのものの零れへと、まっすぐ繋がっていくことを。
そして、王都の椅子に座るあの男と、もう一度、正面から向き合う日が来ることを。




