第二章 拾得
目を覚ましたとき、俺はまだ、死んだままのはずだった。
だが、頬に触れているのは、アスファルトではなかった。乾いた石畳の、ひやりとした感触。鼻をつくのは、埃と、嗅いだことのない甘い花の匂い。頭上で、青白い光が、揺れている。炎ではない。硝子の筒のなかで、光そのものが、ふわりと生きて灯っていた。
俺は、身を起こした。
妙だった。体が、軽い。四十年ぶんの膝の痛みも、腰の重さも、どこにもない。息を吸うと、胸が、すっと開く。掌を見た。皺は相応にある。顔をなでれば、無精髭も、たるんだ頬もそのままだ。おっさんのまま、しかし体だけが、二十年ぶんほど巻き戻されている。
心臓が、やけに大きく鳴っていた。生きている。死んだはずの体が、生きて、動いている。その事実を頭が受け止めきれずにいた。
そこは、市場のような広場だった。
石造りの建物が並び、行き交う人々は、見たこともない仕立ての服を着ている。荷車を引く男の腰には、剣が下がっている。頭に角の生えた者もいれば、耳の長い者もいた。荷馬の匂い。焼けたパンの匂い。呼び売りの声。すべてが、生々しく、本物だった。
「……夢じゃ、ないな」
声が、口をついて出た。俺の言葉は、けれど、この世界の言葉として、ちゃんと通じているらしかった。近くの露天商が、変な男を見る目で、こちらをちらりと見た。
交通事故で死んだ交番のおまわりが、剣と魔法の世界で目を覚ます。
もし当直明けの相棒がこれを聞いたら、寝ぼけるなと笑っただろう。だが、頬に残る石畳の冷たさは、どうにも本物だった。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。まずは現認だ。ここがどこで、何が起きているのか。俺の目で、確かめる。四十年、そうやってきた。世界が変わっても、やることは、たぶん変わらない。
◇
立ち上がった俺の視界の隅に、光の文字が浮かんだ。
【技能『現認』が発現しました】
現認。その言葉なら、知っている。
警察官が、自分の目で直接、事実を確かめること。伝聞ではなく、この目で確かに見た、というやつだ。俺たちの世界では、それが何より重い意味を持っていた。見てきた者の言葉だけが、事実になる。人の噂は、証拠にならない。
だが、こちらの世界での現認は、少しばかり毛色が違うらしかった。
俺が広場を見渡すと、いくつかの場所が、薄く白んで視えた。
石畳の隙間。露店の裏。井戸の縁。そこに、うっすらと、何かの輪郭が残っている。かつてそこにあって、今はもう、失われたものの、残り香のような。
俺は、失われたものが、視えるらしかった。
なくした物の在り処。消えた者のいた場所。この世界が落としていった、あらゆる遺失物の痕跡が。
――なるほど。落とし物係の眼をそのまま持ってきたわけだ。
俺は、少しだけ、笑ってしまった。あの世でもこの世でも、俺は落とし物を視る男らしい。
試しに、広場の一角に眼を凝らした。
そこだけ、ぽっかりと、色が抜けていた。石畳の上に、椅子の脚のあった四つの窪みだけが残り、そこにあったはずの露店が、まるごと視界から抜け落ちている。人々は、その空白を避けもせず、気にもせず、素通りしていく。まるで、初めからそこには何もなかったかのように。
だが、俺の眼には、窪みのそばに、小さな品がひとつ、白く灯って視えた。
子どもの、片方だけの靴だった。
主のいない遺留品。この空白には、かつて、店を営む者がいて、その足元で遊ぶ子どもがいた。そういうことだ。だが、彼らは零れ、名前ごと、この世界から抜け落ちた。残ったのは、片方の靴だけ。
誰も、拾わない。誰も、台帳に書かない。
俺は、少しのあいだ、その靴を見つめていた。四十年、拾い続けてきた眼が、疼いた。
◇
その力の価値をこの世界の連中は、まったく買わなかった。
広場の隅で、俺は数人の男に取り囲まれていた。冒険者、と自称する連中だ。よそ者の俺を暇つぶしに品定めしているらしい。
「技能が『現認』ぁ? なんだそりゃ、戦えんのか」
「失せ物が視えるだと。犬かよ、こいつは」
どっと笑いが起きた。革鎧の擦れる音。安酒の匂い。
この世界では、授かる技能がすべてらしい。炎を出す。剣を強くする。傷を癒やす。そういう、目に見えて役に立つ力にこそ、価値がある。失われたものが視えるだけの技能など、ハズレ中のハズレ。連中の目は、はっきりとそう言っていた。
俺は、言い返さなかった。
四十年、慣れている。落とし物係の勘が、と鼻で笑われるのには。掌のなかで、指が一度、握られて、開いた。それだけだ。
ただ、俺の眼は、勝手に働いていた。
一番よく笑っていた男の、腰のあたりが、薄く白んで視えた。かつてそこに、何かが下がっていた痕。今は、ない。
「あんた、飾りの短剣、なくしたろう。柄に、親父さんの紋が入ってた」
男の笑いが、止まった。
「……なんで、それを」
「二日前だ。この井戸の縁に置き忘れて、そのまま。今は、そこの餓鬼が拾って、質屋に流す寸前だ」
俺は、井戸の陰でこそこそしている、痩せた子どもを顎で指した。
男たちの笑いは、完全に消えていた。餓鬼を捕まえに走る者。俺をまじまじと見つめる者。広場のざわめきが、俺たちの周りだけ、すっと引いた。
「……こいつ、何者だ」
俺は、なんでもない顔をしていた。落とし物の在り処が視える。俺にとっては、四十年やってきた、それだけのことだった。
◇
短剣を取り戻した男は、ばつが悪そうに、俺に一杯の酒をおごった。
その席で、俺はこの世界のことを少しずつ聞いた。
王国の名は、オルヴァ。今、この世界は、静かに滅びかけているという。
「零れ、って言ってな」
男は、声を落とした。零れ。この世界で、人や物が、ある日ふっと、抜け落ちるように消える現象のことだ。あとには、遺留品――消えた者が身につけていた品だけが、ぽつんと残る。
遺留品というのも、俺には馴染みの言葉だった。事件の現場に残された、犯人や被害者の持ち物のこと。物言わぬそれが、時に、どんな証言よりも雄弁に真実を語る。
村がひとつ、朝になったら消えていた。昨日まで話していた友の名を、誰も思い出せなくなっていた。そういうことが、年々、増えているという。
「けどよ、心配ねえのさ」
男は、広場の中央を顎でしゃくった。
「勇者様がいる。喪の主って化け物を討ちゃあ、零れも止まる。そういう言い伝えだ。もう何度も、勇者様が世界を救ってきたのさ」
俺は、その視線の先を追った。
広場の中央に、大きな石碑が立っていた。そこには、剣を高く掲げた一人の男の姿が、勇壮に彫り込まれている。世界を救った、英雄王の像だという。
人々が、その像を見上げて、手を合わせていた。救済神話。この世界の、拠りどころ。
俺の眼が、その顔を捉えた瞬間。
掌のなかの酒杯が、ぴたりと止まった。
その顔に、俺は、見覚えがあった。忘れたくても、忘れられない顔だった。
彫り込まれた勇壮な英雄の顔は、十二年前、俺の一行を爪で弾いた男の顔だった。
「……なあ」
俺は、隣の男に、できるだけ平らな声で尋ねた。喉の奥が、乾いていた。
「その勇者様ってのは、名をなんという」
男は、誇らしげに、その名を口にした。
「統吾様さ。勇者王、鷲塚統吾。この世界を何度も救ってくださった、たった一人の英雄だ」
鷲塚統吾。
俺の書いた一行を握りつぶし、一人の女の子を見殺しにした男が、この世界では、たった一人の英雄として、人々に手を合わせられていた。
俺は、酒杯をそっと置いた。
石畳のあの空白と、片方だけの靴が、なぜか、瞼の裏で重なった。
――この世界は、本当に、救われているのか。
その問いが、四十年ぶんの落とし物係の勘とともに、俺の胸の底で、静かに灯った。




