第一章 最後の当番
落とし物をひとつだけ、返せなかった。
四十年の勤めのなかで、俺が本当に悔いていることは、たったそれだけだ。
朝の交番には、油と埃と、昨夜の酔っぱらいが残していった安酒の匂いが染みついていた。天井の蛍光灯が、切れかけて、じりじりと鳴いている。俺は制服の袖に腕を通し、色の褪せた湯飲みに、ぬるいお茶を注いだ。
それから、遺失物の受付簿を開く。
落とし物のことを警察では遺失物と呼ぶ。誰かが落とし、誰かが拾い、交番へ届けられ、台帳に一行ずつ書き留められて、持ち主が現れる日まで、棚の奥で静かに眠る品のことだ。
派手さはない。手柄にもならない。事件を解決したわけでもない。それでも俺は、四十年、その一行を書き続けてきた。
棚には、今日も持ち主のいない品が並んでいる。片方だけの手袋。子どもの水筒。骨の折れた傘。
俺には、それらが少しだけ、視える。
傘の柄の握り方の癖。水筒の底の、名前を消したあとの傷。落とし物というのは、持ち主のことを案外たくさん喋る。この傘の主は左利きで、この水筒の子は、名前をからかわれたことがあるのだろう。四十年、そんなふうに、物から人を読んできた。
誰の役にも立たない眼だ。手柄にはならない。俺はそう思っていた。
棚の一番奥に、小さな鈴がひとつ。
赤い紐のついた、子ども用の迷子鈴だ。もう十二年、持ち主は現れない。
俺はそれを毎朝、指先で確かめる。埃を払い、また奥へ戻す。返せなかった落とし物というのは、こういうふうに返す相手を探しながら、静かに歳をとっていく。
「蓑輪さん、今日も立ってくれてるのねえ」
通りの向こうから、豆腐屋の婆さんが手を振った。俺は湯飲みを置いて、交番の前に出る。ただ、立つ。
これを立番という。何をするでもない、警察官がそこに立っているというだけの仕事だ。
だが、そこに一人立っているだけで、盗る気の失せる者がいる。声をかけられずに済む夜がある。誰かが安心して眠れる、その理由の一つになる。少なくとも、俺はそう教わってきた。
「あんたが立っててくれるだけで、あたしゃ安心して眠れるんだよ」
婆さんはそう言って、湯気の立つおからをひとつ、俺の掌に押しつけていった。
俺は曖昧に笑って、頭を下げた。
安心。そんなものを、俺が誰かに配れているとは、とても思えなかった。
四十年やって、巡査部長どまり。手柄の一つも立てられなかった男だ。同期は署長になり、上司だった男は、今や県警の偉いさんに収まっている。俺だけが、四十年、同じ道の端に立ち続けてきた。
胸ポケットには、まだ出せずにいる退職願が折り畳んである。角が、少しくたびれてきた。もう、しおどきだろう。俺のような男が四十年いたところで、この街は何も変わらなかった。そう思うことに、俺はもう慣れていた。
昼下がり、ランドセルを背負った男の子が、交番の戸を遠慮がちに叩いた。
「あの……水筒、届いてませんか」
俺は棚から、底に傷のある水筒を取り出した。台帳を開き、拾得の日付と、届けてくれた人の名を確かめる。それから、その子の顔を見た。
「名前、消したろう。からかわれたか」
男の子は、びくりと肩を上げた。図星だったらしい。
「返すときには、また書いておいた。今度は、油性のいいやつでな」
俺が水筒を差し出すと、その子は底の名前を見て、それから、こくりと頷いた。小さな声で、ありがとう、と言った。
たったそれだけのことだ。事件でもない。手柄でもない。
だが、その子が交番を出ていくとき、背中が来たときより少しだけ、まっすぐになっていた。
俺はそれをずっと、なんでもない光景だと思ってきた。
◇
思い出すのは、いつも同じ日のことだ。
十二年前の秋。俺は一枚の鈴を拾得した。拾得というのは、落とし物を拾って警察に届ける、その手続きのことだ。公園の砂場に落ちていた、赤い紐の迷子鈴。
よく見れば、紐の擦り切れ方が妙だった。自然に切れたのではない。子どもが自分の指で、少しずつむしり取ったような、そういう切れ方をしていた。
俺の眼が、勝手にそれを読んだ。この鈴の子は、鈴を鳴らしたくなかったのだ。見つかりたくなかったか、あるいは、鳴らせない事情があったのだ。
俺は台帳にそう書き添えた。「本人による意図的な離脱の可能性。周辺の巡回連絡を要す」と。
巡回連絡というのは、受け持ちの家々を一軒ずつ訪ねて、変わったことはないかと聞いて回る、地味な地固めの仕事だ。事件になる前の、匂いを嗅ぎつけるための足だ。
その一行を、俺は当時の課長――鷲塚統吾に上げた。
鷲塚は、書類を三秒で押し返した。
「落とし物係の勘で、うちの捜査を動かすつもりか」
鷲塚の指が、俺の一行を弾いた。爪の、乾いた音がした。今でも耳に残っている。
彼は、目に見える手柄が欲しい男だった。数字になる検挙。写真になる逮捕。おまわりが一軒ずつ家を回って歩くような、記録にならない仕事を心の底から軽んじていた。
その夜、一人の女の子が、家に帰らなかった。
俺の書いた一行は、誰の目にも留まらなかった。捜索は、まる一日、動かなかった。そして、あの子は、この街から、消えた。行方は、ようとして知れず、俺の手は、どこにも、届かなかった。
鈴だけが、交番に残った。持ち主のいない、返せない落とし物として。
あの一行が、もし読まれていたら。俺がもっと、声を届けられる男だったら。
その問いを、俺は十二年、飲み下せずにいる。
◇
最後の当番の日は、いやに静かだった。
夕暮れ、下校の子どもたちの列が、横断歩道の前で信号を待っていた。俺は例のごとく、道の端に立っていた。掌には、まだおからの温もりが残っていた。
異音がしたのは、その直後だ。
ブレーキの、間に合わない音。視界の端で、荷を積んだ大きな車が、赤信号の交差点へ、ずるりと滑り込んでくる。運転席の男は、うつむいて、こちらを見ていない。
子どもたちの列の、一番小さな背中が、まだ横断歩道の白線の上にいた。
考える前に、体が動いていた。四十年、道の端に立ち続けた体だ。俺の足は、俺の頭より先に、地面を蹴っていた。
小さな背中に、掌が届く。力いっぱい、歩道側へ突き飛ばす。
子どもは、尻もちをついて、無事な側へ転がった。泣き声が上がる。生きている声だ。
俺は、白線の上に残った。
衝撃は、痛みですらなかった。ただ、世界が横に流れた。空が、ゆっくりと回った。夕焼けが、下から上へ、逆さに落ちていく。遠くで誰かが叫んでいる。豆腐屋の婆さんの声のような気がした。
地面に頬がついた。冷たいアスファルトの、埃の匂い。俺は、片手を前へ伸ばした。何かを掴もうとするように。
――ああ、鈴をまだ返していない。
薄れていく意識のなかで、俺が最後に思い浮かべたのは、犯人でも、手柄でもなかった。棚の奥の、赤い紐の鈴のことだった。
あの子に返せなかった。
持ち主に返せなかった落とし物が、たった一つ、俺のなかに残ったまま、消えていく。
それだけが、四十年ぶんの、心残りだった。
妙なものだ。
死ぬ間際になっても、俺の頭に浮かぶのは、大きな悔いではなかった。届けられなかった正義でも、立てられなかった手柄でもない。
ただ、返せなかった落とし物が、一つ。
結局、俺という男は、最後まで落とし物係だったらしい。四十年、道の端に立って、人の落とし物を拾って、書いて、返して。返しきれなかったものを一つだけ抱えたまま、こうして終わる。
それでも――と、遠のく意識のどこかで、俺は思った。
あの子の背中は、無事だった。突き飛ばした掌に、確かにその感触が残っている。生きて、転がっていった。それだけは、間に合った。
悪くない終わり方だ。地味だが、俺には、似合っている。
視界が、白く落ちた。
――どこかで、鈴の音がした。
俺が、返せなかったはずの鈴が、聞いたこともない遠さで、澄んで、鳴っていた。
その音のほうへ、俺は、引かれていった。




