第二十二章 着地
白い、光だった。
だが、それは、あのあたたかい光では、なかった。もっと、無機質で、冷たい、見覚えのある光。
蛍光灯だ。
じりじりと、切れかけて、鳴っている。俺は、その音で、目を覚ました。
消毒液の、匂い。硬い、寝台。腕には、細い管が、繋がれていた。病室だった。俺のいた世界の、病院の、天井が、そこに、あった。
「……蓑輪さん? 蓑輪さん、わかりますか!」
白衣の看護師が、俺の顔を覗き込んで、声を上げた。慌ただしく、人が、駆け込んでくる。
医者が、俺の目に、光を当て、脈を取り、何度も、頷いた。
「奇跡だ……三か月、意識が戻らなかったのに……」
三か月。
俺は、あの交差点で、子どもを突き飛ばし、車に、はねられた。命は、取り留めたが、長いあいだ、眠り続けていたらしい。あの剣と魔法の世界での、日々のあいだ、俺の体は、この寝台で、静かに、息をしていたのだ。
医者は、しきりに、首をひねっていた。脳の働きが、止まっていてもおかしくない状態だったのに、まるで、どこか別の場所で、生きていたかのようだ、と。
俺は、答えなかった。ただ、天井の、切れかけた蛍光灯を見上げていた。
窓の外で、鳥が、鳴いていた。あの白い花畑の朝と、同じ、生きた世界の朝の匂いが、消毒液のなかに、かすかに、混じっていた。
どちらも、本物だった。この世界も。あの世界も。俺は、その両方を生きてきた。そして、両方から、同じことを教わった。
人は、いつか、何かを失う。だが、失われたものは、なかったことには、ならない。誰かが、覚えている限り。誰かが、迎えに行く限り。
◇
記憶が、戻ってきた。
あの世界で、燃やし尽くしたはずの、俺の、来し方が。堰を切ったように、頭のなかに、流れ込んできた。
豆腐屋の、婆さんの、名前。田中さんだ。おからをいつも、押しつけてきた、あの人の、名前を思い出した。
四十年の、勤めの日々。同僚の顔。上司の顔。叱られたこと。褒められたこと。当直明けの、あのだるい朝の光。
そして――あの子の、顔。
十二年前、鈴を握って、家に帰らなかった、あの子の、顔。
ぜんぶ、戻ってきた。あの世界で、ノエを助けるために、手放した記憶が、本当の持ち主である、この俺のもとへ返ってきたのだ。
俺は、寝台の上で、しばらく、動けなかった。
目の奥が、熱かった。四十年ぶんの、俺という人間が、ぜんぶ、ここに、あった。忘れていたのではない。預けていたのだ。あの世界に、少しのあいだ、預けて、そして、返してもらった。何一つ、欠けずに。
落とし物は、持ち主のもとへ返る。
俺自身が、そのいちばん大きな証だった。この世界という本当の持ち主のところへ、俺は、返された。だから、記憶も、戻った。約束通り、ぜんぶ、ここで、待っていてくれた。
メルヴの言葉が、蘇った。糸を失くした落とし物は、どこにも留まれん。だが、本当の持ち主のところへ返せば、糸は、また、繋がる。あの老人は、正しかった。この世界が、俺の、持ち主だった。だから、こうして、俺は、繋ぎ止め直された。
そして、不思議なことに。
あの世界のことも、俺は、覚えていた。
ノエ。ガレト。メルヴ。零れ。遺失物台帳。西の、白い花畑。……夢だったのか、と、一瞬、思った。だが、違う。掌に、まだ、残っている。ノエの頭を撫でた、あの感触が。あの娘を助けたときの、確かな、手応えが。
夢なんかじゃ、なかった。
◇
俺は、退院した。
医者は、驚いていた。三か月も寝ていた体とは思えぬほど、俺の回復は、早かった。まるで、この体が、四十年ぶんの疲れをどこか別の場所で、下ろしてきたかのように。
病室を出るとき、俺は、廊下の窓から、下の交差点を見下ろした。あの事故の交差点だ。白い横断歩道が、朝日に、光っていた。
あのとき、俺が突き飛ばした子どもは、無事だった、と看護師が、教えてくれた。かすり傷一つ、なかった、と。母親が、何度も、お礼を言いに来た、と。
間に合ったのだ。あのときも。
地味な、道の端の立番が、たった一度、小さな命を繋ぎ止めた。その意味を、俺は、あの世界へ行って、ようやく、腹の底から、わかった。
退職願は、破り捨てた。
しおどきだと思っていた。俺のような男が、四十年いたところで、この街は、何も変わらないと。だが、もう、そうは、思わなかった。
道の端に、立つこと。落とし物を返すこと。困った者の話を最後まで、聞くこと。その地味な仕事に、どれほどの意味があるか。俺は、世界を一つまたいで、ようやく、知った。
俺は、あの交番に戻った。
変わっていなかった。油と、埃と、昨夜の酔っぱらいの匂い。切れかけた、蛍光灯。色の褪せた、湯飲み。そして、遺失物の、棚。
同僚たちが、目を潤ませて、俺を迎えてくれた。もう戻らないかと思った、と、若い巡査が、洟をすすった。田中の婆さんが、噂を聞きつけて、湯気の立つおからを両手いっぱいに、持ってきてくれた。
「蓑輪さん。あんたが、いないあいだ、この街、なんだか、寂しかったよ」婆さんは、しわだらけの顔で笑った。「やっぱり、あんたが、そこに立っててくれないと、安心して、眠れないんだ」
その言葉を、俺は、遠い世界で、何度も、思い出していた。
道の端に立つだけの、手柄にもならない仕事。だが、その一人が、いなくなると、寂しいと言ってくれる人が、いる。安心して眠れないと言ってくれる人が。それだけで、四十年は、無駄では、なかった。
俺は、その棚の、一番奥に、手を伸ばした。
あった。
赤い紐のついた、子ども用の、迷子鈴。十二年、持ち主の現れない、返せなかった落とし物。俺の、四十年の、たった一つの心残り。
俺は、それを掌に乗せた。埃をそっと払う。
十二年。この鈴を、俺は、毎朝、指先で確かめてきた。返す相手を探しながら。返せなかった悔いを抱えながら。
だが、今の俺は、知っている。落とし物を抱え続けることは、負けじゃない。忘れずにいることこそ、返すための、たった一つの、道なのだ。忘れなければ、時効は、来ない。忘れなければ、いつか、返せる。
りん、と。
鈴が、鳴った。
その音は、なぜか、遠い世界で、俺に助けを求めて呼んだ、あの子の鈴と、同じ音が、した気がした。ノエの、赤い鈴の音と。世界は違っても、助けを求める鈴の音は、いつだって、同じ音がするのかもしれなかった。
◇
俺は、思い出す。
あの世界で、俺が、何を学んだかを。
落とし物には、時効がない。持ち主が現れる限り、たとえ何年経とうが、預かった物は、返さなきゃ、ならない。
この鈴も、まだ、返していない。
十二年経った。だが、時効は、ない。俺が、覚えている限り。この鈴が、ここにある限り。
俺は、鈴を棚に戻さなかった。
制服の、胸ポケットに、そっとしまった。あの子を探す。もう一度。今度こそ。ノエを助けたこの手で、十二年前、取りこぼした落とし物を拾い直す。
諦めることには、慣れていた。四十年、そうやって、生きてきた。だが、もう、諦めない。あの世界で、諦めかけた俺の背中を、ノエが、押してくれた。忘れても、わたしが覚えてる、と。だから、俺も、覚えている。あの子のことを。この鈴の、持ち主のことを。
交番の、戸を開ける。
朝の、光が、差し込んできた。あの白い花畑の、朝日と、同じ、あたたかい光だった。
俺は、道の端に、立った。
立番だ。四十年、やってきた。これからも、やる。何をするでもない。ただ、立つ。だが、そこに一人、いつも立っている者がいれば、人は、安心して、眠れる。異世界の辺境の町でも、この街でも、それは、まったく、同じだった。
道の端に立つ者は、世界のどこにいても、同じ仕事をしている。誰かの落とし物を拾って、返す。誰かが安心して眠れる、その理由の、一つになる。
その時だった。
一人の、若い女性が、交番の前で、足を止めた。
二十歳そこらの、娘だった。何か、言いたげに、俺の顔をじっと見つめている。手に、小さな、古い、何かを握りしめて。
「あの……」娘は、緊張した声で言った。「ずっと、探してた、おまわりさんが……いるって、聞いて」
俺は、胸ポケットの、鈴の重みをそっと感じた。




