第二十三章 落とし物、預かります
「ずっと、探してた、おまわりさんが……いるって、聞いて」
娘は、そう言って、握りしめていた手をそっと開いた。
その掌の上に、乗っていたのは。
赤い紐のついた、子ども用の、迷子鈴だった。
俺の、胸ポケットにあるものと、対になるような。同じ、赤い紐の、鈴。
俺の、心臓が、大きく、跳ねた。
「あんた……まさか」
「わたし」娘は、震える声で言った。「十二年前、この街で、迷子になった子どもです。……ううん、迷子じゃ、ありませんでした。家にいたくなくて。自分で、鈴をむしり取って、逃げたんです」
十二年前。砂場に落ちていた、迷子鈴。紐の、擦り切れた跡。本人による、意図的な離脱。
俺が、台帳に書いて――握りつぶされた、あの一行の、子だった。
俺は、その顔をまじまじと、見た。
面影が、あった。あの日、砂場に、鈴だけを残して、消えた子ども。俺が、四十年で、たった一つ、返せなかった落とし物。その持ち主が、今、生きて、大人になって、俺の目の前に、立っていた。
思わず、目の奥が、熱くなった。だが、俺は、それをこらえた。
泣くのは、俺の仕事じゃ、ない。おまわりは、落とし物を返すのが、仕事だ。まずは、それを済ませてから。
「……よく、生きてて、くれた」
ようやく、それだけ、言った。声が、かすかに、震えた。
「あの夜、わたしは、遠くの町まで、逃げて。それから、いろいろ、あって……別の家に、引き取られて、育ちました。ずっと、この街には、戻れなくて」
娘の目に、涙が、盛り上がった。
「でも、去年、育ての親が、教えてくれたんです。十二年前、あなたが、いなくなったあと。一人の、おまわりさんだけが、何年も、何年も、あきらめずに、探し続けてくれてた、って。……この子には、帰る家が、なかったのかもしれない。だから、逃げたのかもしれない。そう、書類に、書き残して。ずっと、気にかけて、くれてた人が、いた、って」
娘は、洟をすすった。
「わたし、逃げたとき、思ってたんです。どうせ、誰も、探さない。わたしなんか、いなくなっても、誰も、困らないって。……でも、違った。一人だけ、いたんです。わたしのことをなかったことにしなかった人が。ちゃんと、書いて、覚えていて、くれた人が」
その言葉が、俺の胸の、いちばん古い場所を貫いた。
消えても、誰も、困らない。いなくなっても、探されない。――それは、あの世界で、ノエが、言った言葉と、同じだった。拾われ子のノエが、還らずの民が、この娘が。忘れられかけた者は、みな、同じことを思うのだ。
だが、違う。
誰か一人でも、覚えている者がいれば。書いた一行が、一つでも残っていれば。その者は、確かにいたのだ。なかったことには、ならない。
俺は、四十年、そのために、鉛筆を握ってきた。
◇
俺は、言葉を失っていた。
あの一行は、握りつぶされた。捜査は、動かなかった。俺は、この娘を救えなかった。ずっと、そう、思ってきた。
だが。
俺の書いた一行は、消えて、いなかった。
どこかの書類の隅に、残っていた。誰にも読まれないと思っていた、あの一行を――十二年後、育ての親が、読んだ。そして、この娘に、伝えた。
誰も、読まないと思っていた記録は。ちゃんと、届いていた。読むべき、たった一人に。
あの世界の、碑文と、同じだった。三百年、誰にも読まれなかった調書が、俺に、届いたように。俺の、十二年前の一行も、この娘に、届いていた。
時効は、なかった。
罪には、時効があっても。落とし物にも、届かなかった一行にも――時効は、ない。
「探しに、来ました」娘は、涙をこぼしながら、笑った。「ずっと、気にかけて、くれた、おまわりさんに。ちゃんと、生きてます、って。ちゃんと、幸せに、なりました、って。……それを言いに」
娘は、掌の、鈴を差し出した。
「これ。あの日、握ってた、鈴の、片割れです。もう一つは……交番に、届いてるって、聞いて」
◇
俺は、胸ポケットから、十二年、返せなかった、あの鈴を取り出した。
二つの鈴をそっと並べる。
赤い紐の、対の鈴。片方は、この娘が、十二年、握りしめてきた鈴。もう片方は、俺が、十二年、棚の奥で、埃を払い続けてきた鈴。離ればなれだった二つが、今、俺の掌の上で、ようやく、出会った。
俺は、その一つを――十二年、預かっていた鈴を、娘の掌に、そっと乗せた。
指先が、触れた。あたたかい、生きた手だった。四十年前も、十二年前も、間に合わなかった手。だが、今、確かに、この手に、落とし物を返している。
「落とし物をお返しします」
四十年、何万回と口にしてきた言葉が、この日、いちばん、重かった。そして、いちばん、あたたかかった。
「長いあいだ、お預かりして、すみませんでした。……お返しするのが、遅くなった」
娘は、二つの鈴を両手で包んで、胸に、抱いた。
肩が、震えていた。だが、その顔は、笑っていた。泣きながら、笑っていた。
りん、と。
二つの鈴が、ひとつに、重なって、鳴った。
その音は、あたたかく、澄んでいて。遠い、遠い世界の、白い花畑にまで、届きそうな音だった。
――ノエ。聞こえるか。
俺は、心のなかで、遠い相棒に、語りかけた。
返したぞ。四十年、返せなかった、最後の落とし物を。ようやく、返せた。あんたが、俺の背中を押してくれたおかげだ。
◇
娘が、帰っていったあと。
俺は、しばらく、二つの鈴の鳴った、その余韻のなかに、立っていた。
ふと思う。あの世界の、ノエは、今ごろ、どうしているだろう。
きっと、あの辺境の町で、交番の看板を守っているはずだ。俺の台帳を継いで。消えた者の名を書き留めて。困った者の話を最後まで、聞いて。もう、独りぼっちの拾われ子じゃない。道の端に立つ、立派な、おまわりになっているはずだ。
ガレトは、酒場で、今日も、粗末な酒を注いでいるだろう。メルヴは、若い者に記録の付け方を教えているだろう。会ったことは、もう、ないけれど。たぶん、それで、いい。
鷲塚のことは――思い出すのをやめておいた。あの男は、あの世界の法で、裁かれた。それで、十分だ。倒したわけじゃない。ただ、逃げ場をなくしただけ。それが、おまわりの、決着だった。
俺は、交番の、看板を見上げた。
少し、掠れた、手書きの文字。〈遺失物取扱所〉。だが、俺には、その文字が、あの辺境の町に掲げた、下手くそな看板と、重なって、見えた。
――落とし物、預かります。
俺は、湯飲みに、ぬるいお茶を注いだ。切れかけた蛍光灯が、じりじりと、鳴っている。棚には、今日も、持ち主のいない品が、並んでいる。片方の手袋。子どもの水筒。骨の折れた傘。
いつか、この一つひとつにも、持ち主が、現れる。その日まで、俺は、預かる。忘れずに書き留めて、待つ。
落とし物には、時効がない。
俺は、遺失物台帳を開いた。
新しい一行に、鉛筆を当てる。汚い字で、しかし、心を込めて、俺は、書いた。
「迷子鈴、二個。持ち主に返却済み。十二年越し。……時効、なし」
鉛筆を置く。
それから、俺は、交番の前に、出て、道の端に、立った。
立番だ。何をするでもない。ただ、立つ。
朝の光が、通りを照らしていた。通学の子どもたちが、横断歩道の前で、信号を待っている。豆腐屋の田中の婆さんが、店先を掃いている。いつもの、なんでもない、朝だった。
だが、そこに一人、いつも立っている者がいれば、人は、安心して、眠れる。
この世界でも。あの世界でも。それは、変わらない。
道の端に立つ者は、世界のどこにいても、同じことをしている。誰かの落とし物を拾って、返す。誰かが安心して眠れる、その理由の、一つになる。世界という大きな落とし物を一つずつ、持ち主のもとへ、迎えに行く。
英雄は、倒して終わる。
おまわりは、返して終わる。
俺は、朝の光の差す、道の端で、今日も、静かに、立っていた。
悪くない人生だと思う。地味で、手柄にもならない、四十年。だが、確かに、誰かの落とし物を返してきた、四十年だった。
――落とし物、預かります。
(完)




