第二十一章 別れ
俺の体は、日ごとに、薄くなっていった。
三日もすると、朝の光に、掌の向こうが、透けて見えるようになった。痛みは、なかった。ただ、静かに、この世界から、俺という存在が、こぼれ落ちようとしていた。
ノエは、俺の枕元から、離れなかった。薄くなっていく俺の手を両手で、握って。まるで、握っていれば、こぼれ落ちないと、信じているように。だが、ノエの手のなかでも、俺の指の輪郭は、少しずつ、月の光に溶けていった。
メルヴが、震える手で、古い書物を繰って、その理由を教えてくれた。
「あんたは……この世界にとって、よその世界から来た、落とし物だ」老人は、掠れた声で言った。「元の世界の記憶が、あんたをそことを繋ぐ、糸だった。だが、あんたは、その糸を自分で、断ち切ってしまった。民を救うために。……糸を失くした落とし物は、どこにも、留まれん。この世界にも、あの世界にも」
「つまり、俺は」
「返さねば、ならん。本当の、持ち主のところへ」メルヴの目が、潤んだ。「あんたの、持ち主。あんたが、還るべき場所。……元の、世界だ」
俺は、静かに、頷いた。
人の落とし物を返し続けた男が、最後に、自分自身を返す。案外、それは、俺には、似合いの、幕切れだった。
◇
ノエは、その話を部屋の隅で、黙って、聞いていた。
俺が、話し終えても、しばらく、何も、言わなかった。ただ、膝の上で、拳を握りしめていた。首の、赤い鈴が、震えて、かすかに、鳴っていた。
「……いやだ」
やがて、ノエは、絞り出すように、言った。
「いやだよ、ミノワ。行かないで。せっかく、みんな、助かったのに。せっかく、これから、なのに」
「ノエ」
「わたしのせいだ」ノエの声が、震えた。「わたしを助けるために、ミノワ、記憶を燃やしたんでしょ。あの道を視るために、ぜんぶ、忘れちゃったんでしょ。わたしのせいで、ミノワは……」
ノエの目から、大粒の涙が、こぼれ落ちた。
俺は、その頭に、薄くなった手をそっと置いた。触れられた。まだ、辛うじて、触れられた。
「よく、聞け、ノエ」
俺は、静かに、言った。
「俺はな、四十年、たった一つの落とし物を返せずに、悔いてきた。あの子に、鈴を返せなかった。その顔も、もう、思い出せない。だが――」
俺は、微笑んだ。
「あんたを助けられた。この掌に、ちゃんと、その感触が、残ってる。四十年前、取りこぼした手を今度は、掴めた。……俺の、負けっぱなしの人生で、これは、正真正銘の、勝ちだ。あんたのせいなんかじゃ、ない。あんたが、俺に、勝たせて、くれたんだ」
ノエは、俺の胸に、顔をうずめた。声を殺して、肩を震わせていた。
「わたし、ずっと」ノエの、くぐもった声が、聞こえた。「拾われ子で。誰にも、いらない子で。消えても、誰も、探してくれないんだって、思ってた。……でも、ミノワが、台帳に、書いてくれた。ノエ、いい娘だって。消えたら、探しに行くって」
「ああ」
「わたし、生まれて初めて、この世界に、いていいんだって、思えたの。ミノワの、あの一行で」ノエは、顔を上げた。涙で、ぐしゃぐしゃだった。「なのに。そのミノワが、いなくなるなんて。そんなの、ずるいよ」
俺は、返す言葉を探した。
この娘の悲しみは、本物だった。俺が、この世界で拾った、いちばん大きな落とし物は、ノエだったのかもしれない。親も故郷もない、忘れられかけた子どもの、居場所そのものを、俺は、拾って、返した。そして今、その俺が、去ろうとしている。
だが、と俺は思った。
俺がいなくなっても、あの一行は、消えない。ノエが、この世界に、いていい理由は、俺がいなくなっても、台帳のなかに、ちゃんと、残る。落とし物とは、そういうものだ。返した者が、去っても、返されたものは、ちゃんと、その手のなかに、残る。
「ずるくて、悪いな」俺は、ぶっきらぼうに、言った。「だが、覚えとけ。俺が書いた一行は、俺がいなくなっても、消えん。あんたが、この世界にいていい理由は、もう、あんた自身のものだ。誰にも、なかったことには、できん」
◇
その夜、俺たちは、あの西の花畑に、集まった。
ガレト。鍛冶屋。母親衆。ラドの連中。そして、ノエと、メルヴ。世界一小さな帳場の、仲間たち。
満月が、また、空に、昇っていた。
「還すには、あの夜と、同じだ」メルヴが、言った。「ノエ。おまえの鈴を鳴らせ。あの鈴は、失くしたものを本当の場所へ、導く。ミノワを――元の世界へ返すのだ」
ノエは、鈴を握りしめたまま、動けずにいた。
鳴らせば、別れだ。この手で、大好きな人を遠くへ、送り出すことになる。
「ノエ」俺は、しゃがんで、その涙に濡れた顔を見た。「この交番と、台帳を、あんたに、託す」
「……え」
「あんたは、もう、拾われ子じゃない。還らずの民の、生き残りだ。忘れられることが、どんなに、寂しいか。あんたは、誰より、知ってる。……だから、あんたが、いちばん、いい落とし物係になる。この世界の、誰も、二度と、なかったことにされないように。あんたが、道の端に、立っててくれ」
俺は、あの台帳を、ノエの手に、握らせた。
「俺が、いなくなっても。この台帳に、俺のことを書いておいてくれ。そうすりゃ、なかったことには、ならない。忘れられても、あんたが、覚えててくれる。……あんたが、俺に、教えてくれたことだ」
ノエは、台帳を胸に、抱きしめた。
そして、涙をぬぐって、顔を上げた。子どもの顔じゃ、なかった。道の端に立つと、決めた者の、顔だった。
「……わかった」ノエは、言った。「わたしが、書く。ミノワのこと、ぜんぶ。この世界を救った、たった一人の、おまわりのこと。……ぜんぶ、覚えてる。だから」
ノエは、鈴を掲げた。
「だから、ちゃんと、帰って。ミノワの、本当のお家に。そこで、ミノワの、忘れちゃった記憶が、ぜんぶ、待ってるはずだから」
◇
りん――と。
鈴が、鳴った。
澄んだ音が、満月の下、花畑いっぱいに、広がっていった。
俺の体が、光に包まれた。あたたかい、光だった。返されるものだけが知る、あの静かで、あたたかい光だった。
体が、軽くなっていく。この世界から、そっと剥がれていく。
不思議と、怖くは、なかった。むしろ、長い長い当番を終えて、ようやく、家に、帰るような。そんな安らぎが、あった。
俺は、最後に、仲間たちの顔を見た。
ガレトが、太い腕で、目をこすっていた。「達者でな、ミノワ。あんたの町は、俺が、守る。あの交番の看板、錆びさせやしねえ」
鍛冶屋が、無言で、拳を突き出した。俺も、薄くなった拳をそっと合わせた。
母親たちが、子どもらを抱いて、頭を下げていた。あの迷子を見つけてもらった子も、大きくなったら、道の端に立つ人になる、と、べそをかきながら、言った。
メルヴが、深々と、頭を垂れた。「あんたに、会えて……儂の、記録係の、生涯は、報われた。誰にも読まれぬと思って、書き続けた三百年ぶんの記録が、あんた一人に、読まれた。……それで、十分だ」
そして、ノエ。
鈴を握って、涙をこらえて、それでも、まっすぐ、俺を見て、笑おうとしている、ノエ。
その顔を見て――四十年、他人のためにも、自分のためにも、めったに泣かなかった俺の、目から。
ただ一筋、涙が、こぼれた。
これは、俺の、仕事の外の涙だ。だから、一度きり、許してくれ。
「ノエ」俺は、光のなかで言った。「あんたと、組めて。……俺の、最後の当番は、最高だった」
「――ミノワ!」
ノエが、一歩、踏み出した。だが、その手は、もう、俺には、届かなかった。四十年前、俺の手が、あの子に届かなかったように。
だが、今度は、悲しくは、なかった。届かなくても、俺は、ちゃんと、この娘を返した。居場所へ、未来へ返し終えた。それだけで、十分だった。
「行ってくる」俺は、笑って、言った。当番へ出るときの、いつもの一言で。「……ただいまを言いに、な」
光が、満ちた。
鈴の音が、遠く、澄んで、俺を包んだ。
――そして、俺は、俺という最後の落とし物は。
本当の、持ち主のもとへ返されていった。




