第二十章 誓い
夜が、明けた。
西の荒野に、朝日が、差した。昨夜まで、黒い穴が口を開けていた場所には、一面の、白い花畑が、朝露に、輝いていた。三百年の呪いが解けた大地は、まるで、ずっと昔から、そうであったかのように、穏やかだった。
鳥が、鳴いていた。零れの荒野には、生き物の気配など、なかったのに。今は、花の上を小さな虫が飛び、その羽音に、生きた世界の、朝の匂いが、混じっていた。
俺は、祭壇の跡に、腰を下ろして、その光景を眺めていた。
妙な気分だった。四十年、道の端で、こういう夜明けをいくつも、見送ってきた。当直明けの、疲れた体に差し込む、朝の光。あのときと、同じ光が、世界を一つまたいだ、この荒野にも、差していた。夜明けは、どこの世界でも、同じように、静かで、あたたかかった。
傍らには、ノエが、いた。ガレトも、鍛冶屋も、母親衆も、ラドの連中が、みな、そこにいた。背負われたメルヴは、朝日のなかで、静かに、微笑んでいた。
王都から、使者が、来たのは、昼近くだった。
昨夜のことは、瞬く間に、国じゅうに、伝わっていた。勇者王の嘘。三百年の真実。そして、たった一人のおまわりが、剣も持たずに、世界を救ったこと。
使者は、俺の前に、跪いた。
「蓑輪殿。あなたに、王国は、最上の栄誉を贈りたい。……新たな、勇者王の位を。この国の、王の座を。あなたこそが、真に、世界を救った、英雄です」
◇
俺は、しばらく、その言葉を噛みしめた。
勇者王。王の座。四十年、巡査部長どまりだった、うだつの上がらない男に、差し出された、この上ない栄誉。
だが、俺は、ゆっくりと首を横に振った。
「断る」
使者が、目を見開いた。周りの連中も、息を呑んだ。世界を救った男が、王の座を断る。それは、この国の、誰にも、理解できないことだった。手柄を立てた者が、位を得る。それが、当たり前の、世界だったからだ。
「なぜ、です」使者が、掠れた声で、聞いた。「あなたは、それに、値する、お方だ」
「値するとか、しないとか、そういう話じゃ、ない」俺は、答えた。「俺は、英雄じゃない。勇者でも、王でも、ない」俺は、立ち上がった。「俺は、ただの、落とし物係だ。この世界を救ったのは、俺一人じゃない。名前を読み上げたメルヴだ。囮になったガレトたちだ。錠を開けた鍛冶屋だ。声を上げた母親たちだ。そして、失った者を思い出して、呼んでくれた、何万という民、全員だ」
俺は、荒野を埋める民を見回した。
昨夜、涙を流した、その顔、その顔。誰も、英雄では、なかった。ただの、パン職人で、母親で、老人で、子どもだった。だが、その一人ひとりが、たった一つずつ、失った者を思い出した。それが、世界を救った。
「英雄ってのは、一人で、世界を救う。だから、その一人がいなくなれば、世界は、また、困る。……そんな危ういもんに、頼っちゃ、いけない。昨夜、わかったろう。世界を救うのは、一人の英雄じゃない。一人ひとりが、隣の誰かを忘れないでいること。落とし物を拾って、返すこと。その地道の積み重ねだ」
俺は、使者に、言った。
「王の座は、いらん。その代わり、一つだけ、頼みがある」
◇
「この国じゅうに、交番を作ってくれ」
俺は、言った。
「落とし物を預かる場所だ。困った者が、駆け込める場所だ。道の端に、誰かが、立っている場所だ。派手じゃない。手柄にもならない。だが、そこに一人、いつも立っている者がいれば、人は、安心して、眠れる」
俺は、四十年、立ち続けた、あの交番のことを思い出していた。豆腐屋の婆さん。その顔は、もう、思い出せない。だが、あの言葉だけは、覚えていた。あんたが立っててくれるだけで、安心して眠れる。
「そして、遺失物台帳を作る。この国で、失われた、あらゆるものを一つずつ、書き留める。人も、物も、名前も。二度と、なかったことに、しないために。誰も、忘れられないために」
俺は、懐から、あの台帳を取り出し、掲げた。
ノエが、清書し、絵を添え、俺の名の隣に「今は、ノエの相棒」と書き足してくれた、あの台帳を。
「難しいことは、いらん」俺は、続けた。「立派な城も、強い軍隊も、いらん。ただ、道の端に、立つ者を置けばいい。困りごとを最後まで、聞く者を。落とし物を一行、書き留める者を。……そういう、地味な者をこの国じゅうの、どんな小さな村にも、一人ずつ、置いてくれ。それだけで、この世界は、二度と、零れない」
「これが、俺の、贈る、誓いだ。喪の主を討つ、勇者は、もう、いらない。その代わり、この国の、どんな辺境にも、道の端に立つ、おまわりを置いてくれ。……それが、世界を二度と、零れさせない、たった一つの、道だ」
使者は、しばらく、言葉を失っていた。
剣も、魔法も、栄誉も、求めない。ただ、地味な見張りを国じゅうに置いてくれ、と。そんな願いを口にした者は、この国の歴史に、一人も、いなかった。
やがて、使者は、深々と、頭を垂れた。
「……承知、いたしました。必ず、王に、お伝えいたします」
その日、オルヴァ王国は、新たな、誓いを立てた。
勇者を崇めるのをやめた。代わりに、失われたものを記録し、返す、無数の交番を国じゅうに置くことを誓った。
救う、という言葉の、意味が、変わった。
倒して、救うのでは、なく。失くしたものを持ち主に返して、救う。世界という大きな落とし物を一つずつ、迎えに行くこと。それが、この国の、新しい、救いになった。
人々は、あの西の花畑に、小さな碑を建てた。剣を掲げた英雄の像では、なかった。ただ、一冊の、開かれた台帳の形をした、石だった。そこには、こう、刻まれた。
「ここに還らずの民を迎えたり。もう二度と、誰も、なかったことには、しない」
誰の名も、大きくは、彫られていなかった。勇者王の名も、蓑輪巡一の名も。ただ、返された民の、一人ひとりの名だけが、小さく、しかし、確かに、刻まれていた。
それでいい、と俺は思った。
落とし物係の名前なんて、台帳に、残らなくていい。残るべきは、返された者の名前だ。それが、返す側の、務めであり、誇りだった。
ノエが、その碑の前に立ち、刻まれた名を一つずつ、指で、なぞっていた。カレン。ヨナ。ミム。同じ、還らずの民の名を。自分の、繋がる者たちの名を。ノエは、もう、独りぼっちの拾われ子では、なかった。
◇
夕暮れ。
民が、それぞれの町へ、帰っていくのを見送りながら、俺は、一人、白い花畑に、立っていた。
そして、ふと自分の、両手を見た。
手の輪郭が、朝よりも、また少し、薄く、なっていた。
昨夜、民の道を視るために、俺は、元の世界の記憶の、根こそぎを燃やした。もう、俺には、帰る場所の記憶が、ほとんど、残っていない。俺という存在の、根っこが、この世界にも、あの世界にも、繋ぎ止められなく、なりかけていた。
持ち主の、わからない、落とし物。返す先を失くした、品。
それが、今の、俺だった。
三百年の民は、返した。だが――俺自身という最後の落とし物は、まだ、返す先が、決まっていなかった。
りん、と。
背後で、ノエの鈴が、鳴った。
振り向くと、ノエが、心配そうな顔で、俺の、薄くなった手を見つめていた。
「ミノワ……その手。だんだん、透けて……」
ノエの声が、震えていた。あの繋ぎ止められた男たちと、同じだ、と気づいたのだろう。俺もまた、零れかけている。しかも、返すべき記憶を自ら、燃やし尽くして。
俺は、その薄くなった手をそっと握って、開いた。痛みは、なかった。むしろ、四十年ぶんの重荷を下ろしたような、奇妙な、軽さがあった。
「泣くな」俺は、静かに、微笑んだ。「これは、悪いことじゃ、ない」
返す番が、来たのかもしれない、と思った。
この世界が落とした、最後の落とし物――俺自身を本当の持ち主のところへ返す番が。
人の落とし物を返し続けた男が、最後に、自分を返す。
案外、それは、俺には、似合いの、幕切れなのかもしれなかった。




