第十九章 返却
俺は、鉛筆を握りしめた。
剣も、魔法も、ない。俺の得物は、この一本の鉛筆と、一冊の台帳だけだ。だが、今夜、この夜だけは、それで、十分だった。
「メルヴ! 名前を読み上げてくれ!」
俺は、群衆の後方に、叫んだ。腰を打って動けぬはずのメルヴが、ガレトに、背負われて、そこにいた。老いた記録係は、震える手に還らずの民の、古い名簿を――教会の書庫から、命がけで、書き写してきた、その一枚を握りしめていた。
「……ソルナの民、第一の家。カレン。ヨナ。ちいさなミム……」
メルヴが、しわがれた声で、名を読み始めた。三百年、誰にも呼ばれなかった名を。
俺は、その名を台帳に、一つずつ、書き取っていった。
カレン。ヨナ。ミム。
鉛筆の先が、紙を走る。四十年、繰り返してきた、なんでもない動作。落とし物を記録に留める。ただ、それだけの動作が、今、三百年の忘却を覆そうとしていた。
◇
名を一つ、書くごとに。
穴の底の、鈴の音が、一つ、鳴りやんでいった。
りん――と、澄んだ音を最後に残して。まるで、長いあいだ、返事を待っていた者が、ようやく、自分の名を呼ばれて。ああ、と、安堵の息をつくように。
俺は、思い出していた。四十年前の、あの交番の棚を。持ち主を待つ、無数の落とし物を。片方の手袋。子どもの水筒。骨の折れた傘。あの一つひとつにも、返される日を待つ気持ちが、あったのだろうか。あったのだ、と、今なら、わかる。返される、ということは、こんなにも、静かで、こんなにも、あたたかいことだったのだ。
「聞こえてるぞ」俺は、書きながら、穴に向かって、呟いた。「今、迎えに、来た。三百年、待たせて、悪かった。……あんたたちは、もう、なかったことじゃ、ない。ここに、ちゃんと、書いた」
群衆も、動き始めた。
メルヴの読み上げる名を最前列の者が、繰り返す。その声を後ろの者が、継ぐ。カレン。ヨナ。ミム。名は、波紋のように、荒野いっぱいに、広がっていった。何万という声が、三百年、忘れられていた民の名を口々に、呼んだ。
個の声が、群れの声になった。
荒野が、名前で満たされていく。
そのたびに、穴の底から、白い光が、ひとすじ、ふたすじと、立ち上った。返された民の、魂の光だった。
光は、一つ、また一つと、増えていった。十。百。千。数えきれぬ光が、穴から、あふれ出し、満月へ向かって、昇っていく。荒野は、昼のように、白く、照らされた。三百年、闇の底に沈められていた者たちが、今、いっせいに、光となって、天へ、還っていく。
その光の一つが、俺の頬をそっと撫でて、通り過ぎた気がした。ありがとう、と囁くように。
光は、満月へ向かって、昇り、静かに、夜空に溶けていった。迎えられた者が、ようやく、安らかに、家路に、就くように。
◇
「やめろッ! やめさせろッ!」
鷲塚が、絶叫した。
「その儀式を続ければ、私の……勇者王の、根拠が、崩れる! 誰か、この男を斬れッ!」
だが、もう、誰も、動かなかった。
衛兵たちすら、剣を下ろしていた。彼らもまた、鈴の音に、失った者を思い出していたのだ。自分の母を。妹を。戦友を。なかったことにされていた、大切な、誰かを。
鷲塚は、たった一人、祭壇の上に、取り残されていた。
何万という民が、もう、あの男を見ては、いなかった。みな、俺の書く台帳と、昇っていく光と呼ばれる名前を見つめていた。
英雄の椅子は、崩れ落ちていた。剣の一撃も、なしに。
鷲塚が、血走った目で、腰の剣を抜いた。
「おのれ……ならば、貴様だけでも、道連れに……ッ」
白刃が、月光を跳ね返し、俺の、頭上に、振り下ろされた。
俺は、避けなかった。避ける術も、なかった。ただ、鉛筆を握りしめて、書き続けていた。返しかけの、落とし物を途中で、放り出すわけには、いかなかったからだ。
だが、その剣は、俺には、届かなかった。
◇
ノエだった。
鎖を解かれたノエが、俺と、鷲塚のあいだに、割って入り、両腕を広げていた。
その首で、赤い鈴が、激しく、鳴った。
鷲塚の剣が、宙で、止まった。止まった、というより――止められていた。祭壇の上に、無数の、白い手が、伸びていた。穴から昇ってきた、返された民の、光の手が。三百年前、この男の嘘に、なかったことにされた者たちが、今、その刃から、たった一人の、生き残りの子を守っていた。
「あんたは」俺は、鉛筆を止めずに、静かに、言った。「もう、終わりだ、鷲塚」
剣が、あの男の手から、滑り落ちた。がらん、と、乾いた音を立てて、祭壇に、転がった。
「……なぜだ」鷲塚が、呻いた。「私は、世界を救った。何度も、救ったんだ。なのに、なぜ、私が……こんな落とし物拾いの、老いぼれに……」
あの男は、崩れ落ちるように、祭壇の上に、膝をついた。白銀の鎧が、月光の下で、ただの、空っぽの鉄の塊のように、見えた。
俺は、その姿を見下ろした。
哀れとも、思わなかった。ざまあみろ、とも、思わなかった。ただ、四十年前から、この男は、何一つ、変わっていなかったのだな、と思った。目に見える手柄だけを追い続け、目に見えない、一人ひとりの人間を踏みつけてきた。その果てが、これだった。
「あんたは、討って、終わらせようとした」
俺は、ようやく、鉛筆を止めた。台帳から、顔を上げる。
「英雄は、倒して、終わる。派手にな。だがな、鷲塚。世界ってのは、倒して、救えるもんじゃ、なかったんだ。零れは、化け物じゃない。返されなかった、約束だ。斬っても、斬っても、深まるだけだった。あんたが、いちばん、見ないようにしてきた、地味な事実だよ」
俺は、書き終えた台帳をそっと閉じた。
「英雄は、倒して終わる。おまわりは、返して終わる。……あんたが、四十年、見下してきた、その違いが。今夜の、答えだよ」
鷲塚は、何も、言い返せなかった。
やがて、我に返った衛兵たちが、静かに、その両脇を固めた。もはや、勇者王を守るためではない。罪を犯した一人の男を連行するために。
「送検だ」俺は、静かに、言った。「あんたのやったことは、全部、この台帳に記録した。これから、あんたは、裁かれる。倒されるんじゃない。……裁かれるんだ。逃げも、なかったことにも、できない場所で」
勇者王を運んでいた輿は、今や、囚人を運ぶ、護送の車に変わっていた。三百年、真実を握りつぶしてきた男が、その真実によって、静かに、連れて行かれた。
剣は、一度も、抜かれなかった。血の、一滴も、流れなかった。
それが、おまわりの、決着の、つけ方だった。
◇
最後の名が、呼ばれた。
穴の底の、最後の鈴が、鳴りやんだ。
メルヴの声も、もう、震えては、いなかった。読み終えた名簿を胸に抱いて、老いた記録係は、静かに、目を閉じていた。三百年、この血脈が、守り続けた名前が、今、すべて、返された。その安らぎが、皺だらけの顔に、浮かんでいた。
そして――西の荒野に、三百年、口を開けていた、黒い穴が。
ゆっくりと閉じていった。
こじ開けられた傷が、塞がるのではない。返されなかった約束が、果たされて、痛みが、癒えていくように。穴の縁から、内へ内へと、柔らかな、草の緑が、月光の下で、芽吹き始めた。花が、開いた。三百年、何も育たなかった、呪われた荒野に、一面の、白い花が、咲いていく。ソルナの民が、迷子の子に持たせたという、あの鈴の花に、よく似た、小さな白い花だった。
零れは、止まった。永遠に。
勇者の、剣によってでは、なく。何万という民が、たった一人ずつ、失った者の名を思い出し、呼び、迎え入れた――その地道な、声の積み重ねによって。
荒野は、静寂に包まれた。
風が、白い花の海をさやさやと、渡っていった。
やがて、どこからともなく、すすり泣きが、起こった。それは、悲しみの涙では、なかった。三百年、なかったことにされていた者たちが、ようやく、帰ってきた――その安堵の、涙だった。
一人の老婆が、地に、膝をつき、消えた妹の名を呼びながら、泣いていた。その隣で、若い男が、兄の名を呼んでいた。何万という民が、それぞれの、失った者の名を抱きしめて、泣いていた。
群れの涙が、また、一人ひとりの涙に戻っていく。誰の悲しみも、誰の喜びも、もう、なかったことには、ならなかった。
俺は、その光景を祭壇の上から、静かに、見ていた。
泣いては、いなかった。
泣くのは、俺の、仕事じゃ、ない。俺は、ただ、落とし物を返しただけだ。返し終えたら、道具を片づけ、次の当番へ向かう。それが、四十年、変わらぬ、おまわりの、務めだった。
ただ、閉じた台帳を握る掌に、少しだけ、力が、こもっていた。
四十年。ようやく、俺は。
返せなかった落とし物を返し終えた気が、していた。




