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異世界交番 遺失物係 ―世界という落とし物を、持ち主に返すまで―  作者: もしものべりすと


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第十八章 改ざんの露見

鈴の音を合図に、荒野が、動いた。


 東の門で、ガレトたちが、積み上げられた供物の荷車をいっせいに、ひっくり返した。果実が、酒樽が、地を転がり、群衆が、どよめく。「盗人だ!」「捕らえろ!」衛兵たちが、そちらへ、殺到した。目に見える騒ぎに、目に見える対応。単純な連中だった。それが、狙いだった。


 母親衆が、子どもらとともに、外周で、声を張り上げた。「衛兵が、東へ走ったよ!」「祭壇の裏が、手薄だ!」その声は、誰の耳にも、ただの、はぐれた民の、悲鳴に、しか聞こえない。だが、俺には、正確な、戦況の報せだった。


 その隙に、祭壇の裏手で、鍛冶屋が、ノエの鎖の錠前に、細い鉄棒を差し込んでいた。錆びた古鍵の錠だ。かちり、と、乾いた音。鎖が、外れた。


 「ノエ! 鈴を! 今だ!」


 俺は、階の下から、叫んだ。


 ノエが、自由になった手で、首の、赤い鈴を握った。そして、穴のほうへ、身を乗り出すようにして、力いっぱい、鳴らした。


 りん――。


 その音は、これまでの、どの鈴とも、違った。


 還らずの民の、本物の鈴。三百年前、民が身を投じたとき、鳴らし続けた鈴と、同じ音。それが、真上の満月と、共鳴した。


 ◇


 穴の底から、応えるように、無数の鈴の音が、湧き上がった。


 りん、りん、りん、と。三百年、返されるのを待ち続けた、ソルナの民の、魂の音だった。


 その音は、まず、一人の、老婆の胸を打った。


 最前列にいた、白髪の老婆が、はっと、宙を見上げた。「……マレナ。あたしの、妹。零れて、消えた……ずっと、忘れてた。ごめん、ごめんね、忘れて……」老婆は、その場に、膝をついた。


 その隣の、若い男が、目を見開いた。「兄貴が、いた。おれには、兄貴が、いたんだ。なんで、忘れてた……」


 波紋のように、それは、広がっていった。一人が、思い出し、隣が、思い出し、その隣が。何万という群衆が、次々と、忘れさせられていた、大切な誰かを取り戻していく。


 荒野いっぱいの松明が、揺れた。すすり泣きが、さざなみのように、広がり、やがて、大きなうねりになった。


 誰も、勇者王の名を唱えては、いなかった。


 みな、消えた、誰かの名を呼んでいた。


 鷲塚の顔が、初めて、はっきりと、歪んだ。


 「やめろ……その鈴を止めろッ!」


 あの男が、狼狽していた。剣で化け物を斬るときにも、見せなかった顔で。自分の足元で、三百年ぶんの忘却が、音を立てて、崩れていくのをなすすべもなく、見ていた。


 俺は、その隙を逃さなかった。


 衛兵の囲みが、鈴の音への動揺で、緩んでいた。俺は、階を駆け上がった。四十年、道の端に立ち続けた足が、今、まっすぐ、祭壇の中央へ向かっていた。


 鷲塚が、原本を聖火のほうへ、突き出した。焼き捨てるつもりだ。三百年の真実をこの期に及んで、なかったことに。


 だが、その手首を、俺は、掴んだ。


 剣も魔法もない、ただのおっさんの手だ。だが、この掌には、四十年ぶんの、意地が、詰まっていた。返せなかった落とし物を二度と、取りこぼさないという意地が。


 「離せ、下郎ッ」


 「離さん」俺は、老いた歯を食いしばった。「これは、みんなの、落とし物だ。あんたに、焼かせるわけには、いかん」


 鷲塚の手から、原本をもぎ取る。


 「返してもらうぞ。世界という落とし物を」


 ◇


 俺は、原本を満月の光にかざした。


 掌の下で、原本が、震えていた。いや、震えていたのは、俺の手のほうだった。三百年、誰にも読まれなかった記録。ようやく、それが、読まれる。彫った男の、待ち続けた、その瞬間に、俺は、立ち会っていた。


 月光の下でしか読めない、最後の一頁。月光符牒。青白い光が、頁に差し込むと、これまで見えなかった文字が、じわりと、浮かび上がってきた。


 俺は、それを腹の底から、読み上げた。四十年、雑踏で人を止めてきた、おまわりの声で。何万の民の、耳に、届くように。


 「聞け! これは、この国の、最初の、現場記録だ。改ざんされる前の、本物の、調書だ!」


 群衆が、静まり返った。鈴の音だけが、荒野に響いていた。


 「三百年前、喪の主なんて、怪物は、いなかった! 西の穴を塞いだのは、勇者じゃない! ソルナの民が、村ごと、身を投じて、世界を繋ぎ止めたんだ! そして、民は、たった一つ、願った。忘れないでくれ、と。いつか、迎えに来てくれ、と!」


 俺は、鷲塚を指さした。


 「だが、この国は、その約束を破った! 民をなかったことにして、勇者の手柄に、すり替えた! 零れは、そのせいだ! 返されなかった民が、鈴を鳴らして、仲間を呼び続けてるんだ! 勇者王が、儀式をやるたび、零れが、深まるのは――嘘の上に、また、嘘を塗り重ねてるからだ!」


 どよめきが、波のように、広がった。民の目が、鷲塚を見上げる。疑いの、目で。


 「でたらめだ!」鷲塚が、叫んだ。「そんな書き付け一つ、なんの証拠になる!」


 「証拠は、あんたたちの、記憶だ」俺は、言った。「今、鈴の音で、思い出しただろう。消えた、誰かを。なかったことにされた、隣人を。……それが、証拠だ。あんたたちが、忘れさせられていた、その事実こそが」


 群衆の、あちこちで、すすり泣きが、漏れ始めた。思い出したのだ。失った者を。忘れさせられていた、悲しみを。


 「王よ!」誰かが、群衆のなかから、叫んだ。「おれの、女房は、どこだ! 去年、消えた! あんたが、救うと言った、その年に!」


 「うちの子も!」


 「答えろ、勇者王!」


 声は、一つ、また一つと、増え、やがて、荒野を揺るがす、大きな叫びになった。何万という民が、今、勇者王ではなく、失った者の、行方を問うていた。


 鷲塚が、後ずさった。白銀の鎧が、月光の下で、みじめに、震えていた。あれほど、盤石だった、英雄の椅子が、たった一つの、鈴の音と、一冊の、古い記録によって、足元から、崩れ去ろうとしていた。


 剣は、抜かれなかった。俺は、あの男に、指一本、触れていない。ただ、隠されていた事実を光の下に、引きずり出しただけだった。


 これが、立件だ。


 殴り倒すんじゃない。逃げ場をなくすんだ。事実という、いちばん重い証拠で、静かに、追い詰める。剣よりも、魔法よりも、それは、確かに、あの男を追い詰めていた。


 ◇


 俺は、原本の、最後の一行に、目を落とした。


 月光符牒が、告げる、最後の真実。持ち主は、誰か。三百年、封じられてきた、その答え。


 俺は、それを読んだ。


 そして――静かに、息を呑んだ。


 そこには、こう、書かれていた。


 「――還らずの民の、持ち主は。この世界の、すべての民である。彼らは、誰か一人のものではない。世界そのものが、彼らを失くした。ゆえに、世界そのものが、彼らを迎えねばならぬ」


 持ち主は、民、全員。


 消えた者は、誰か一人の、落とし物じゃ、なかった。この世界に生きる、全員が、失くした、全員の、落とし物だった。テオを失くしたのは、ノエだけじゃない。この世界、みんなが、テオを失くしたのだ。ただ、忘れていただけで。


 その一行を読んで、俺は、四十年ぶんの、答えをもらった気がした。


 あの子を失くしたのは、俺、一人じゃ、なかった。俺が抱えてきた、あの悔いは、本当は、あの街、みんなの、悔いだった。ただ、俺一人が、覚えていただけ。落とし物とは、そういうものだ。誰か一人が抱え込むものじゃない。みんなで、覚えて、みんなで、迎えに行く。それでこそ、返せる。


 俺は、顔を上げた。何万という涙に濡れた顔が、俺を見つめていた。


 「聞いたか」俺は、静かに、しかし、荒野の隅々まで、届く声で言った。「消えた連中は、あんたたち、全員の、落とし物だ。誰か一人が、覚えてればいい話じゃない。あんたたち、全員で、迎えに、行かなきゃ、ならないんだ」


 俺は、原本を高く、掲げた。


 「今から、このなかったことにされた民を記録に返す。世界そのものに返す。……手を貸してくれ。あんたたちの、思い出す力を、俺に、貸してくれ」


 鈴の音が、いっそう、高く、鳴り響いた。


 三百年、待ち続けた声が、今、ようやく、聞き届けられようとしていた。

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