第十七章 護送
満月の夜が、来た。
西の荒野に、巨大な穴が、口を開けていた。ソルナの民が、三百年前、身を投じた、あの穴だ。底の見えない、黒い口。そこから、かすかに、無数の鈴の音が、風に乗って、聞こえてくる気がした。おいで、おいで、と。三百年、返されなかった者たちの、呼び声だった。
その真上に、丸い満月が、青白く、冴えていた。
穴の縁に、壮麗な祭壇が、組まれていた。金と、緋色で、飾り立てられた、勇者王のための舞台。そのまわりに、国じゅうから集まった民が、松明を掲げ、埋め尽くすように、居並んでいる。何万という人だった。松明の炎が、荒野いっぱいに、揺れて、まるで、地上に、もう一つの、星空が、広がっているようだった。
人々は、笑っていた。歌っていた。今宵、世界は、永遠に救われる。もう二度と、大切な者を失わずに済む。誰もが、そう信じて、勇者王の名を口ずさんでいた。
その幸福そうな顔の一つひとつを、俺は、見た。
こいつらは、知らない。この歓声が、穴をこじ開けていることを。自分たちの隣で、また誰かが、消えようとしていることを。忘れさせられたまま、救われたと、信じ込まされている。
祭壇の頂に、鷲塚統吾が、立っていた。白銀の鎧が、月光を跳ね返している。その足元に、小さな人影が、鎖で、繋がれていた。
ノエだった。
俺は、群衆の後方の、闇のなかから、その姿を見た。無事だ。まだ、間に合う。掌のなかで、鉛筆を握りしめた。
「行くぞ」俺は、低く、言った。「護送を始める」
「護送、ってのは」ガレトが、囁いた。
「大事な、証拠や、罪人を目的の場所まで、守り抜いて、運ぶことだ」俺は、答えた。「今夜、俺が、運ぶのは、三百年ぶんの、真実だ。誰にも、奪わせず、握りつぶさせず。あの祭壇の、真ん中まで。……何が、あってもな」
護送は、警察の仕事のなかでも、いちばん、気の抜けない部類だった。運ぶものが、大事であればあるほど、奪おうとする者が、現れる。四十年前、俺には、守り抜けなかった。握りつぶされた一行を上へ、届けきれなかった。
だが、今度は、違う。
この真実は、たった一人の上司の机に、届ければいいものじゃない。国じゅうの、何万という民の、耳に、届ける。誰にも、握りつぶせない場所まで、運ぶ。それが、今夜の、護送だった。
◇
俺たちは、群衆に、紛れ込んだ。
物売りに化けたガレトたちが、東の門から。母親衆が、子連れで、外周に。鍛冶屋が、ノエの繋がれた祭壇の、裏手へ。それぞれが、それぞれの持ち場へ、静かに、散っていった。
誰も、目立たなかった。それが、狙いだった。勇者王の目は、光の当たる、祭壇の中央しか、見ていない。物売りや、子連れの母親や、下働きの職人など、あの男の視界には、初めから、映らない。俺たちの、地味さこそが、いちばんの、隠れ蓑だった。
俺は、祭壇の、正面を目指した。
だが、警備は、思った以上に、厳重だった。祭壇へ近づく道は、幾重にも、衛兵で、塞がれている。まともに、進めば、たちまち、捕らえられる。
俺は、現認の眼を開いた。
この荒野に、失われた道の、痕跡を探す。三百年前、ソルナの民が、穴へ向かって、歩いた、その道を。民が、最後に、通った道は――いまも、この地に、白く、残っているはずだ。
あった。
群衆の足元、衛兵の隙間を縫うように。三百年前、鈴を鳴らしながら歩いた、民の、足跡の道が、俺の眼にだけ、白く、灯っていた。その道は、警備の裏をすり抜けて、祭壇の、真下まで、続いていた。
だが。
その道を視た瞬間。頭の奥が、鋭く、痛んだ。
残っていた記憶が、また、削れていく。俺の、名前以外の、ほとんど全部が、白い霧になっていく。妻の顔も。子の顔も――そもそも、いたのかどうかすら、もう、わからない。四十年の、勤めの日々も。ぜんぶ。
俺は、歯を食いしばった。
現認を使うたびに、俺は、俺自身を支払っている。この民の道を最後まで視るには、たぶん、残った記憶の、根こそぎを差し出すことになる。あの世界へ、帰る道しるべを完全に、失うことになる。
一瞬、指が、止まった。
これを手放したら、俺は、もう、どこにも、帰れない。蓑輪巡一という男が、どこから来たのか、それを知る者は、この宇宙に、一人も、いなくなる。
だが。
聖火のほうへ、引きずられていく、小さな影が、見えた。ノエだ。俺を待っている。
構うものか。
俺は、四十年前、握れなかった小さな手のことを――その顔さえ、もう思い出せないその子のことをそれでも、掌の感触だけで、覚えていた。あのとき、俺は、間に合わなかった。今度は、間に合わせる。そのためなら、俺の来し方の、ぜんぶをくれてやる。
落とし物を返す力の、代償は、俺自身の、帰り道。
上等だ。俺は、もう、この世界の、落とし物係だ。帰り道の記憶より、目の前の、返すべき落とし物のほうが、ずっと、大事だった。
俺は、最後の記憶を燃やして、その白い道を歩き出した。
◇
民の足跡の道は、俺を祭壇の真下まで、導いた。
頭上で、鷲塚の声が、朗々と、響き渡っていた。
「見よ、我が民よ! 今宵、私は、喪の主を完全に、討ち滅ぼす! この忌まわしき穴を永遠に、閉ざし、世界を救ってみせる!」
群衆が、地鳴りのように、沸いた。勇者王、勇者王、と。
鷲塚の手には、あの鎖で縛られた原本が、握られていた。彼は、それを祭壇の中央で、赤々と燃える、聖火の上にかざした。
「そして、この異端の書も! 忌まわしき、還らずの民の、最後の一人も! すべて、この火で、なかったことに、する!」
衛兵が、鎖に繋がれたノエを聖火のほうへ、引きずっていく。
ノエは、抵抗していた。だが、その顔は、涙で、濡れていた。
「ミノワ……ミノワ……ッ」
あの子は、こんな時でも、俺の名を呼んでいた。俺が、必ず来ると、信じて。
俺の、胸が、燃えた。
届く。今度こそ、届かせる。
俺は、祭壇の、階を駆け上がろうとした。
その瞬間だった。
◇
「――待っていたぞ、蓑輪」
階の上に、鷲塚が、俺を見下ろして、立っていた。
いつのまにか、聖火のそばを離れ、俺の来る道を読んでいたかのように。その手には、原本が、握られたまま。
「貴様が、そのはぐれ者の眼で、民の道をたどってくることは、わかっていた」鷲塚は、冷たく、笑った。「三百年、誰にも読めなかった道だ。だが、貴様になら、読める。……ご苦労だったな。おかげで、最後の証人も、揃った」
周囲の衛兵が、いっせいに、俺を取り囲んだ。
罠は、まだ、続いていた。あの男は、俺の、現認を最後まで、利用し尽くすつもりだった。
俺は、階の途中で、足を止めた。
見上げる先、聖火のそばで、ノエが、鎖を引かれていく。原本は、鷲塚の手の中。俺は、丸腰で、衛兵に、囲まれている。
どう見ても、詰み、だった。
「哀れなものだ、蓑輪」鷲塚は、俺を見下ろして、言った。「あの世でも、この世でも、貴様は、変わらん。手柄にならぬ仕事に、しがみつき、返らぬ落とし物を後生大事に、抱えて。……見ろ、この民を。私は、こいつらに、勝利を希望を与えた。貴様が、その台帳に書いた、名も知れぬ死人どもより、何万倍も、価値のある仕事だ」
「あんたは」俺は、階の下から、あの男をまっすぐ、見上げた。「一つだけ、昔から、わかってない」
「なんだと」
「あんたのやってるのは、救済じゃない。忘却だ。人を救ってるんじゃない。忘れさせてるだけだ。……救われたと思ってる、この顔ぜんぶ、明日、また誰かを失って、そのことにすら、気づかない」
鷲塚の、眉が、吊り上がった。
「減らず口を」
俺は、静かに、懐から、鉛筆を取り出した。
四十年、握り続けた、一本の鉛筆を。剣でも、魔法でもない。俺の、たった一つの得物だ。
「鷲塚」俺は、言った。「あんたは、もう一つ、勘違いしてる」
「なに」
「俺が、一人で、来たと思ってるだろう」
その時。
祭壇の裏手から、澄んだ、鈴の音が――りん、と、夜気を貫いて、響き渡った。
それは、合図だった。世界一小さな帳場の、地道な仲間たちが、それぞれの持ち場で、動き出す、合図だった。




