第十五章 誰も読まない記録
どれほど、そうしていただろう。
闇のなかで、メルヴの、掠れた声が、俺を呼んだ。
「ミノワ……その台帳を……儂に、読んで、くれんか」
「読んでも、無駄だ」俺は、答えた。声が、自分のものとは思えぬほど、乾いていた。「誰も、読まない記録だ。意味なんか、ない」
「意味が、あるか、ないかは……読み手が、決める」老人は、荒い息の合間に、言った。「儂は、聞きたい。あんたが、この世界で、何を拾ってきたのか。……死ぬ前に、一つくらい、まっとうな話を聞いて、逝きたい」
俺は、しばらく、動けなかった。
それから、のろのろと、床の台帳を拾い上げた。開いた頁を月明かりにかざす。ノエの、几帳面な字が、並んでいた。
俺は、読み始めた。最初は、ただ、文字をなぞるだけの、つもりで。
「パン屋・テオ。ラドの町。零れにより、喪失。遺留品、前掛け一。……この男は、拾われ子のノエに、朝いちばんの、細長いパンをただでくれた」
読みながら、俺は、思い出していた。
台帳の一行の、その奥にあった、光景を。粉まみれの前掛け。焼きたての匂い。それを胸に抱いて、泣いたノエの、震える肩を。
◇
「洗濯女・マヤ。井戸端で、よく笑っていた。……子どもたちの、破れた服をこっそり、繕ってやっていた」
「片脚の元兵士。子どもらに、昔話をしていた。戦の話は、一度も、しなかった。優しい話ばかり、していた」
「花売りの女。名は、わからない。王都の広場で、勇者王の儀式の日に、消えた。売り物の、白い花だけが、盆に、残された」
一行ずつ、読み上げるたびに。
消えたはずの者たちが、闇のなかに、ぼんやりと、立ち上がってくる気がした。テオが、笑う。マヤが、繕い物をする。兵士が、子どもらに、囲まれる。名も知らぬ花売りが、盆いっぱいの、白い花を差し出す。
メルヴが、目を閉じて、聞いていた。時々、そうか、そんな者が、いたのか、と呟きながら。
俺の、乾いていた胸の底に、じわりと、熱が、戻ってきた。
この一行は、ただの文字じゃ、なかった。
テオが、確かに、生きて、ノエを可愛がった、その証だった。マヤが、繕った服の、暖かさだった。兵士が、語った、優しい話の、記憶だった。それは、この世界が、なかったことにしようとした、人間の、生きた温もりの、全部だった。
俺は、読み上げる声が、震えるのを止められなかった。
そして、最後の頁に、たどり着いた。
「……蓑輪巡一。あの子に、鈴を返せなかった男。……今は、ノエの、相棒」
ノエの、書き足した一行。
その字を見た瞬間。
俺の頭のなかで、崩れていたはずの記憶が、一つ、鮮やかに、蘇った。
ノエの、涙をこらえた顔。あんたが、忘れても、わたしが、覚えてる。あんたが、何のために、戦ってるのか。あんたが、どんなに、優しい男か。
――だから、ミノワ。あんたも、消えないで。
◇
俺は、はっと、顔を上げた。
わかった。
誰も、読まない記録なんて、なかったのだ。
三百年前、あの碑文を命がけで彫った男。誰にも読まれないと知りながら、それでも、事実を遺した男。あいつの記録を三百年後、俺が、読んだ。読んだ瞬間、あいつの三百年の孤独は、報われた。あいつは、独りじゃ、なくなった。
記録は、いつか、読まれる。読むべき、たった一人の読み手に、必ず、届く。
考えてみれば、俺自身が、その証明だった。四十年、俺は、自分の一行を、誰も読まないと思ってきた。握りつぶされ、鼻で笑われ、忘れられると。だが、俺の書いた一行を、ノエが、読んだ。清書し、絵を添え、大切にしてくれた。俺の四十年は、世界を一つまたいで、たった一人の相棒に、届いていたのだ。
時効は、ない。
罪には、時効があっても。落とし物にも、記録にも、届かなかった一行にも――時効は、ない。
俺の、書いてきた台帳も、同じだ。俺が、忘れても。ノエが、覚えている。ノエが、忘れても。この一行が、覚えている。この一行をいつか、誰かが、読む。
俺は、四十年、無駄なことなんか、していなかった。
道の端の立番も。巡回連絡も。返せなかった鈴を毎朝、埃を払ったことも。全部、誰かへ届く、記録だったのだ。
鷲塚は、間違っていた。覚えていないなら、いなかったのと同じ――違う。覚えている者が、一人でもいれば。書いた一行が、一つでも残っていれば。その者は、確かにいたのだ。なかったことには、ならない。それを証明するために、俺は、この世界へ、来たのかもしれなかった。
その時。
俺は、自分の右手を見た。
透けかけていた、指先の輪郭が。
いつのまにか、元に戻っていた。
零れが、止まっていた。
俺という存在が、この世界に繋ぎ止め直されていた。
――そうか。
俺は、理解した。俺を繋ぎ止めたのは、元の世界の記憶じゃ、なかった。俺が、この世界で、返すべき落とし物。俺を待っている、たった一人の相棒。返す相手が、いるということ。それが、俺をこちら側に繋ぎ止めていた。
あの木彫りの鳥を握った男と、同じだ。
返す相手のいる者は、そう簡単には、消えない。
◇
俺は、立ち上がった。
膝は、もう、笑っていなかった。
「メルヴ。あんたのおかげだ」俺は、老人の、痩せた肩に、手を置いた。「思い出した。俺が、何者で、何をしなきゃならないか」
「……いい、顔になった」メルヴは、薄く、笑った。「さっきまでの、あんたは、死人の顔をしておったぞ」
俺は、台帳を懐に、収めた。
鉛筆を握り直す。四十年、握り続けた、あの感触が、掌に戻ってきた。
やるべきことは、決まっていた。
ノエを取り戻す。原本を取り戻す。そして、三百年、返されなかった落とし物を――還らずの民をこの世界の記録に返す。
それは、勇者の、やり方じゃない。剣も、魔法も、使わない。
俺の、やり方だ。落とし物係の、初動から始める、地道な、やり方だ。
「メルヴ。一つ、教えてくれ」俺は、老人の前に、膝をついた。「あの最終消去の儀。西の穴の、真上で、行われるんだな。満月の、光の下で」
「そうだ」
「なら、そこには、この国じゅうの、民が、集まる」俺は、頭のなかで、絵図を組み立てた。四十年、事件の筋読みをしてきた、刑事の頭が、久しぶりに、冴えていた。「勇者王は、その大勢の前で、派手に、儀式をやる。世界を救う、最大の見せ場だ。……つまり、あの場は、この国の、全員が、証人になる場所だ」
メルヴの、濁った目が、見開かれた。
「まさか、あんた……」
「ああ」俺は、頷いた。「あの場所に、原本を運び込む。満月の光でしか読めない、最後の真実をあの場所で、読む。この国の、全員が、見ている前で。……勇者王が、いちばん見せたい舞台の、ど真ん中で、三百年の嘘を立件する」
勇者は、化け物を討って、終わる。
だが、おまわりは、違う。
証拠を集め、事実を突き止め、それを白日の下に、引きずり出して、初めて、事件は、終わる。犯人を殴り倒すんじゃない。逃げ場をなくすんだ。
「立件する」
俺は、闇の向こう、王都の、大聖堂を睨んで言った。
「三百年前の、事件を。改ざんされた、調書の、真実を。……全部、白日の下に、引きずり出す」
だが、俺一人では、できない。原本は、敵の手の中。ノエは、囚われの身。俺には、剣も、兵も、ない。
どうやって、あの厳重な儀式の場へ、原本を運び込み、真実を読むのか。
その算段を始めようとした、その時だった。
廃屋の戸が、外から、乱暴に、叩かれた。
俺は、身構えた。教会の追っ手か。
だが、戸の向こうから、聞こえてきたのは、聞き覚えのある、太い声だった。
「おい、ミノワ! いるんだろ、開けろ! ……ラドの連中を引き連れて、来てやったぞ!」
ガレトの、声だった。
俺は、戸を開けた。
外には、松明を手にした、ラドの町の連中が、大勢、立っていた。ガレトを先頭に、迷子を見つけてもらった母親も、掏摸を捕まえてもらった商人も、零れかけたところを繋ぎ止められた男も。俺が、この世界で、落とし物を返してきた、その一人ひとりが、そこにいた。
「あんたが、王都で、お尋ね者になったって聞いてな」ガレトが、にやりと、笑った。「町の連中が、黙っちゃいなかった。恩を返すってのは、こういう時のこったろう」




