第十四章 完全なる喪失
どうやって、地上に、這い上がったのか。よく、覚えていない。
気がつくと、俺は、あの貧民街の廃屋で、壁に、背を預けていた。傍らでは、メルヴが、荒い息をついて、横たわっていた。地下で突き飛ばされたとき、したたか、腰を打ったらしい。老いた体には、こたえていた。
「儂のことは……いい」メルヴは、掠れた声で言った。「それより……あんたは、どうなんだ。ミノワ」
老人の額には、脂汗が、浮いていた。息をするたびに、打った腰が、痛むのだろう。顔から、血の気が、引いていた。長い、逃亡と、地下の湿気が、この歳の体を確実に、削っていた。ここには、医者もいない。薬もない。あるのは、崩れかけた壁と、冷えた床だけだった。
部屋には、かすかに、死の匂いが、漂い始めていた。老いと、疲弊と、諦めの、匂いだった。
「……すまん」俺は、それだけ、言った。
この老人をこんな戦いに、引きずり込んだのは、俺だった。三百年の真実を掘り起こしたところで、俺たちは、何一つ、変えられなかった。ただ、ノエを奪われ、原本を奪われ、老人を死の淵に、追いやっただけだった。
俺は、答えられなかった。
自分が、どうなのか。それすら、うまく、掴めなかった。
地下で、あれだけ現認を使った。その代償が、いま、いっぺんに、押し寄せていた。
俺は、思い出そうとした。俺は、誰だ。どこから、来た。なぜ、ここにいる。
――蓑輪、巡一。
名前は、かろうじて、残っていた。だが、その先が、霧だった。四十年、立ち続けた道の端。同僚の顔。上司の顔。自分が、なぜ、警察官になったのか。あの子の顔は、もう、完全に、消えていた。返せなかった鈴の、赤い色だけが、辛うじて、残っている。
俺を、俺たらしめていた記憶が、砂のように、指の間から、こぼれ落ちていた。
俺は、震える指で、自分の顔に触れた。この顔すら、鏡がなければ、思い出せる自信がなかった。妻はいたのか。子はいたのか。友は。師は。四十年の勤めのなかで、俺を叱り、俺を励まし、俺と酒を飲んだであろう、無数の顔。そのどれもが、輪郭を失い、ぼんやりとした、白い塊になっていた。
残っているのは、断片だけだった。ぬるいお茶の味。切れかけた蛍光灯の音。誰かがくれた、湯気の立つ、豆の匂いのする何か。棚の奥の、赤い紐。それらが、意味も繋がりもないまま、頭のなかを漂っていた。
これが、代償か、と俺は思った。人の落とし物を拾うたびに、俺は、自分という人間を少しずつ、落としてきた。そして今、いちばん大事な局面で、俺は、ほとんど、空っぽに、なりかけていた。
ノエを助けたい。その気持ちだけは、まだ、あった。だが、なぜ、これほど、あの娘を助けたいのか。その根っこにあったはずの、四十年ぶんの後悔が、もう、思い出せない。動機を失った決意は、風の前の、灯火のように、頼りなかった。
◇
その夜、俺は、一人、台帳を開いた。
ノエが、奪われる前に、俺の懐に、無理やり押し込んでいった、控えの台帳だった。あの子は、最後の最後まで、この記録だけは、守ろうとしていた。
だが。
俺は、その頁をめくって、愕然とした。
読めなかった。
いや、文字は、読める。テオ。マヤ。片脚の兵士。名前は、わかる。だが、その名前が、なぜ、ここに書かれているのか。この一行に、どんな意味があったのか。それが、思い出せなかった。
消えた者を覚えておくため。返す日まで、忘れないため。……そのはずだった。だが、いま、俺の胸には、その言葉が、ただの、乾いた文字にしか、響かなかった。
「……誰も、読まないのに」
俺の口から、乾いた声が、漏れた。
こんな台帳、誰が読む。消えた者は、戻らない。書いたところで、世界は、勇者王を崇め続ける。誰も、この一行なんか、読みやしない。
地下の書庫を思い出した。三百年ぶんの、なかったことにされた記録の、墓場。あれだけの記録が、闇のなかで、誰にも読まれずに、朽ちていた。書いた者たちは、みな、信じていたのだろう。いつか、誰かが、読んでくれると。返してくれると。だが、誰も、来なかった。三百年、誰も。
俺の台帳も、同じだ。あの墓場に、一冊、増えるだけ。
四十年、俺が、握りつぶされ続けてきた、その理由が、いま、痛いほど、わかった気がした。
俺のやってきたことは、初めから、無駄だったのだ。地味で、手柄にならなくて、誰の記憶にも、残らない。落とし物係の一行なんて、初めから、そういうものだった。誰かを安心させているつもりで、ただ、自己満足で、鉛筆を動かしていただけ。
鷲塚の言葉が、耳の奥で、蘇った。覚えていないなら、いなかったのと同じだ。あの男が、正しかったのかもしれない。目に見える勝利を配る男が、英雄になり、返らぬ落とし物を抱える男は、道の端で、忘れられていく。それが、世界の、仕組みなのだ。
俺は、台帳を床に、放り出した。
乾いた音を立てて、頁が、開いたまま、転がった。
もう、鉛筆を握る気力も、なかった。
◇
満月まで、あと、二日。
俺は、動けずにいた。
ノエは、捕らえられ、供物にされる。原本は、奪われた。メルヴは、動けない。俺の記憶は、崩れていく。そして、俺には、剣も、魔法も、権力も、何も、ない。
できることなんて、初めから、なかったのだ。
勇者王に、盾突く。世界の嘘を暴く。……そんな大それたことが、道の端に四十年立っていただけの、ただのおまわりに、できるわけがなかった。身の程をわきまえるべきだった。
俺は、膝を抱えた。
諦めることには、慣れている。四十年、そうやって、生きてきた。声を上げず、身を縮め、道の端で。今回も、同じだ。ただ、目を閉じて、満月が、過ぎるのを待てばいい。何もかも、なかったことに、なれば――もう、痛むことも、ない。
目を閉じた。
瞼の裏に、なぜか、一つの光景が、浮かんだ。誰かの小さな背中。横断歩道の、白い線。突き飛ばした掌に、残る、確かな感触。……それが、いつの、誰の記憶なのか、もう、思い出せなかった。だが、その掌の感触だけは、消えずに、残っていた。
間に合った。あのとき、確かに、間に合ったのだ。地味な、道の端の立番が、たった一度、小さな命を繋ぎ止めた。
その記憶の、意味すら、いま、俺は、掴めずにいた。
その時だった。
俺は、ふと自分の、右手に、目を落とした。
そして、息を呑んだ。
右手の、指先が。
薄く、白んで、視えた。
最初は、松明の煤で汚れているのかと思った。だが、違った。掌をかざすと、その向こうの、月明かりが、うっすらと、透けて見えた。指の輪郭が、滲んでいる。まるで、水にたらした墨のように、俺の手が、少しずつ、闇に溶けかけていた。
あの零れかけた者たちと、同じだった。窓辺で、鈴に呼ばれ、薄れていった、あの男と。飴を並べたまま、消えた、あの女と。
「……俺、が」
背筋が、凍った。
俺自身が、零れかけていた。元の世界の記憶を失いすぎて、俺という存在の、根っこが、この世界から、抜け落ちようとしていた。
考えてみれば、道理だった。俺は、死んで、この世界へ来た。この世界にとって、俺は、よその世界から紛れ込んだ、身元不明の落とし物だ。元の世界の記憶を失えば、俺が、どこの誰で、どこへ返されるべき品なのか、それを示すものが、何も、なくなる。
持ち主の、わからない、落とし物。返す先を失った品。それは――今の、俺、そのものだった。
俺もまた、この世界に、なかったことに、されようとしていた。四十年、人の落とし物を返し続けた男が、最後は、自分自身が、誰にも返されない落とし物になって、消えていく。
これ以上、皮肉な、幕切れが、あるだろうか。
闇のなかで、床に転がった台帳の、開いた頁だけが、月明かりに、白く、浮かんでいた。
誰も、読まない、記録が。
俺は、その白い頁をぼんやりと、見つめていた。透けかけた右手で、床の冷たさを確かめながら。
満月まで、あと、二日。
この世界で、いちばん無力な男が、闇の底に、一人、うずくまっていた。




