第十三章 最終消去の儀
地下は、闇と、紙の匂いに満ちていた。
俺と、ノエと、メルヴは、松明を掲げ、三百年ぶんの埃を踏みしめて、階段を降りていった。壁には、古い書架が、延々と続いている。教会が、この国の歴史から、消し去った記録の、墓場だった。
降りるほどに、空気が、重くなった。俺の眼には、書架の隙間という隙間から、無数の白い光が、漏れ出して視えた。消された者たちの、遺留品の残光だ。ここには、この国が三百年かけて、なかったことにしてきた、あらゆる人間の、あらゆる名前が、封じ込められていた。
声にならない声が、耳の奥で、ざわめいている気がした。返してくれ。忘れないでくれ。書架の一つひとつが、そう訴えているようだった。
俺は、拳を握った。落とし物係が、これほど大量の、返されない落とし物に囲まれたことは、四十年で、一度もなかった。
「……ここが、最深書庫か」メルヴが、掠れた声で呟いた。「儂も、名だけは、聞いていた。触れれば、異端。近づけば、消される、と」
俺の眼が、闇の奥に、一点、強い白い光を捉えた。
書架の、いちばん奥。石の台座の上に、一冊の、分厚い書物が、置かれていた。革の表紙は、焼け焦げ、鎖で、幾重にも、縛られている。
だが、俺の眼には、はっきりと、視えた。これこそが、失われた原本。三百年前の、最初の、現場の記録。初動記録の、本物だ。
俺は、鎖に、手をかけた。現認で、錠の、失われた鍵の在り処を視る。ノエが、床の隙間から、錆びた鍵を拾い上げた。鎖が、音を立てて、床に落ちた。
俺は、震える手で、原本を開いた。
◇
そこに書かれていたのは、碑文の符牒と、同じ筆跡の、調書だった。
三百年前。西の空に、穴が開いた。国が、滅びかけた。王家と教会は、ソルナの民に、命じた。おまえたちの鈴で、穴を塞げ、と。民は、逃げなかった。村ごと、鈴を鳴らしながら、穴のなかへ、身を投じた。世界を繋ぎ止めるために。
だが、と、調書は、続いていた。
――民は、生贄では、なかった。彼らは、条件を出した。我らを忘れないでほしい。記録に、残してほしい。いつか、必ず、我らを迎えに来てほしい。それが、我らが、世界を繋ぎ止める、ただ一つの、約束であった。
俺は、その一行を二度、読んだ。
迎えに来てほしい。ただ、それだけだった。彼らが望んだのは、英雄でも、勝利でも、なかった。忘れないでいてくれること。いつか、拾いに来てくれること。落とし物が、持ち主に、望むことと、まったく同じだった。
俺の胸が、締めつけられた。三百年、この村は、迎えを待っていた。棚の奥で、埃をかぶった、あの鈴のように。誰かが、拾いに来る、その日を信じて。
王家と教会は、その約束を破った。
民を迎えに行くどころか、なかったことにした。約束を反故にした。だから――穴は、塞がりきらなかった。返されなかった約束が、鈴の音となって、いまも、人を呼び続けている。
「……零れの、本当の正体は」俺は、呻いた。「破られた、約束か」
勇者が、喪の主を討つたびに、零れが深まるのも、当然だった。約束を破った側が、力ずくで穴を殴りつけるほど、民の無念は、深まる。返してほしいのに、また、なかったことにされる。その繰り返しだったのだ。
調書の、最後の頁。
そこに、あの碑文で途切れていた、最後の一文の、続きが、あった。
――零れを真に止める道は、ただ一つ。還らずの民を記録に返し、その持ち主に返却すること。
持ち主とは、誰か。
その一文だけが、他の頁とは違う、特殊な符牒で、書かれていた。松明の、揺れる炎の下では、どうしても、読み取れない。
「これは……」メルヴが、覗き込んだ。「満月の、光でしか、読めぬ、月光符牒だ。……皮肉なことに、あの最終消去の儀が行われる、満月の夜。西の穴の、真上でしか、読めぬ」
つまり、この原本をあの儀式の場へ運ばねば、最後の真実は、読めない。
俺が、その意味を噛みしめた、その時だった。
◇
背後の闇で、松明の、灯りが、いくつも、揺れた。
「よく、たどり着いた。落とし物屋」
冷たい声。あの審問官だった。その背後に、教会の私兵が、ずらりと、並んでいた。松明の炎が、白い法衣を赤く、照らしている。
俺は、原本を背に庇いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「言ったはずだ。我らは、あんたが、ここへ来るのを待っていた」審問官は、薄く、笑った。「三百年、誰にも読めなかった符牒を、あんたは、読んでしまう。厄介な、眼だ。だが、使い道は、ある。ならば、泳がせ、原本を掘り出させ、まとめて、消す。それが、統吾様の、お考えだ」
罠だった。俺たちは、まんまと、原本の在り処を教えてしまった。
背筋が、冷えた。あの男は、俺の眼の価値を、誰よりも、正しく、見抜いていた。ハズレ技能と嗤った冒険者たちより、ずっと。だからこそ、利用し、そして、消そうとしている。皮肉な話だった。
「その原本と、その娘は、いただく」審問官の目が、ノエへ向いた。「還らずの民の、最後の生き残り。あんたを最終消去の儀の、供物にすれば――零れの、種は、根絶やしだ。世界は、永遠に、勇者王のものになる」
私兵が、殺到した。
「ノエ、原本を持って、逃げろッ」
俺は、叫んで、私兵の前に、立ちはだかった。剣もない。魔法もない。だが、この体一つで、時間を稼ぐ。
先頭の男の、剣の柄を掴む。ひねり上げ、体重をかけて、床へ、倒す。四十年、暴れる酔漢を取り押さえてきた、体術だった。二人目の腕を関節ごと極めて、壁に、叩きつける。
だが、多勢に、無勢だった。三人目、四人目。俺の背中に、腹に、拳と柄が、叩き込まれた。息が、詰まる。膝が、折れる。それでも俺は、階段の前から、動かなかった。ノエの逃げ道だけは、塞がせない。
「頑固な、老いぼれだ」
審問官の声。次の瞬間、俺は、羽交い締めにされ、床に、押さえつけられた。頬が、冷たい石に、押しつけられる。メルヴも、突き飛ばされ、書架にぶつかって、倒れた。
「ミノワッ」
ノエが、原本を胸に抱えて、階段へ、走った。あと、数段。あと、少しで、闇の外へ。
だが、その行く手を、審問官が、音もなく、塞いだ。
白い手が、ノエの、細い腕を掴んだ。ノエの足が、宙で、もがく。抱えた原本が、床に、滑り落ちた。
「ミノワ……! ミノワ……ッ」
ノエの、赤い鈴が、激しく、鳴った。俺を呼んでいた。四十年前、俺に、届かなかった、あの子の声と、同じように。
俺は、押さえつけられた床から、必死に、顔を上げた。何人もの膝が、背中に、乗っている。動けない。四十年前も、こうだった。声は聞こえるのに、体が、動かない。届かない。
「ノエッ――離せ、離せッ、その子は、俺の、預かりものだ……!」
俺は、手を伸ばした。石の床を爪が、掻いた。だが、その手は、届かなかった。
審問官が、床の原本を拾い上げた。ノエの腕を掴んだまま。
「原本も、供物も、いただいた。……感謝するぞ、落とし物屋。おまえのおかげで、三百年の始末が、満月の夜に、つく」
ノエの姿が、原本ごと、闇の階段の、向こうへ、引きずられて、消えた。
最後まで、あの子は、俺の名を呼んでいた。
俺の掌に、残ったのは、冷たい、石の床の感触だけ、だった。
私兵たちが、去っていく。用は、済んだ。俺と、老いたメルヴをこの地下に、生かして置き去りにするほど、連中は、俺たちを脅威と見ていなかった。剣もない、老いぼれ二人。放っておいても、満月が来れば、何もかも、終わる。
俺は、しばらく、動けなかった。
冷たい石の上で、俺は、届かなかった右手を見つめていた。四十年前と、同じ手だった。同じように、間に合わなかった手だった。
書架の闇の奥で、消された者たちの残光が、静かに、灯っていた。返してくれ。忘れないでくれ。その声のなかに、ノエの鈴の音の、残響が、混じっている気がした。
――また、届かなかった。
その事実だけが、地下の闇のなかで、俺の胸をゆっくりと押し潰していった。
満月まで、あと、三日だった。




