第十二章 零れる名前
地下への入り口は、思いがけない場所にあった。
大聖堂の裏手、貧民街との境にある古い共同墓地。その一番奥の、崩れかけた納骨堂の床下に、封じられた石の扉が、眠っていた。俺の眼にしか視えない、失われた道の入り口だった。
三百年前、あの調書を封じに行った者が、通った道。そいつが遺していった足取りを、俺は現認で、一歩ずつ、掘り起こしていった。だが、その代償は、日ごとに、重くなっていた。
納骨堂の、湿った石の匂い。俺は床に膝をつき、指先で、埃の積もった石畳をなぞった。素人には、ただの床だ。だが、俺の眼には、三百年前、ここを通った者の足跡が、点々と、白く灯って視えた。おびえた、小さな歩幅。何度も立ち止まり、振り返った痕。命じられて調書を封じに来た、その男もまた、迷い、恐れていたのだ。
俺は、その足跡の消える先――床の一角を押した。
鈍い音を立てて、石の一枚が、沈んだ。その下から、地の底へと続く、暗い階段が、姿を現した。三百年、誰も知らなかった、地下への道。かび臭い、冷たい風が、闇の底から、吹き上げてきた。
「……あった」
俺は、階段の暗がりを見下ろし、額の汗をぬぐった。だが、その手が、途中で、止まった。頭の奥が、鈍く、痺れていた。現認を使いすぎたのだ。
「ミノワ、大丈夫?」
背後から、ノエが、心配そうに、覗き込んだ。
大丈夫だ、と答えようとして――俺は、言葉に、詰まった。
目の前の、この娘の名が。
一瞬、出てこなかった。
「……ノエ」
どうにか、絞り出した。だが、その一瞬の空白が、俺を凍りつかせた。この娘の名を忘れかけた。俺が、絶対に、間違えたくないと誓った、この娘の名を。
「なに? どうしたの」
「……いや。なんでもない」
俺は、掌で、額をぬぐった。汗が、冷たかった。
◇
その夜、俺は、こっそりと、台帳を開いた。
最初のほうの頁。俺が、この世界へ来て、いちばん初めに書いた、記録。そこに、俺自身のことを書いた一行が、あった。
「蓑輪巡一。元・警察官。あの子に、鈴を返せなかった男」
あの子。
俺は、その三文字を見つめた。そして、愕然とした。
思い出せなかった。
あの子の、顔が。俺が、四十年、抱えてきた、悔い。握りつぶされた一行。返せなかった、赤い紐の鈴。その持ち主の――俺をこの道に繋ぎ止めてきた、あの子の顔が、霧のように、薄れていた。
名前は、書いてある。だが、顔が、思い出せない。声が、思い出せない。
俺という男を四十年、突き動かしてきた、いちばん大きな落とし物。それ自体が、俺の頭から、零れ落ちようとしていた。
俺は、目を閉じて、必死に、たぐり寄せようとした。あの秋の日。砂場に落ちていた鈴。紐の、擦り切れた跡。交番に駆け込んできた、母親の顔。捜索が動かなかった、あの夜の、無力感。
どれも、輪郭が、ぼやけていた。まるで、水に落とした、古い写真のように。色が、滲んで、流れていく。
俺は、あの子のために、戦ってきたはずだった。あの子に、鈴を返せなかった悔いが、俺をこの道へ、突き飛ばしたはずだった。
そのいちばんの動機が。消えかけていた。
「……なんで、俺は」
俺は、鉛筆を握りしめた。指が、震えていた。
なんで、俺は、こんなところで、命がけで、他人の村を拾おうとしているんだ。
わからなくなった。
あの子の顔を忘れたら。俺をこの道に、縛りつけていた、悔いを忘れたら。俺は、ただの、疲れた、おっさんだ。剣も魔法もない、なんの取り柄もない、落とし物係。こんな世界を敵に回す戦いから、降りたって、誰も、責めやしない。
――どうせ、俺なんかが、何をしたって。
四十年、俺の胸の底に、こびりついていた、あの諦めの声が。忘却の隙間から、また、這い上がってきた。
◇
「ミノワ」
俺の様子が、おかしいことに気づいたのだろう。メルヴが、静かに、隣に、座った。
「あんた、力を使うたびに、何かを失っておるな」
俺は、答えなかった。だが、それが、答えだった。
「元の世界の、記憶か」老人は、俺の顔を見透かした。「……やめておくか。ここまで来て、なんだが。あんたが、あんたでなくなる前に、降りるという道も、ある」
降りる。その言葉が、甘く、耳に響いた。
誰も、俺を責めやしない。俺は、この世界の勇者じゃない。頼まれて来たわけでもない。ただの、行きがかりだ。ここで手を引いて、辺境の町で、静かに落とし物を返して暮らしたって、それは、それで、悪くない生き方だ。
現に、四十年、俺はそうやって、道の端で、身を縮めて生きてきた。降りることには、慣れている。
その時だった。
ノエが、俺の前に、そっと何かを差し出した。
俺の、台帳だった。ノエが、いつも、清書し直してくれている、あの台帳。
「ミノワ。忘れちゃっても、いいよ」
ノエは、涙をこらえた顔で笑った。
「あの子の顔、忘れちゃっても。元の世界のこと、忘れちゃっても。……そのために、書いてあるんでしょ。忘れても、大丈夫なように。ここに、ぜんぶ、書いてあるって、ミノワが、教えてくれたんだよ」
俺は、台帳を受け取った。
そこには、ノエの、几帳面な字で、消えた者たちの名が、びっしりと、記されていた。テオ。マヤ。片脚の兵士。そして――「蓑輪巡一。あの子に鈴を返せなかった男。今は、ノエの相棒」。
ノエが、書き足していた。俺の一行に。今は、ノエの相棒、と。
「あんたが、忘れても」ノエの声が、震えた。「わたしが、覚えてる。あんたが、何のために、戦ってるのか。あんたが、どんなに、優しい男か。……だから、ミノワ。あんたも、消えないで」
俺の頬を熱いものが、伝った。
四十年、返せなかった落とし物をたった一人で、抱えてきた。誰も、その重さを分かってくれないと思ってきた。
だが、この娘は。俺が、忘れてしまう、その痛みごと、引き受けて、覚えていると言った。
――そうだ。
俺は、涙をぬぐった。
俺が、忘れても。書いておけば、消えない。誰かが、覚えていてくれる。それが、俺が、四十年、信じてきた、たった一つのことじゃないか。
諦めの声は、いつのまにか、消えていた。
◇
立ち上がった、その時。
廃屋の外が、急に、騒がしくなった。触れ役の声が、王都じゅうに響き渡っていく。
俺たちは、外へ、出た。
大聖堂の尖塔から、これまでにない、巨大な光の柱が、空へ、立ち上っていた。それを見上げる群衆の、どよめき。触れ役が、叫んでいた。
「勇者王・統吾様が、宣言なさった……次の満月の夜、喪の主を完全に、討ち滅ぼす、最終消去の儀を執り行う……これにて、世界は、永遠に、救われるであろう……」
群衆は、狂ったように、沸いた。永遠の救い。もう二度と、零れに、怯えなくていい。人々は、抱き合い、涙を流し、勇者王の名を連呼した。
だが、その歓声の一つひとつが、俺には、断末魔のように、聞こえた。
最終消去。
メルヴの顔が、蒼白になった。
「まずい……あれは、西の穴を根こそぎ、こじ開ける気だ。三百年前の零れを比べものにならぬ規模で、引き起こす。……あの儀式をやれば、還らずの民の痕跡も、ソルナの記録も、この世から、完全に、消える。永遠に返せなくなる」
「なぜ、そんなことを」ノエが、震える声で、聞いた。「勇者王は、世界を滅ぼしたいの?」
「いや」俺は、西の空を睨んだまま、答えた。「あの男は、たぶん、本気で、救うつもりだ。派手に、大きく、誰の目にも見える形で、世界を救った、いちばんの英雄になるつもりだ。……そのために、目に見えない代償を平気で、踏みつける。昔から、そういう男だ」
覚えていないなら、いなかったのと同じ。あの男の理屈が、今、世界そのものをなかったことにしようとしていた。
タイムリミットは、次の満月。
落とし物が、永遠に、なかったことにされる、その前に。
俺は、原本を拾い出さなければ、ならない。ノエを取り戻さなければ、ならない。時効の来る前に。忘れられて、しまう前に。




