第十一章 異端
「こっちだ、走れッ」
叫んだのは、メルヴだった。
衛兵の槍が、突き出される、その寸前。老人は、俺とノエの腕を掴んで、群衆の、隙間へ飛び込んだ。
元・教会の記録係だ。この王都の、路地という路地を、メルヴは、知り尽くしていた。俺たちは、祭りの人波を盾にして、狭い裏道を右へ、左へ駆け抜けた。
背後で、鐘が、鳴り始めた。けたたましい、非常の鐘だ。
「異端の、捕縛を命ず……勇者王に、盾突く、不敬の徒……」
触れ役の声が、王都じゅうに響き渡っていく。俺たちは、いつのまにか、この国の、お尋ね者になっていた。
路地は、迷路のように入り組んでいた。メルヴは、迷いなく、その奥へ奥へと、俺たちを導いた。洗濯物の垂れ下がる軒下をくぐり、崩れた塀を乗り越え、悪臭の漂う下水路の脇を走り抜ける。追っ手の足音と、鎧の擦れる金属音が、石壁に反響して、四方から、迫ってくるように、聞こえた。
「そこの角を右だ。次は、すぐ左。……そこの井戸の、裏へ、回れ」
老人の記憶は、正確だった。この王都の地下と路地を四十年かけて頭に叩き込んだ男の、執念のような正確さだった。俺たちが井戸の裏へ滑り込んだ直後、衛兵の一隊が、俺たちのいた道をまっすぐ、駆け抜けていった。数歩の差だった。
俺は、壁に背をつけ、息を殺した。心臓が、耳の奥で、鳴っている。ノエの手が、俺の袖を強く握っていた。その指が、氷のように、冷たかった。
石畳を蹴る、俺の足は、四十年ぶんの膝の痛みを忘れていた。この若返った体だけが、頼りだった。
ノエの手をしっかりと、握り返す。この手だけは、絶対に、離さない。四十年前、握れなかった、小さな手の、代わりのように。
◇
メルヴが、俺たちを導いたのは、王都のはずれ、貧民街の、崩れかけた廃屋だった。
「ここは、昔、儂のような、教会に、はじかれた記録係が、身を寄せた、隠れ家だ」老人は、埃を払いながら、言った。「勇者王の、目は、光の当たる場所しか、見ておらん。こういう、日陰は、案外、安全だ」
息を整える。ノエは、まだ、震えていた。
「ミノワ……わたしのせいで。わたしが、還らずの民、だから。みんな、追われて……」
「あんたの、せいじゃない」俺は、きっぱりと言った。「悪いのは、なかったことにした、あいつらだ。あんたは、なかったことに、されかけてる、被害者だ。被害者が、謝る必要は、ない」
ノエは、俯いた。だが、その肩の、震えは、少し、収まった。
「それより、わからんのは」俺は、腕を組んだ。「なぜ、鷲塚が、あそこまで、あんたの鈴に、怯えたか、だ」
「怯えて……いた? あの勇者王が?」
「ああ。余裕の面が、剥がれた。あれは、脛に、傷持つ者の、顔だった」
メルヴが、暗い声で、口を開いた。
「……一つ、心当たりが、ある」
老人は、震える手で、あの焼け焦げた紙片を取り出した。
「還らずの民は、ただ、生贄になった、だけではない。伝承では、彼らは、こう、言い遺したという。――我らをなかったことにする限り、世界の零れは、止まらぬ。我らを記録に返した者だけが、真に、世界を救う、と」
俺の、背筋が、冷えた。
「つまり」
「勇者王の、救済神話は、根本から、嘘なのだ。喪の主を討っても、零れは、止まらぬ。止める道は、ただ一つ。還らずの民を記録に返すこと。……だが、それをすれば、この国の、建国の嘘が、すべて、露見する。勇者王の、正体も」
「だから」俺は、続きを引き取った。「還らずの民の生き残りが、記録に、名を取り戻すことをあいつは、何より、恐れてる。ノエの存在そのものが、あの男の、嘘を崩す鍵だからだ」
ノエが、自分の首の、赤い鈴をそっと握った。
小さな、拾われ子の、たった一つの持ち物。それが、世界の、嘘を暴く、鍵だった。
「ねえ、ミノワ」ノエが、膝を抱えたまま、ぽつりと聞いた。「わたし、消えたほうが、いいのかな」
俺は、鉛筆を止めた。
「わたしが、いなくなれば。鈴も、なくなれば。勇者王は、怯えなくて済む。みんな、追われなくて済む。世界も、今まで通り、勇者王が救ってるって、信じてられる。……そのほうが、みんな、幸せなんじゃないの」
消えたほうがいい。なかったことになったほうがいい。
その言葉をこの娘に、言わせてはいけなかった。俺は、台帳を閉じ、ノエの、目の高さに、しゃがんだ。
「いいか。よく、聞け」
俺は、努めて、静かに、言った。
「この世界の連中は、みんな、幸せそうに見える。勇者王を崇めて、救われたと信じて、笑ってる。だが、あれは、幸せじゃない。忘れてるだけだ。隣にいた誰かが消えたことを忘れさせられてるだけだ。忘れて手に入れた笑顔なんて、俺は、幸せとは、呼ばない」
ノエが、顔を上げた。
「あんたが消えれば、確かに、丸く収まる。だが、それは、また一つ、この世界が、落とし物を増やすってことだ。俺は、落とし物係だぞ。目の前で、落とし物が、増えるのを黙って見てられるか」
ノエの目に、じわりと、涙が、盛り上がった。
「あんたは、消えなくて、いい。あんたが、ここにいるってことを、俺が、書いてやる。世界が、忘れても、俺が、覚えてる。……だから、消えたいなんて、二度と言うな」
ノエは、両手で、口を押さえた。声を殺して、頷いた。何度も、何度も。
◇
俺たちは、その廃屋を拠点に、動き始めた。
目的は、二つ。大聖堂の地下、最深書庫に眠る、初動記録の原本。そして、その原本に書かれた、最後の一片――「持ち主は、誰か」。
だが、聖堂の警備は、祭りのあと、いっそう、厳しくなっていた。正面からは、近づけない。
俺は、来る日も来る日も、王都を歩いた。
現認だ。聖堂の、地下へ通じる、抜け道。三百年前、あの調書を封じに行った者が、通ったはずの、道。その失われた道の、痕跡を、俺の眼で、探した。
石畳の、継ぎ目。古い、水路の、跡。封じられ、忘れられた、地下への、入り口。俺は、失われたものを視るたび、それを台帳に書き留めた。
だが。
現認を使うたびに。失われたものを視て、書き留めるたびに。
俺の、頭の、どこかが、軽く、なっていく気が、した。
最初は、気のせいだと思った。
だが、ある夜。台帳を書いていて、俺は、ふと鉛筆を止めた。
豆腐屋の、婆さんの、名前が。
あの俺に、おからをくれた、婆さんの、名前が。
どうしても、思い出せなかった。
顔は、視える。声も、覚えてる。だが、名前だけが、すっぽりと、抜け落ちていた。まるで、俺の頭のなかから、それだけが、零れ落ちた、みたいに。
「……なんだ、これは」
背中に、冷たい汗が、伝った。
俺は、まだ、知らなかった。この現認という力が、俺自身から、何を少しずつ、奪っていくのかを。
その夜、俺は、眠れなかった。
思い出そうとした。豆腐屋の婆さんの名を。だが、思い出そうとすればするほど、その周りの記憶まで、ぼやけていく。婆さんが、どんな声だったか。おからの、湯気の匂い。交番の、蛍光灯の、切れかけた音。あの四十年、俺が立ち続けた、道の端の景色。
どれも、まだ、ある。だが、輪郭が、少しずつ、薄れている。まるで、俺自身が、ゆっくりとあの世界から、零れかけているみたいに。
俺は、掌を見た。
現認を使うたびに。失われたものを視て、返すたびに。俺は、元いた世界の記憶を一片ずつ、この世界に、支払っている。そういうことらしかった。
落とし物を返す力の、代償は、俺自身の、帰る場所の、記憶だった。
皮肉なものだ、と思った。人の落とし物を返してやるほどに、俺は、自分の、帰り道をなくしていく。
だが。
俺は、鉛筆を握り直した。掌に馴染んだ、その細い軸の感触だけが、崩れていく記憶のなかで、変わらずに、俺を、俺に繋ぎ止めていた。
構うものか。どうせ、あの世界には、もう、帰れない。死んで、こっちへ来た身だ。帰る場所の記憶なんて、なくしたところで、惜しくもない。
――そう、自分に、言い聞かせた。
その言い聞かせが、どれほど、危ういものか。俺は、まだ、気づいていなかった。
自分を世界の落とし物だと、認めきれずにいることが、いつか、いちばん大きな代償を、俺に、突きつけることを。




