04:初めての外出
自分の置かれている現状を理解してから、しばらくの間。
はた目には元気に振る舞っていたララノーラだが、その心は揺れていた。
貴族女性の義務が果たせない自分への、失望と。
いやいや、結婚だけが人生じゃないでしょ、という苛立ちと。
貴族女性として生きた、ララノーラ。
日本女性として生きた、小春。
その二人の中にある異なる価値観が、まるで彼女の心の天秤を揺らすかのように、グラグラと不安定に揺れている。
そんな彼女をそっと見守っていた両親は、複雑な気持ちを抱いていた。
ララノーラは少し勘違いをしている。
実のところ、両親は娘が王家へ嫁ぐことにさして執着などしていないのだ。
婚約者候補に選ばれた以上、王宮に通うことは、この国の貴族の義務に近いものであった。
王太子も、婚約者候補の三人も。
成長に応じて、どれだけ魔力が増えるかわからない。
そのため、婚約者選びに十年もの時間を要したのだが……。
最後の魔力の測定で、候補の三人とも王太子と魔力量がつり合っていた。
そのため、婚約者を決定する前に意思確認があり、辞退することも可能だった。
親として、より良い家格の家へ嫁がせたい。幸せになって欲しい。
そんな思いもあって、家をあげての支援をしていたが、娘が望まないのなら、辞退することもやぶさかではない。
王太子と魔力量がつり合うのがララノーラしかいないのならば、彼女の意思よりも貴族の義務が優先されただろう。
しかし、候補は三人もいたのだ。
別にララノーラでなければならない理由などない。
ララノーラが気にしている、エヴァンズ家が婚約者候補として使った費用。
これについても、実は大した問題ではない。
……と、いうよりも、気にしているのはララノーラだけだったりする。
彼女の中にある前世で庶民だった小春の金銭感覚が色濃いことで、罪悪感が生まれているにすぎない。
エヴァンズは代々続く、歴史のある公爵家である。
王太子との婚約云々は抜きにしても、ララノーラが望めばその位の金は使っていただろう。
今後の結婚についても、だ。
領地経営も安定しているし、特に困窮もしていない。
政略結婚など、しなくても別にいいのだ。
結婚しようがしまいが、彼女は大切な娘である。
そのことに、なんの揺らぎもない。
公爵家は王都にいるララノーラの兄が継ぐことが決まっているが、エヴァンズは他にもいくつかの爵位を持っている。
ララノーラが望むなら、彼女が選んだ人とそこを治めればいいし、跡継ぎは養子を取ればいいだろう。
嫁がずにずっと家にいたい、彼女がそう望むなら大歓迎だ。
他国へ嫁ぎたいと言われるのは寂しくなるので少し嫌だが、それも娘の望みなら我慢しよう。
両親の願いは、ただひとつだけ。
愛する娘が健康で幸せであれば、それだけでいいのだ。
そして、その思いは娘が半年も目を覚まさなかったことで、より強くなっていた。
そんな両親の思いも知らずに、一人悩んでいるララノーラ。
七歳から十年間。
子供らしい遊びもせずに、努力ばかりしてきた彼女の視野は狭くなっていた。
そのせいで、なかなか迷いの迷路から抜け出せずにいる。
切り替えなければいけないな、とは思いながらも、自分の心が上手くコントロールできずにいた。
そんな彼女の元に、この日、ある人物がやってきた。
「ララ、今日からルーカスが復帰するよ」
そう言って父と一緒に部屋にやってきたのは、ルーカス。
ララノーラの護衛兼従者である。
「ララノーラ様、ご無沙汰しております。本日よりまたお仕えいたしますので、よろしくお願いいたします」
彼の綺麗なお辞儀に合わせて、艶やかな漆黒の髪が光る。
頭を上げてララノーラの顔を見るなり、少し冷たい印象の銀色の瞳が柔らかい色を帯びる。
「ルーカス、身体はもう大丈夫なの?」
「はい。大丈夫です」
「よかった……」
彼の顔を見た途端、ララノーラはここしばらく見せていないほど明るい笑顔を浮かべた。
そんな彼女を見て、父のバルトロも嬉しそうに笑みをこぼす。
ララノーラは聞かされていないことだが、あの神の遊戯でルーカスは生死の境をさまようほどの大けがを負っていた。
ララノーラに大きな怪我がなかったのは、彼が荒れ狂う馬車の中で必死に彼女を抱きしめて、守ったからだ。
ルーカスは気を失いボロボロになりながらも、決して彼女を離さなかった。
馬車に助けがやってきた後も、彼女を強く抱きしめたまま放そうとしない。
そんな彼の手から、ララノーラを引き離すことに苦労したほどだ。
そして、ルーカスも神の遊戯の後は、しばらく目を覚まさなかった。
彼が目覚めたのは、ララノーラが目覚める一か月ほど前。
馬車から助け出された直後にポーションや治癒魔法などを使ったので、体の傷はすっかり癒えている。
しかし、眠っている間に体力が落ちてしまった。
毎日、鍛錬を続けているが、本当のことを言えばまだ本調子とは言い難い。
もう少し、鍛えてからの復帰が望ましいことはわかっている。
しかし、あまりに沈んだままで作り笑いばかり浮かべる娘を見かねたバルトロは、ルーカスに希望を託した。
ララノーラとルーカスは気が合うようで、幼い頃はよく一緒に遊んでいた。
大人になるにつれて、主と従者という関係に変わっていった二人だが、娘にとってルーカスは気を遣わずに過ごせる数少ない者だろう。
ルーカスがいれば、外出もできる。
外に出れば、気分転換にもなるだろう。
少しでも娘の笑顔が戻ればいいと願い、バルトロは決断した。
もちろん、ルーカスもそんな彼の思いを聞いて、納得の上でのことである。
ルーカスと侍女のイルマを連れて、ララノーラは近くの街へ向かっていた。
「気分転換に買い物でもしたらどうだい?」
そんな、父からの勧めがあったからだ。
父の言葉の温度や表情を見て、娘を心配する親心を理解できないほどバカではない。
そんなわけで、ララノーラ。
小春の記憶を取り戻してから、初めての外出である。
ララノーラたちを乗せた馬車が、街に到着した。
ルーカスの手を借りて馬車を降りた瞬間。
強い風が吹いて髪が激しく舞い、思わずララノーラは目を閉じる。
「……っ!」
風が止み、目を開けた瞬間──ララノーラの口から、声にならない声が漏れた。
ララノーラの中にある記憶では、慣れ親しんだ街並み。
しかし、小春にしてみれば、初めての異世界らしい景色である。
ララノーラの紫がかった銀色の髪や赤紫の瞳も含め、家族や使用人たちの髪や瞳の色がカラフルだったり。
電化製品やプラスチック製品が、ひとつも無かったり。
侍女たちに、あれこれ身の回りの世話をされたり。
屋敷の中も、日本とは全く違う環境ではあった。
が、それは想像の域を越えないものだった。
漫画やアニメが好きでイベントによく参加していた小春は、二次元の中から飛び出してきたかのような、コスプレイヤーさんも見慣れていたし。
豪華な屋敷も、広い庭も。
美味しい食事も。
聖地巡礼と称して訪れた場所や、イベント会場などで幾度となく触れてきたものだ。
しかし、今、ララノーラの前にあるものは違う。
異世界がそこにあるのだ。
そこで生活する人々の活気も。
地球には存在しないであろう、奇抜な色や形の果物や野菜も。
店先にドーンと置かれた魔物の頭も。
鎧をまとい、武器を持って歩く冒険者たちも。
異世界がそこで色づいている。
人々の声に、音に、風に乗って感じる様々な匂いに。
命の息吹のようなものが、そこにある。
そのことに、ララノーラというより……小春は、圧倒された。
それは、最近ララノーラが抱えていた悩みや、元来持っていた価値観を打ち破るほどの衝撃だった。
公爵家に生まれ、貴族として育ったララノーラ。
この街にある全てのものは、彼女にとっては生まれた時から当たり前のように存在するもので、特別なものではない。
しかし、小春にしてみれば、夢中になった、何度も画面越しに見た二次元の世界がそこにある。
この現実が、幸福が、小春の心を揺らしていく。
そして、心の天秤は小春に傾いた。
──私、この世界で生きたい。
この世界のあらゆるものを、見て。
この世界のあらゆるものを、触り。
この世界のあらゆるものを、食べて。
どんどん広がっていく思いに合わせて、その瞳は輝きと力強さを増していく。
そんなララノーラの様子を一番近くで見ていたルーカスは、嬉しそうに微笑んだ。
「ねえ、ルーカス。あれは、何の肉かしら?」
街を歩きながら、様々な店を覗いていたララノーラ。
広場にやって来るなり、肉串を売っている屋台を見つけた彼女は瞳を輝かせる。
広場中に広がる、食欲をそそる香り。
ここに来る間にも、様々な果物や飲み物を口にしていたのでお腹は膨れている。
それでも、人々を惹きつける暴力的な香りをまき散らしながら広場を舞う、あの煙の誘惑には勝てそうにない。
広場にはララノーラと同じように誘惑に屈した者たちが、そこかしこにいる。
彼らが肉串を頬張る時の幸せそうな表情を見ているだけで、ララノーラの喉がゴクリと鳴る。
「あれは……ダンジョン産のウルフですね」
「ウルフ?」
小春はララノーラの記憶を探っていくも、「ダンジョン産のウルフ」の肉を口にした記憶がない。
ついでに、肉串も食べたことがないようだ。
──これは、初体験だわ!
ふらふらと、吸い寄せられるように屋台に近づいていくララノーラ。
そんな彼女を見て、ルーカスとイルマは顔を見合わせて笑う。
三人は「いらっしゃい!」という、元気のいい店主が切り盛りする屋台の列に並んだ。
一人、二人と。
肉串を買って嬉しそうに屋台を離れていく者たち。
そんな彼らを見ながら、そわそわとした表情でララノーラは屋台を見つめる。
店先でジュウジュウ音を立てながら焼き上げられる肉串。
ララノーラは背伸びしたり、人の隙間から覗きこんだりしながら、その様子を夢中で見つめている。
その表情はまるで子供のようで、愛らしい。
そんな彼女に、広場にいる者はチラチラと視線を向けている。
平民らしい簡素な服を着て、目立たないように変装しているララノーラだが、その程度の変装では彼女の持つ美しさは隠し切れない。
なにより、どうやっても漏れ出る上品さは、人々の視線を惹きつけてしまう。
三人から少し離れた位置にいる、多くの護衛たち。
彼らは、ララノーラに視線を向ける者への警戒を続けていた。
「おっ! お嬢さん、可愛いね。これはおまけだよ!」
愛想のよい店主は、肉串を一本おまけした。
それを受け取ったララノーラの顔に、満面の笑みが浮かぶ。
「おじさん、ありがとう!」
店での買い物に慣れつつあったララノーラは、平民に近い口調で店主へお礼を言う。
小春の記憶も持ち合わせているせいか、この辺りの順応性は高い。
そんな彼女を見て、店主は顔を赤らめながら嬉しそうに笑った。
大きな口を開けてパクリと肉を頬張るなり、ララノーラは目を見開いた。
──美味っ! ウルフって聞いていたから硬い肉を想像していたけど、結構やわらかい。少し野生的だけど、旨みが凝縮していて美味しいわ。
ルーカスが教えてくれた話によると、ダンジョン産のウルフ肉は安価で流通しているので、平民がよく食べる食材なんだそうだ。
そして、高級なものを好む貴族は滅多に口にしない食材でもある。
そんなわけで、ララノーラ。初めてのウルフ肉だ。
その美味しさに舌鼓を打ちながら、ララノーラというより小春はひらめいた!
……ひらめいてしまった。
──あっ! せっかく異世界に来たんだし……マンガ肉とか、食べてみたいかも!
ここから、彼女の異世界満喫の快進撃が始まる。
その初手は、マンガ肉に決まった。




