シーン7 再会
いい匂いがする。
最初に感じたのは、それだった。乾いた木の香りに、花のような甘さがふんわりと混じっている。どこかで嗅いだことがあるような、包み込まれるような優しい匂いだった。
――ここは……どこだ?
重たいまぶたをどうにか開けると、木で組まれた天井が見えた。粗く葺かれた茅の隙間から細い光が差し込み、その光の筋の中で、細かな埃がきらきらと舞っている。
ぼんやりと天井を眺めているうちに、意識が少しずつはっきりしてきた。それにつれて、体の感覚が戻ってくる。
「いった……」
身じろぎすると、背中や脇腹が軽く引きつった。骨が折れている感じではないが、ひどい筋肉痛に似た痛みだった。
動けないほどじゃないが、今すぐ起きる気にもなれない。ふっと息を吐いて力を抜くと、体がわずかに沈んだ。どうやら、ベッドに寝かされているらしい。薄い布の下には藁か何かが詰められているのか、ざらついた硬さが背中に伝わってくる。
この星へ落とされたときのあのふかふかのベッドとは、えらい違いだ。
……あれから、何があったんだっけな。
冴えない頭で、気を失う前のことをたどる。確か、あのベッドに落ちたあと、うるさい白長髪の男に捕まった。それから何故か、蜘蛛男が助けに来て、塔に登らされたんだ。
その後、おかしな兵士とひと悶着あって、白狼の背にしがみついて城から逃げ出した。それでようやく助かったと思ったんだが……そうだ、思い出した。雷撃を食らったんだ。
その衝撃で背から弾き出され、視界がひっくり返って……。
真っ暗な森が見えた。落ちたんだ。あれ? だとすると、何でこんなところで寝ているんだ? 誰かに助けられたのか? でも、なんで? ――駄目だ。何も分からない。
くそっ、この星に落ちてからというもの、意味不明なことばかりだ。しかも、出会うのは話の通じない奴らばかり。文明レベルも低すぎて、もしコントラクターが見つからなければ、この星で帰る手段が見つかるかも怪しい。こんな絶望的な状況で、今の俺にできることはただ一つだ。
……寝よう。
大きくあくびをして、重い体を横へ向けた途端、息が止まった。
「――えっ?」
そこにいたのは、白い繭に包まれていた、あの娘だった。
目と鼻の先で、すやすやと寝息を立てている。
近い。近すぎる。少しでも動けば、唇が触れてしまいそうな距離だ。
理解が追いつかないまま、ただその寝顔を見つめる。きめ細かな白い肌。伏せられた長い睫毛。頬にかかってくる、穏やかな吐息。枕にほどけた金色の髪からは、さっき感じた花の香りがしている。
――やっぱり、綺麗だな。
って、そうじゃないだろ!
何を呑気に見とれてるんだ、俺は! なんで同じベッドに寝てるんだ!?
おかしいだろ! これはどういう状況だ? これで二度目だぞ。一度ならうっかりで通せたかもしれないが、今度こそ言い逃れできない。
まずい。非常にまずいぞ。こうなりゃ仕方ない。やぶれかぶれで、このまま襲い掛かって――
いや、待て待て待て。何を考えてるんだ。落ち着け、俺。幸いにも、彼女はまだ眠っている。起こさなければいい。このまま静かに離れればいいだけだ。
そうっと。そうっとだ。
息を殺し、できるだけ音を立てないように体をずらす。
よし。いける。
胸の内でそう呟いた直後、伏せられていた睫毛がふいに持ち上がり、その瞳がこれ以上ないほど大きく見開かれた。
まずい。このままじゃ、また叫ばれる。
何かないか。この状況をごまかす方法。
怪しくない。怖くない。それでいて、気の利いた……ひらめいた!
俺はできるだけ無害そうに目を丸くし、こてんと首をかしげた。
「うきゅ?」
愛らしい声を出す。
完璧だ。今の俺は、どこからどう見ても人畜無害な小動物だ。
そう思った矢先――。
「きゃあああっ!」
悲鳴が耳をつんざく。
反射的に身を引こうとしたが、それより早く、胸をどんと押された。
「どわっ!」
勢いに耐えきれず、ベッドの端から滑り落ち、そのまま床に背中をしたたか打ちつけた。ただでさえ痛んでいたところに、鋭い痛みが走る。
顔をしかめている間に、彼女はベッドから飛び起き、怯えたようにこちらから距離を取った。
「ま、待った、誤解だ!」
慌てて上体を起こし、敵意はないと示すため手を上げる。だが、彼女は何も言わない。警戒しきった目でこちらを見ながら身を縮め、首から提げたロケットを両手でぎゅっと握りしめている。
「話を聞いてくれ!」
一歩踏み出すと、彼女は目を逸らさず、一歩下がった。
「いや、その……話を――」
さらに一歩寄る。彼女もまた一歩下がる。
また一歩。また一歩。
近づくたびに、きっちり同じだけ距離を取られる。
……なんだこれ。面白い。
悪いと思いつつも、好奇心が勝ってしまう。そんなやりとりを続けるうちに、彼女は部屋の隅まで下がってしまった。
もうこれ以上は逃げられない。ここでさらに脅かしたらどうなるんだ? 壁でもよじ登るのか?
そんなことを考えながら、俺はゆっくりと腕を持ち上げた。
大きく息を吸い込み、口の端をつり上げる。
そして――。
「――があっ!」
獣の真似をして、思いきり声を上げた。
その瞬間だった。
バン、と扉が開いた。
驚いて目をやると、そこには小さな男の子が立っていた。坊主頭の、いかにもわんぱくそうな子供だ。
獣のポーズのまま固まっていると、男の子と目が合った。一瞬きょとんとした顔を向けられたものの、すぐにその表情がぱっと明るくなる。
「起きた!」
その声に続いて、外からどたどたと足音が近づいてくる。
ほどなく、子供たちがなだれ込んできた。甲高い声が一斉に弾け、部屋はたちまち騒がしさに包まれる。
「わっ、本当だ。起きてる!」
「お姉ちゃんもだ!」
「もう平気なの!?」
子供たちは口々に声を上げながら、俺の腕をつつき、服の裾を引っ張り、痛む背中まで容赦なく押してくる。
「いたっ。おい、やめろ」
そう言って振りほどこうとしても、小さな手は俺をつかんだまま離れない。むしろ、さらにぐいぐい引っ張ってくる。
このままじゃ、身がもたない。何でもいい。とにかくこいつらの注意を逸らさないと。そう思い、坊主頭の男の子に声をかける。
「よ、よぉ、お前らが俺らを助けてくれたのか?」
「ううん、僕たちじゃ無理だよ。オビィが連れてきたんだ」
オビィ? また知らない名前だ。
「えっと……ここはどこなんだ?」
「トレーボル孤児院に決まってるよ!」
「孤児院……?」
「うん!」
なるほどな。だから子供が多いのか。ざっと見ただけでも十人はいる。年も背丈もばらばらだが、どいつもこいつも騒がしい。
そういえば、あの娘は?
ふと気になって視線を向けると、彼女もまた子供たちにまとわりつかれていた。
袖やスカートを引っ張られ、怯えたまま身を縮めている。
さすがに気の毒だ。手を貸すか。
そう思った矢先、今度は俺の腕がぐいと引かれた。
「ご飯行こ!」
「は?」
返事をする間もなく、子供たちに腕を引かれ、そのまま扉の方へ連れていかれる。
「おい、ちょっと待て。少し落ち着け――」
そう言っても、子供たちはきゃっきゃと騒ぐばかりで、誰も聞いちゃいない。
俺は引っ張られるまま、深いため息をついた。
そのときだった。
ふいに、背筋がぞくりと冷えた。
「マジカルチャージ、十パーセントォ……」
向かいの壁の向こうから、地の底を這うような声が響いてくる。
途端に、子供たちの顔色が変わる。
「伏せて!」
そう叫ぶなり、小さな手がぱっと離れた。子供たちは一斉に頭を抱え、その場に身を屈めた。
「は?」
何事かと目を瞬いた、その直後だった。
「フェアリィィィ・ボンバァァァ!!!」
空気を震わせる怒声と共に、向かいの板壁が内側へ弾け飛んだ。砕けた木片が一気に部屋へ吹き込まれ、いくつもの破片が頭上をかすめていく。
「うおっ!?」
思わず腕で頭を庇う。ばらばらと木片が床へ落ちる音が続き、やがて辺りが静かになった。
恐る恐る腕を下ろすと、埃が舞う部屋の中で、巨大な影がゆらりと揺れていた。
黒くカールした髪。つるりと光る頭頂部。頬から顎にかけて広がる、青々とした髭の跡。そこまでは、人間に見えなくもない。
問題は、その下だ。
服の上からでも分かるほど盛り上がった筋肉。部屋が狭く見えるほどの巨体。そのくせ、身にまとっているのは、草を編んで作ったような、ひらひらしたドレスだった。
体格と服装が、何ひとつ噛み合っていない。
人、なのか?
俺が言葉を失っていると、子供の一人が声を張り上げた。
「何してるんだよ、オビィ! 壁が壊れちゃったじゃん!」
こいつがオビィなのか?
この、妙な服を着た筋肉の塊が?
オビィは子供の声など耳に入っていないのか、大きな体を小刻みに震わせながら、おずおずと自分の肩を指さした。
「……み、見なさい」
子供たちにつられて肩を見ると、そこには小さな虫がぺしゃりと潰れて張りついていた。
オビィは震える声で告げる。
「虫よ」
……虫?
虫一匹潰すために、壁をぶち抜いてきたのか?
その図体で。その筋肉で。そんな小さな虫が怖いのか?
いや、怖いのはお前だろ。
俺は何も言えないまま、そのあまりにも不可解な生き物を見つめ続けるしかなかった。




