シーン5 城からの脱出①
壁際の寝床に横たわる三号の顔を覗き込む。目は閉じていて、規則正しい寝息だけが聞こえてくる。
「よし、しっかり寝ているな」
小さく息を吐いて立ち上がる。準備は整った。行くなら今だ――そう思い、脱出の道具を取り出そうと懐へ手を伸ばした、その時だった。
階上の扉が静かな音を立てて開き、隙間からかすかな光が漏れてきた。
まずい。誰か来た。
慌てて床に身を伏せ、寝たふりをする。
かつ、かつ……と階段を下りてくる足音が聞こえてくる。あの長髪の野蛮人が歩くときの、やたらと重くて騒々しい足音とはまるで違う。静かで、余計な音がひとつもない。それがかえって不気味だった。
看守か? こんな夜更けに、わざわざ地下まで見回りに来る理由があるのか。何だか嫌な予感がする。だが、まだ俺の牢に来ると決まったわけじゃない――そう思った矢先、足音はすぐ近くでぴたりと止まった。
寝たふりをしたまま、まぶたの隙間から様子を窺う。
鉄格子の向こうの薄明かりの中に、やけに背の高い黒い影が立っていた。二メートルは優に超えている。灯りを吸い込むような黒い皮膚。その肩から脇にかけて、六本の腕が伸びていた。手足を合わせれば八本。体の周りには白い糸がふわふわと漂い、人に近い輪郭をしていながら、どこか蜘蛛を思わせる異様な姿だった。
なるほどな。これが魔族か。
こんなところに何の用だ? 看守には見えない。だが、囚人にしては堂々としすぎている。
息を殺し、そいつの動きを見守る。
やがて男は牢の扉の前で、腕の一本をゆっくり持ち上げた。指先を鍵穴のあたりへかざすと、淡い明かりを受けて何かがきらりと光った。何をしているんだ? 目を凝らしたそのとき、かちゃり、と小さな音がして、鉄格子の扉が開いた。
天井の薄明かりに照らされ、男の姿がより鮮明になる。顔立ちは人間に近く、服装も人間のそれと大きく変わらない。ただ、首に提げられた髑髏だけが異様に目を引く。
そのうえ片目は潰れており、もう片方の赤い目だけが暗闇の中で怪しく光っていた。そこに感情らしいものは見えない。
どの手にも、鍵らしいものは握られていない。
どうやって開けたんだ?
警戒しつつ薄目で窺っていると、男はこちらへ赤い目を向け、ゆっくりと近づいてきた。
まずい。
反射的に目を閉じた直後、硬い靴先が腹にめり込んだ。鈍い衝撃が走り、「うっ……!」という声が漏れた。
「起きろ」
低い声が頭上から降ってきた。
「な、何しやがる……」
三号を起こさないよう声を抑え、腹を押さえながら体を起こす。蜘蛛男は、こちらの抗議など聞こえていないかのように、ただ低く告げた。
「来い。ここから出してやる」
はっ? なんでだ。看守でもないのに。
赤い目の奥を探ろうとする。だが、そこに敵意があるのか、それとも別の目的があるのか、まるで読めなかった。このまま素直に従うのは危険な気がする。
ここは少し、揺さぶってみるか。
一拍置いて、軽く肩をすくめる。
「もし断ったら?」
問いかけた直後、蜘蛛男の腕の一本がわずかに上がった。
しゅる、しゅる、と白い糸が伸びる。糸は音もなく宙を走り、途中で何本にも分かれた。細い線が暗がりの中で絡み合い、見る間に布のような網へと広がっていく。
それが逃げ場を塞ぐように、目の前でゆらりと揺れた。
俺は思わず手を上げた。
「冗談だ。行くよ」
笑みを浮かべてそう言うと、広がっていた糸がぴたりと止まった。やがて力が抜けたようにゆっくりほどけ、はらはらと床へ落ちた。
不気味な奴だが、少なくとも、こちらの言葉を聞く耳くらいはあるらしい。
そう思って次の言葉を待ったが、蜘蛛男は何も言わず、踵を返して歩き出してしまった。
コミュニケーションのできない奴だな。
だが、出してくれるっていうなら、今はありがたく乗っておくか。
腹を決めて立ち上がり、三号を振り返る。一度だけ寝返りを打ったが、目を覚ます気配はない。どうやら、まだぐっすり眠っているようだ。
「必ず戻るから、大人しく待ってろよ」
そう言い残し、男の背を追いかけた。
***
蜘蛛男に導かれ、兵士の目をかいくぐりながら通路を抜けていく。途中で窓から外へ抜けると、今度は城壁の陰に身を寄せ、そのまま壁沿いに進んだ。
やがてたどり着いたのは、城壁の角に建つ高い塔の下だった。
すぐそばの城壁には兵士たちの灯りがぽつぽつと揺れていたが、見張りの目は城の外へ向けられていて、こちらを気にする様子はない。
蜘蛛男は周囲を見回し、人目がないことを確かめると、塔の上部へ向けて片腕を伸ばした。
次の瞬間、その腕から白い糸が放たれた。
幾筋もの白い線が夜闇を裂き、空中で絡み合い、ねじれながら一本の太い束へ変わっていく。やがて塔の上部に突き出した鉄製の支柱へ絡みつき、何重にも巻きついて、ぎちりと締まった。
「……先に行ってろ」
蜘蛛男が低く言った。
それだけ?
何のために登るのか。上に何があるのか。そもそも、どうして俺を逃がすのか。聞きたいことはいくらでもある。ただ、どうせ色々聞いても返ってこないだろう。なら、今聞くことは一つだ。
「別にいいけど……この糸、切れないよな?」
「……さあな」
蜘蛛男は一言そう答えると、城壁の影へ紛れ、あっという間に闇の中へ消えていった。
……行っちまった。
残された白いロープへ目を向ける。本当に大丈夫なんだろうな。
闇の中に浮かぶそれは、太さこそあるものの、夜風を受けるたびにゆらゆらと揺れ、どこか頼りなく見えた。
恐る恐る握って体重を預ける。見た目に反して、びくともしなかった。
大丈夫そうだな……行くか。
白い石壁の出っ張りに足をかける。当然、靴など履いていない。夜露を含んだ石は冷たく、足の裏からじわりと体温を奪っていった。
塔の壁には、足場になりそうな出っ張りやへこみがところどころにあった。だが、頼りにできるのは、このロープと壁のわずかな凹凸だけだ。足を滑らせれば、それで終わりだ。
慎重に身を浮かせる。思った以上にきつい。それでも足場を探りながら、少しずつ上へ進んでいく。
途中、ふと見張りのことが気になり、周囲を見渡した。城壁の上では、見張りの灯りがゆっくりと動いている。だが、こちらを振り向く気配はない。
恐らく、この塔自体が見張りのために使われているのだろう。だとすれば、わざわざ見張り塔を見張るような真似はしない。
だが、こんな塔を登って何になる? 上まで行ったところで、脱出できる見込みなどなさそうだ。何を考えてるのかさっぱり分からない。とはいえ、今はあいつの言葉を信じるしかないか。
文句を言いつつ、ロープを握り直し、さらに壁を登っていく。
手も足の裏も痛み始めていたが、それでも歯を食いしばり、少しずつ体を押し上げる。
ようやく塔の中腹まで登ったところで、小さな窓枠の出っ張りを見つけた。そこに足をかけ、少しだけ息をつく。火照った体を、夜風がひんやりと撫でていった。
どれくらい登っただろう。
何気なく周囲へ目を向けた瞬間、思わず息が止まった。
城の向こう、夜の地平を塞ぐように、大樹がそびえていた。
風が吹くたび、星明かりを受けた枝葉がかすかにきらめいている。
――なんだ、あの木。
どうやったら、あそこまででかくなるんだよ。あれはもう木というより、ひとつの地形だ。
圧倒され、しばらく目を離せずにいた。
そのとき、石の出っ張りにかけていた足がずるりと滑った。
危ねぇ。
慌ててロープで体を支える。
こんなところで見とれている場合じゃない。さっさと登り切ろう。
力を込め、足場を確かめながら体を引き上げる。そして、もう一度だけ巨大な木を横目に見てから、さらに上へと登っていった。




