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シーン57 夢

――暗闇。


 それは突然イオンに覆いかぶさった。


 逃げ道を塞ぐように、華奢な身体を冷たい床に押さえつけると、その重みで床がぎしりと軋んだ。イオンはただ怯えたように小刻みに震え、苦しげに息を漏らしている。


 ふと、その視線が彼女の喉元へ落ちた。虫を思わせる不気味な赤い手が、その細い首にかかる。


 やめろ……!


 そう叫ぼうとした瞬間、背筋が凍りついた。


 違う! これは俺の手だ。俺が――イオンを。


「たす……けて……」


 イオンのか細い声が、暗闇に響いた。


 冷たい指先に、彼女の震えと脈が伝わってくる。それでも、自分の意志とは裏腹に、握る力は強まっていった。


「く……苦しいよ……」


 彼女の顔がみるみる赤くなっていく。イオンは俺の腕をつかみ、首にかかった手を引き離そうと必死に掻きむしってきた。しかし、硬い外骨格には傷一つつかない。


 くそっ、離せ! 離しやがれ! 頭の中でそう叫んでも、身体は言うことを聞かなかった。


 誰か! 誰か、いないのか! このままじゃイオンが!


 必死に叫ぼうとしても、唇さえ開かない。暗闇に響くのは、彼女の喉から漏れるかすれた息の音だけだった。


 やめてくれ! 俺は、こんなこと……! こんなことがしたかったんじゃない! 俺はただ、この星を……! イオンを守りたかっただけなんだ!


 自分でも何を言っているのか分からなかった。目を覆いたくなる光景なのに、視線をそらすことさえできない。涙に濡れた瞳が、焦点の合わないまま、それでも縋るようにこちらを見ている。


 やがてイオンはかすれた声を絞り出した。


「……ア、……クセ……ル……」


 アクセル……誰だ? 俺はそんな名前じゃない。俺は――俺の名前は――。


 そのとき、ふっと彼女から力が抜けた。俺の腕に縋っていた手がするりと離れ、床へだらりと落ちた。


「……ごめ……ん――」


 声が途切れ、その目が閉じた。涙が頬を伝って落ちる。


***


 ――やめろッ!!


 絶叫とともに、目の前の光景が途切れた。


 息が荒い。全身に脂汗がにじみ、心臓が激しく脈打っている。


 ここが夢なのか、現実なのかも分からない。涙に濡れたイオンの顔だけが、まだ目に焼きついていた。


 何度か息をつくと、身体がふわふわと浮いているような感覚が薄れ、背中に馴染みのある感触が戻ってきた。そこでようやく、自分が孤児院のベッドに寝かされていることに気づいた。


 今は、朝か? てことは、あれからずっと眠っていたのか?


 窓から暖かな陽光が差し込み、かすかに茅の匂いがする。外からは鳥のさえずりが聞こえてきた。そんな朝の穏やかな空気に包まれているうちに、荒かった呼吸も整ってきた。それでも、心はまだ落ち着かない。


 とにかく起き上がろう。そう思って身じろぎした途端、ピキリと全身に痛みが走った。


「いった……!」


 身体がバキバキだ。息をするだけでも痛い。まあ、あれだけのことがあったんだから当然――って、待て。それだけ?


 確か、金色のスター・オーブを二つも使ったよな。普通だったら死んでもおかしくないのに、何でこんなもんで済んでるんだ?


 それに――。俺は腹をさすった。


 ……傷が、ない。


 あのときニコに氷の弾丸で貫かれたよな。それなのに、痕すら残っていない。どうなってるんだ?


 誰かの能力か? それか、この星には万能薬でもあるのか? いくら何でも、寝ているだけで治るような傷じゃなかったはずだ。


 だが、今はそんなことより――。


 俺はふぅと大きく息を吐いた。


 ……夢で良かったぁ。


 あれが現実じゃないって分かれば、今はほかのことなんてどうでもいい。


 それにしても、なんだよ、あの夢。まさか俺がイオンを殺そうとするなんて。そんなの、ありえないだろうが。


「冗談はよしこちゃんだぜ、まったく……」


 舌打ちをして寝返りを打った――その途端、岩みたいなでかい顔が視界を埋め尽くす。


「うおっ!!」


 俺の叫び声に、巨体がぱちりと目を開けた。オビィだ。青髭の目立つ口に太い親指をくわえたまま、呆けた目でこちらをじっと見つめている。ほどなくして、その巨体がわなわなと震えだし、それにつられてベッドまでがたがたと揺れ始めた。


 ……嫌な予感。そう思い、そっと逃げようとしたそのときだった。


「ぎゃおおおーんッ!!」


 オビィが雄たけびを上げて襲いかかってきた。逃げる間もなく、太い腕でがしりと抱きしめられ、筋肉の盛り上がった胸に力いっぱい押しつけられる。


「ぎゃああああっ!!」


 バキバキと骨が軋み、俺の悲鳴が孤児院にこだました。


 そのまま俺は、再び深い眠りへと落ちていくのだった。


***


「ホント、無事でよかったわ♡」


 目を覚ました俺に、オビィがにこやかに言った。


「どこがだ! お前のせいで、起きて早々、永い眠りにつくところだったろうが」


 舌打ちをして、改めてオビィに目をやった。相変わらずすごい筋肉だ。寝間着だか知らないが、ピンクのフリフリした服が今にもはちきれそうになっている。頭のナイトキャップまでフリフリだ。


 こんな奴が隣に寝ていたとは。なるほど、どうりで悪夢を見たわけだ。


 顔をしかめながら、さっきよりもひどく痛む身体を何とか起こすと、オビィが目を見開いた。


「……驚いた。アンタ、もう動けるの? ホント、ゴキブリ並みの生命力ね」


「誰がだ。俺は虫じゃねぇ。嫌なこと思い出させるな――って、そうだ、パラポラはどうなった? 貴族みたいな格好をした、蟻みたいな奴だ」


「ああ、あの気味悪い虫ね。アタシがぶっ飛ばしておいたわ。残りの奴らも、リオレスの騎士が来て全員退治しちゃったわよ」


 ぶっ飛ばした? ぶっ飛ばしたって、こいつがか? 俺があんなに苦労したっていうのに。いや、待て。それよりも――。


「リオレスの騎士って何だ? ここに来たのか?」


「えぇ、イオンちゃんを探しにね。言っとくけど、アンタ、初めは疑われてたのよ? ヴァルの坊やが、脱獄だの何だのって喚いてね。けど、あのちっこいガキ……ニコだっけ? あの娘が全部白状したわ。自分がイオンちゃんを攫おうとしたことも、アンタがそれを命懸けで防いだこともね。それでヴァルも、しぶしぶ引き下がったってわけ。まあ、ニコの方はそれで捕まっちゃったけどね」


「なるほど、あいつなりに俺のことを守ってくれたってわけか……」


 だからって、許すと思ったら大間違いだ。絶対勝つとか偉そうに言ってたくせに、裏切りやがって。ほんと、あのときはぶん殴ってやろうかと思ったぜ。


 そう悪態をつきながらも、ニコが無事だったという事実に、口元がふっと緩んでしまった。


「そうだ。他のみんなは?」


「子供たちなら寝室で寝てるわ。アンタのせいで、昨日からずっと寝っぱなしよ。多分、昼まで起きないわね」


 思い出した。危ないからってんで、ネム草で寝かせたんだったな。騙して悪いことしちまったかな。でもまあ、みんな無事だったんなら、良かった。


 ギース達とやり合い、ニコには裏切られ、そのうえパラポラ達には殺されかけた。トラブル続きでどうなることかと思ったが、これでようやく、めでたしめでたしってわけだ。


 俺は身体の痛みをこらえながらゆっくりとベッドから足を下ろし、何とか立ち上がった。


「ちょっとみんなの様子を見に行こうかな。イオンもそこにいるのか?」


「いえ、いないわ。イオンちゃんは城に戻ったから」


「……へえ、そうなのか――って、今なんて!?」


 ぐいと身を乗り出すと、オビィは一歩後ずさった。


「な、何よ、急に。今言った通りよ。イオンちゃんなら、リオレスの奴らと一緒に城に戻ったわよ」


「いつ!?」


「昨日の夕方かしら。帰らずの森を抜けていったけど、まあ、あいつらなら大丈夫でしょ」


「何だよ、それ! イオン、断らなかったのか?」


「断るも何も、ぐっすり寝ちゃってたからね。それもアンタのせいでしょうが」


「……そ、それはそうだが。どうして止めてくれなかったんだよ。挨拶すらしてないんだぞ」


「そりゃ、止めようとしたわよ。けど、婚姻の儀はもう明日なんだし、仕方ないじゃない。……そんなことより、アンタらのせいで外がめちゃくちゃよ。あとでしっかり後片付けしてもらうからね。ああ、それと、納屋にいる黒スーツの奴ら、何とかしなさいよ。アンタが何かしたんでしょ? うねうね動いてて、気持ち悪いったらないわ――」


 オビィはその後も何かぶつぶつ文句を言っていたが、俺の頭にはもう入ってこなかった。


 まずいな。そういや、イオンが結婚をやめるって話、オビィにはしてなかったか。


 あいつ、父親にちゃんと言えるかな。不安だから、俺も一緒について行こうかと思ってたのに。


 ……で、でもまあ、ああ見えて肝は据わってるし、やるときはやる娘だ。案外、俺がいなくてもズバッと――。


 そのとき急に、純白のドレスを着ておろおろしているイオンの姿が頭に浮かんできた。


 ――だめだ! イオンのことだ。周りの人を気にして断れずに、なし崩しに結婚なんてことも、十分あり得る。


 式は明日って言ってたな。急がないと。


 俺はベッド脇の棚に手を伸ばし、その上にあった銀色のライターと上着をつかんで駆け出した。


「ちょっと! どこ行くのよ! 納屋の奴ら、どうすんのよ!」


 背後で喚くオビィをよそに、俺は孤児院を飛び出した。夢の中で涙を流していたイオンの顔が、一瞬、脳裏をよぎる。それがどうにも気にかかって、身体の痛みなどいつの間にか意識から消え去っていた。

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