シーン55 バンビーノ・ブロッソ
「さて、久しぶりの運動です。しっかり準備をしないと。怪我でもしたら大変ですからね……」
パラポラはぶつぶつと呟きながら腰を回し、今度は屈伸まで始めた。身構えていたニコは、思わず眉をひそめる。
何よ、あいつ。のんびりしちゃって。戦う気あるの?
――はっ、そうだ。今のうちにバンを。
慌てて這い寄り、その腹を覗き込んだ途端、動きが止まった。
……傷口が、塞がっている。
嘘。なんで……? さっきまで、あんなに血が出ていたのに。ほんの少し目を離した間に、何があったの……?
呆然と見つめていると、「うぅ……」と苦しげな声が漏れた。
「バン!」
抱き上げた身体は冷たく、腕の中でぐったりしていた。とにかく早く孤児院へ。立ち上がりかけたところで、大きな腕が行く手を遮った。
「そいつは放っとけ。死にはしない」
「……えっ? どうして分かるんですか?」
バンビーノは答えず、魔族たちの落とした槍へ糸を放ち、次々と手繰り寄せていく。
それ以上何も言えず、その横顔を見上げていると、「お待たせしました」と声がかかった。
四本のサーベルを手に、パラポラがにこりと微笑みながら歩み寄ってくる。一歩近づくごとに、押しつぶされそうな圧迫感が増していった。
ところが、その足が倒れた手下に引っかかった。
「おっと……ここは私の手下が転がっていて、危ないですね。向こうで戦いましょうか」
返事も待たずに背を向け、そのまま歩き出してしまった。
ずいぶん余裕ね。後ろから狙われるなんて、思ってもいないの?
その背中を睨みつけていると、頭にぽんとウエスタンハットをかぶせられた。何事かと見上げたが、バンビーノは何も言わず、パラポラのあとを追っていく。
「待って! アタシも!」
腰を浮かせかけ、腕の中の重みに思いとどまった。
どうしよう。バンを、このままにしておくわけにも……。ひとまず、安全なところへ。
揺らさないように孤児院の壁際まで運び、そっと横たえた。
「少しだけ、待ってて」
ぽつりと言い残して立ち上がり、二人のあとを追って駆け出した。ところが、走るうちに頭に妙な違和感を覚える。
あれ……なんだろう?
足を止めてハットを脱ぎ、内側を覗き込むと、緑の光を煌々と放つ石があった。
ラクリマだ。
マスターが仕込んだの? すごい光。こんなに高エネルギーのラクリマ、変身でもしない限り必要なんて――。
あっ! もしかして、これで戦う準備をしろってこと!?
目を上げると、二人は孤児院から離れた芝生の広場で向かい合っていた。パラポラが四本のサーベルを構えたのに合わせ、バンビーノも六本の槍を向ける。そのまま、どちらも動かない。
聞こえてくるのは、遠くの波の音と木々のざわめきだけだ。いつ動き出すのかと息を詰め、二人を見守る。
大丈夫かな、マスター……。
――って、見てる場合じゃなかった。早く変身しないと。
慌ててラクリマに手を触れると、緑の光が体内へ流れ込んできた。疲れが抜け、頬の痛みもみるみる引いていく。
そのまま四つん這いになり、身体に力を込めたところで、パラポラが地面を蹴った。
速い!
一瞬で間合いが詰まり、刃と槍が火花を散らした。バンビーノが槍を突き出すと、パラポラはそれをかわして斬り込んだ。鋭い金属音が立て続けに響き、斬撃が地面を削るたび、芝が二人の周囲に舞い上がった。
がんばれ、マスター!
祈るように見守っていると、乾いた音とともにバンビーノの槍が折れた。間髪入れず、その腕をサーベルが裂き、紫の血が散る。槍を構え直す暇もなく、次の刃が脇腹をかすめた。
残る槍でなんとか刃を受けながら、バンビーノは後ろへ押し込まれていく。
まずい。このままじゃ……!
そもそも、マスターは近接戦闘がそこまで得意じゃない。自分でも分かってるはずなのに、どうしてあんな開けたところへ……。――まさか、アタシを巻き込まないため?
はっと見上げたその時、バンビーノが力任せに槍を薙いだ。だが、パラポラはそれを軽くいなし、サーベルを腹へ突き立てた。
「ぐっ……!」
バンビーノは腹を押さえ、その場に膝をついた。指の間から溢れた血が、芝を濡らしていく。
「準備運動の必要もありませんでしたね」
パラポラは薄く笑い、とどめとばかりにサーベルを突き下ろした。バンビーノがとっさにその手首をつかんだが、切っ先はじりじりと顔へ迫っていく。
マスター!! って……あれ?
叫んだつもりが、口から出たのは獣の吠え声だった。
……変身が終わった! よし!
四本の脚で地面を踏ん張り、白銀の毛を逆立てた。宙に生み出した一本の氷の針を、パラポラめがけて撃ち出す。針はきぃんと大気を裂き、一瞬でその顔へ迫った。
だが、パラポラは首をわずかに傾けてかわすと、こちらをぎろりと睨みつけてきた。
嘘。避けられた?
慌てて宙に無数の針を生み出し、顔めがけて次々と撃ち込んだが、パラポラはサーベルで易々と弾き飛ばした。胸へ狙いを変えても、すかさず別の刃が閃く。
砕ける氷の向こうから、パラポラがゆっくりと近づいてくる。
なんで……何で当たらないの? 当たって! お願い、当たってよ!!
がむしゃらに、残る針をすべて撃ち込んだ。しかし、パラポラは凄まじい速さで四本のサーベルを振るい、次々と弾き飛ばしていく。最後の一本が鋭い音を立てて砕けると、にやりと笑って身を低くした。
もう、だめだ――。
そのときだった。
「霧を張れ……!」
低く、絞り出すような声が響いた。
……そうか! その手が! 慌てて大きく息を吸い込む。
「させませんよ!」
足元の芝を蹴散らし、パラポラが飛び込んできた。やられる……! 思わず身をすくめた途端――。
ドンッ、と銃声が轟き、パラポラの肩を銃弾がかすめた。
その足がぴたりと止まる。肩口に手をやり、指先についた紫の血に目を落とすと、パラポラの顔から笑みが消えた。
「こ、これは……」
その手がわなわなと震え出す。
「私の……血が……」
ぎろりと振り返った先では、膝をついたままのバンビーノが拳銃を構えていた。腹にはいつの間にか白い糸の包帯が巻かれている。その姿に、パラポラの目がつり上がった。
「さすがはバンビーノさん。人をイライラさせるのがお上手だ」
注意がそれた。この隙に――!
凍える息吹を吐き出すと、白い霧が足元を這い、芝生を覆って広がっていった。みるみる濃くなる中、パラポラがしまったという顔でこちらを振り返った。その姿もたちまち霧に呑まれ、辺りは何も見通せなくなった。
よし、上手くいった! 今のうちに上へ――。
足元から空へ氷の道を伸ばして一気に駆け上がり、霧を抜けたところで振り返った。眼下でドンッと銃声が響き、「ぐあっ!」と悲鳴が上がる。
「……くっ、どこだ! どこにいる!」
銃声のした方へパラポラの斬撃が走り、白い霧が大きく裂けた。土と芝が跳ね上がったが、そこに人影はない。
次の銃声は離れた場所から響いた。
「そこか!!」
怒声とともに斬撃が走ったが、その直後にはまた別の場所で銃声が轟き、パラポラの悲鳴が上がった。
流石マスター。あんな霧の中でも居場所が分かるんだ……。アタシには、あいつの姿も見えないのに。
銃声が響くたび、パラポラの苦しげな呻きが漏れた。斬撃は次第にまばらになり、怒声もかすれて、荒い息の合間に途切れ途切れに聞こえてくる。
もう耐えられないでしょ。だったら、きっと――。
羽音が急に高くなり、血を滴らせたパラポラが眼下の霧を突き破って飛び出してきた。
思った通り!
大きく口を開け、喉の奥へ冷気を凝縮させた。
「……くっ、舐めるなッ!!」
四本のサーベルを振りかぶったパラポラが、羽を唸らせて突っ込んできた。
ところが、その刃が届く寸前、身体ががくんと止まった。パラポラが驚愕の表情で視線を落とす。その足に何重にも絡んだ糸が、霧の中へぴんと張っていた。
「おのれ、バンビーノッ!!」
これで終わりよ!
ありったけの力を込めて咆哮波を吐き出した。




