シーン43 思わぬリスク
「……ふぅ、ひどい目に遭った」
イオンの料理を台無しにした罰として、ニコに長々と正座させられていた俺は、ようやく許されてテーブルについた。足はまだじんじんと痺れていて、少し伸ばしかけただけで、つま先までびりっときた。思わず顔をしかめ、そっと足を下ろす。
子供たちはとっくに食べ終わり、芝生の上を駆け回っていた。テーブルを囲んでいるのは、俺とイオン、それにニコだけだ。
俺も遅ればせながら食事をしようと、冷めきった料理を見回したところで、ふと気づく。
「なぁ、俺のスープは?」
「そんなの、とっくに捨てちゃったわよ」
まだ怒りが収まっていないのか、ニコの返事はそっけなかった。
「なっ!? なんでだよ。後で食べようと思ってたのに」
「バカね。あんな砂糖まみれのスープなんて飲んだら病気になっちゃうでしょ。言っとくけど、おかわりもないからね。全部捨てちゃったから」
「な、何てことしやがる! せっかくイオンが一生懸命作ってくれたんだぞ!」
「こっちの台詞よ。見てみなさい!」
ニコが示した方へ目をやると、イオンは俯き加減にテーブルの端を見つめていた。こちらの騒ぎなど、まるで耳に入っていないようだ。相当ショックだったのだろうか。
良かれと思ってやったんだが、まずいことをしちまったな。
表情を改めてイオンへ向き直る。ニコは俺の様子から察したのか、「さてと、片付けなきゃ」と独り言のように言うと、空いた皿を重ねて持ち、孤児院の方へ戻っていった。
俺はごほんと一つ咳払いをした。
「悪い、イオン。スープを駄目にしちまって」
深々と頭を下げて謝ると、イオンは「えっ?」と顔を上げた。
……なんだ。違ったのか?
料理のことじゃないとしたら、何を気にしているんだ。
それとなく様子を窺うと、イオンは額にうっすらと汗を浮かべ、落ち着かなさそうに身じろぎしていた。今にも席を立って、どこかへ行ってしまいそうだ。
もしかして、まだ自分がここにいると迷惑がかかると思ってるんだろうか。だとしたら、そろそろ安心させてやらないとな。
「分かってる。明日の襲撃が不安なんだよな」
「えっ? あぁ、はい……」
あれ? 反応が薄いな。
まぁ、いいか。
「ちょっと待ってな」
そう言って、懐から銀色のライターを取り出し、側面の目盛りを合わせる。親指で着火ホイールを弾くと、その先に淡い桃色の球体が浮かび上がった。
イオンはそれをまじまじと見つめてくる。
「……スター・オーブ。動物さんを仲間にできるお薬、でしたよね?」
「あぁ、この桃色のやつはな。だが、前に言ったろ? オーブには星の数ほど種類があるって。例えば、これだ」
目盛りをずらし、もう一度ホイールを弾いてみせる。今度はオレンジ色の球体が浮かび上がった。その中では、いくつもの赤い星が瞬いている。
「すごい。色が変わりました」と、イオンが目を丸くした。
「それだけじゃないぞ。効き目も変わるんだ。こいつには、ある星の記憶が閉じ込められてる。七つ集めれば何でも願いが叶うっていうボールを巡って、いろんな騒動が巻き起こる星でな。舐めれば、少しの間だけ、大地を砕くほどの力が手に入るんだ」
「す、すごい……」
「だが、万能ってわけじゃない。オーブは、リスクが小さく強力なものほど、効果が出るまで時間がかかるうえ、持続時間が短いんだ。このオレンジのオーブなんて、丸一日待たされるくせに、効き目はほんの一瞬だ」
「それじゃあ、明日の朝には間に合いませんね」
イオンは残念そうに眉を下げた。
「そこでだ――」
俺はにやりと笑い、再び目盛りを合わせてホイールを弾いた。ライターの先に浮かび上がったのは、淡い青色の球体だった。中では細かな気泡がしゅわしゅわと湧き上がっている。
「綺麗ですね……」
イオンはその光に見入るように顔を寄せたが、すぐに小さく身じろぎして座り直した。
「これは、どんな効果があるんですか?」
「その前に、一つ質問だ。少し前に円形闘技場で腕相撲をしたの、覚えてるか?」
「バンさんが、すごく強そうな人に勝ってしまいましたよね。それがどうかしたんですか?」
「実はあのとき、ずるをしてたんだ」
「ずる?」
眉を寄せるイオンの前へ、青いオーブを近づける。
「こいつは、つい最近手に入れたものでな。隕石の衝突が迫る中、若い男女の身体が入れ替わるっていう不思議な星の記憶が入ってる」
「体が入れ替わる? そんなの、ありえません」
「だが、それがもし実現できたとしたら?」
戸惑うイオンに笑いかける。
「このオーブを舐めて相手の肌に触れると、そいつと体を入れ替えられる。腕相撲のときも、俺はひそかにこいつを舐めておいたんだ。それで、リクノだったか? あいつと入れ替わって、わざと負けた。そのあとすぐに元の体に戻って、俺の大勝利ってわけだ」
イオンは呆然としたまま、俺とオーブを交互に見ていた。まだ理解できていないようだが、構わず続ける。
「オレンジのオーブと違って、こっちは効き目が出るまで、そんなに時間はかからない。しかも、もう一度相手の肌に触れない限り、効果は永久に続くんだ。凄いだろ?」
「なんだか、他のオーブと比べて、便利すぎるような気が……」
「いや、そうでもない。入れ替わりってのは、実は結構リスクがでかい。例えば、もし入れ替わっている間に片方が死んじまったら、もう片方は二度と元の体に戻れなくなっちまう」
途端にイオンの表情がこわばった。
「それに、肌へ直接、十秒くらい触れていないと入れ替われないんだ。敵がそんなに長い間、じっとしていてくれると思うか?」
「それじゃあ、どうやって入れ替わるんですか?」
「それはまた後でだ。今はまだ、このオーブのことを信じ切れてないだろ? まずは一度試してみよう。イオン、ちょっと立ってくれないか?」
「……はい」
イオンは返事をしたものの、俯いたまましばらく動かなかった。やがてためらいがちに立ち上がったが、何やら顔色が悪く、もじもじと落ち着かない。
そりゃ、体が入れ替わるなんて言われたら警戒もするか。さっさと終わらせよう。
オーブを口に含むと、若い男女の淡い青春の記憶が、一気に頭へ流れ込んできた。
……はぁ、羨ましい。
そんな愚痴をこぼしつつ、しばらく待つ。
そろそろいいか。
「イオン、手を貸してくれ」
おずおずと差し出された手を取る。その掌は汗でじっとりと湿っていた。
不思議に思いながら握り続けていると、ふっと意識が途切れ、目の前が一瞬真っ白になった。
白く霞んでいた視界が、少しずつはっきりしていく。見上げた先には、目を丸くしている俺の顔があった。
どうやら成功したようだ。
「こ、こんなの、ありえません。夢に決まってる……」
目の前で、野太い男の声が漏れた。
「ところがどっこい。現実なんだな」
そう返した自分の声は、鈴のように澄んでいた。
まだ呆然としているイオンをよそに、俺は自分の手に目を落とした。
小さくて白い、綺麗な手だ。さすがイオン。
……さて。この手を使って、今やるべきことといったら一つ。
彼女が見せるはずもない、いやらしい笑みを浮かべ、両手を自分の胸へ伸ばす。だが、いざ揉もうとした途端――。
「はうっ!?」
腹に激痛が走った。思わず両手でお腹を押さえ、身体を折る。
な、なんで急に便意が……もしや入れ替わったからか?
どうもさっきから様子がおかしいと思ったら、ずっと我慢してたのか。そんなの、先に言ってくれよ。
脂汗をにじませながら、どうにか声を絞り出す。
「わ、悪い。ちょっとウンコ行ってくる」
返事を待たず、俺は孤児院の裏へ向かって駆け出した。だが、入れ替わったばかりの身体は、どうにも動かしづらかった。おまけに動くほど腹の痛みが増し、小走りで進むのが精いっぱいだ。
早く。早く。早く。
よたよたと進むうちに、ようやく粗末な木造のトイレが見えてきた。
あと少しだ。もうひと踏ん張り――。
そのときだった。
「ダメェェェーーーッ!!」
野太い叫び声とともに、背中にどんと衝撃が走った。踏ん張る間もなく前のめりに倒れてしまう。
「な、何するんだ……」
俺は肘をつき、腹ばいのまま前へ這い出そうとした。だが、イオンが上からのしかかり、逃すまいと押さえつけてくる。
「ダメッ!! 今、バンさんは私の身体なんですよ!」
そんなこと言ってる場合か!
「目、閉じとく! 耳も塞いどくから! 早くしないと、も、漏れちまう!」
「ダメです! 絶対にダメですっ!!」
聞き入れてもらえず、俺は必死にもがいたが、この非力な身体ではどうにもならない。逃れようとするたびに腰を押さえ込まれ、腹の痛みがますますひどくなる。
脂汗が噴き出し、身体がすうっと冷えてきた。俺は身をよじり、手でイオンの顔を押しのけた。それでも、イオンは俺に回した腕を少しも緩めない。
もう限界だ――。
そう思ったそのとき、再び意識がふっと途切れ、目の前が一瞬真っ白になった。
気がつくと、あれほど激しかった腹の痛みが、嘘のように消えていた。
……戻れたのか? でも、何で?
そこでようやく、自分の頬にイオンの手が当たっていることに気づく。
そうか、肌に触れていたからか。
俺はふぅと息を吐いた。
「悪い、イオン。取り乱しちまって」
そう言って笑いかけた途端、イオンは俺をはねのけ、一目散にトイレへ駆け込んでいってしまった。




