シーン40 はじめての手料理
「ずいぶん狭いな」
孤児院の台所に入った俺は、思わず呟いた。
調理道具に食器と、ひと通りのものは揃っている。きちんと手入れされているのか、それとも神族だから使う機会が少ないのか、どれも新品のようにぴかぴかだ。ただ、とにかく狭い。大人ひとりで使うのがやっとという広さだ。
イオンは調理台の前に立ち、紺のエプロンの裾を整えていた。長い金髪を後ろで束ね、袖も濡れないようにまくっている。整った顔立ちは相変わらず目を引くが、一国の姫様も、こうして台所に立っていると妙に家庭的に見える。
……良い。
ついまじまじと眺めていると、不意にニコが背中をどんと押してきた。
「ちょっと、邪魔よ!」
「うおっ」
思わず前へよろけたが、足を踏ん張ってどうにかこらえた。文句を言おうと振り向くと、ニコはもう俺の脇をすり抜け、せわしなく勝手口から外へ出ていってしまった。
ったく……。
俺は言いかけた言葉を飲み込み、ため息を吐いた。
事の始まりは、今朝のことだ。みんなに世話になっているから何か恩返しがしたいと、イオンがオビィたちに申し出たのだった。するとオビィが、それならイオンの手料理が食べたいと言い出したのだ。
お姫様だし、料理なんてしたことがないはずだ。てっきり断るものだと思ったが、意外にもイオンはそれを引き受けた。ただ、一人では不安だということで、こうして俺たちも台所に立つことになった。
それにしても、今回の料理といい、あの海岸から戻ってきて以来、イオンは何となく積極的になった気がする。物おじせずに自分からオビィや子供たちの輪へ入っていくようにもなった。
昨日の自己啓発セミナーが効いたのだろうか。
なら、ここはもう一つ、頼りになるところを見せてやるか。
「よし。それじゃあ、始めるか。まずは湯を沸かそう」
「はい」
イオンは元気よく頷くと、食器棚の下段から大鍋を引きずり出した。腕をぷるぷると震わせながら抱え上げるので、落としやしないかと気が気じゃない。
それでも、どうにか壁際のレンガ造りの台のくぼみへ据え、水差しで水を注ぎ始めたのを見て、俺はほっと息をついた。
「それじゃあ、次だ。火をつけよう」
イオンは頷くと、鍋の下にある黒く煤けた扉を開けた。だが、中は空っぽで、しばらく覗き込んだあと、困ったようにこちらを見てきた。
「これ、どうやって温めるんですか?」
「さぁ、どうだと思う?」
意味ありげに聞き返してみたが、実は俺もこんな原始的なものは使ったことがない。
イオンはうーんと首をひねりながら周囲を見渡し、淡い緑色に光る石が山積みになった樽に目を留めた。
「あっ、もしかして、これかも」
そう言って、ひとつ取り出す。
なるほど、キカイ石か。確かに、少し温かいしな。でも、あんなんで沸騰するか?
首をかしげる俺をよそに、彼女は扉の奥へキカイ石を入れ始めた。俺にもほかに案があるわけじゃない。ひとまず任せて見ていると、勝手口から声が飛んできた。
「ちょっと、何してるのよ!」
薪を抱えたニコが駆け込んできた。イオンは石を手にしたまま、おずおずと答える。
「えっ? お水を沸かそうとしたんですけど」
「もうっ、そんなんじゃ日が暮れちゃうでしょ。どいて!」
ニコはイオンを押しのけるとしゃがみ込み、中のキカイ石を取り出した。手早く木くずに火をつけ、薪をくべると、徐々に炎が大きくなっていく。
「ありがとうございます。あとは私が……」
「ううん。火が消えちゃうとまずいから、ここはアタシが見ておくわ」
「……はい」
イオンは伸ばしかけた手を引っ込め、そのままうつむいてしまった。
ニコに一言言っとくか? いや、あいつも良かれと思ってやってるんだろうしな。
ひとまず注意するのはやめ、俺はイオンを励まそうと、努めて明るい声を出した。
「じゃあ、湯が沸く間に野菜を切っておこう。できるか?」
「やってみます」
顔を上げた彼女は、気を取り直したように背筋を伸ばし、籠からだいだい色をした細長い野菜を何本か取り出した。今朝採ったばかりで、葉先にはまだ露が残っている。
イオンはそれを水で洗ってまな板に並べると、きゅっと唇を結び、包丁の刃を当てた。
たどたどしい手つきで少しずつ動かしていくが、なかなか刃が入っていかない。時折滑りそうになるので、見ているこちらまでハラハラしてしまう。
それでも、しばらくすると小さなひと切れがまな板に転がった。
「おぉ、なかなかやるじゃないか」
そうおだててやると、イオンは手元を見つめたまま、照れくさそうに笑った。
どん、どんと、不規則な音を立てながらも、野菜は少しずつ切れていく。
だが、その音を怪訝に思ったのか、ニコが火の前から立ち上がった。横から手元を覗き込むなり、たまりかねたように声を上げる。
「あぁ、もう。何やってるのよ! そんな切り方じゃ時間がかかるでしょ。力任せに押すんじゃなくて、少し刃を滑らせるのよ。それと、指。危ないじゃない。猫の手にするのよ、猫の手に」
「で、でも。私、ニコさんみたいに変身できません……」
「ばっ、違うわよ。ちょっと貸して」
ニコは包丁をひったくると、小気味よくまな板を鳴らしながら、次々と野菜を切っていった。その隣で、イオンは何か言いたげに手を伸ばしたが、思い直したように引っ込めた。
やがて最後の一本まで切り終えると、ニコは得意げに振り向いた。
「どう? こうするのよ」
「……はい」
イオンはわずかに眉を寄せ、うつむいたまま何も言わなくなった。初めの張り切りようが嘘のようだ。そんな様子にも気づかず、ニコはますます調子づいたように流し桶へ手を伸ばした。
「次は魚を三枚におろすわ」
大ぶりの魚をまな板にどんと置き、包丁を握り直す。
「これは結構難しいわよ。まず、こんな感じで鱗を落として――」
「ちょっと待った!」
たまらず割って入ると、ニコはびくりと尻尾を逆立てた。
「な、何よ、急に。びっくりするじゃない!」
「お前、さっきから口を出しすぎだぞ。全部自分でやっちゃって、イオンが何もできてないじゃないか」
「そんなこと! ……なくはないけど」
ニコは勢いよく言い返しかけたものの、自分が握っている包丁に目を落とし、気まずそうに口ごもった。
「せっかくイオンが頑張ろうとしてたのに。見てみろ。すっかりしょげちまった」
「う、うそばっかり。教えてくれてありがとうって思ってるわよ。ねぇ、イオン?」
ニコが顔を覗き込むと、イオンは口を真一文字に結び、ぷいと顔を背けてしまった。
「イオン?」
返事はない。ニコはしばらくその横顔を見つめたあと、おそるおそる口を開いた。
「も、もしかして、もしかしてだけど……嫌だった?」
イオンはちらりとニコを見た。しばらく迷っていたが、やがて申し訳なさそうに目を伏せ、こくりと頷いた。
「ガーン!!!」
ニコはがくんとのけぞった。顔からさっと血の気が引き、目も口も大きく開いたまま固まってしまう。ぴんと立っていた耳がへなへなと倒れ、尻尾も力なく垂れ下がった。
「……おーい?」
目の前で手を振ってみる。反応がない。
参ったな。完全に気絶しちまった。ここにいられたら正直邪魔なんだが……どかすか。
俺は真っ白な灰となったニコを台所の端へ寄せると、イオンへ向き直って笑いかけた。
「それじゃあ、料理再開だ。今度は自分でやってみよう」
イオンは顔を上げると、小さく頷き、もう一度包丁を手に取った。
***
しばらくして、台所には湯気が立ちこめ、食欲をそそる匂いが漂っていた。
「ふぅ、ようやく完成したな」
野菜と魚介のスープに、焼きたてのパンと焼き魚。畑で採れた野菜のサラダに、デザートの果物まである。昼飯にしては十分すぎるくらいだろう。
満足して眺めている俺の横で、イオンは眉を下げ、皿に載った焼き魚へ目を落とした。
「でも、このお魚、取り出すときに少し崩れちゃいました」
「大丈夫、大丈夫。味がうまけりゃ問題ないだろ」
「でも、でも、このパンも少し焦げちゃいました。美味しくないかも」
「そうか? いい匂いじゃないか。それに、初対面の人間に腐ったパンを出すような家だぞ。それくらい気にしないだろ」
「でも、でも……でも……」
ほかにも失敗したところがないかと必死に料理を見回すイオンに、思わず笑みがこぼれた。
「みんなに、できたって言わないとな。……っと、その前にこいつを起こさないと」
床にへたり込んだままうなだれているニコの前にしゃがもうとした、そのときだった。
「アンタたち、ちょっといい?」
台所の入口にオビィが顔を覗かせた。並んだ料理を見るなり、ぱっと顔を明るくする。
「あら、凄いじゃない」
その言葉に、イオンは頬を赤らめ、照れくさそうにエプロンの裾をつまんだ。
「あぁ、初めてとは思えない出来だ。まさに天才だ、天才」
「何言ってるの。イオンちゃんは神よ、神!」
おいおい、ちょっと言い過ぎじゃないか。そう思ってイオンの顔を窺うと、彼女もまんざらではないらしく、はにかんだ笑みを浮かべていた。
だが、ほっとしたのもつかの間――
「ほんと、オラシオンの法皇様がうらやましいわ」
その一言でイオンの笑顔が曇った。
結婚をやめたいという気持ちは、まだオビィたちには伝えていない。父親が許してくれるかも分からないうちに、話すわけにはいかないのだろう。
「こんな美人で、かわいくて、料理上手な娘をお嫁さんにもらえるなんて――」
「オビィ!」
慌てて割って入る。
「な、何よ、急に」
「あ、いや、えっと……さっき俺らを呼んでたよな。何か用か?」
「そうそう。あんたたちにお客さんよ。居間で待たせてるから、早くいらっしゃい」
何とか話をそらせた。だが、待てよ。
お客さんって、誰だ? 俺たちを訪ねてくるような相手に心当たりはない。というより、そもそもここにいることを誰かに教えた覚えもないぞ?
不審に思いながらも、イオンたちと一緒に居間へ向かった。
入口の扉に手をかけ、用心しながら少しずつ開けた。中を覗き込んだ途端、思わず動きが止まる。
「お前は……」
そこにいたのは、だらしなくスーツを着崩した中年の男だった。まるで我が家にいるかのようにふんぞり返り、タバコをふかしている。
「よぉ、また会ったな」
ギースはニヤリと笑みを浮かべた。




