シーン3 出会い
「うっ……!」
一瞬の浮遊感のあと、腹に走った鈍い衝撃で目を覚ました。裂け目からあふれた光にやられたせいか、視界は真っ白で何も見えない。耳の奥で、キーンという不快な音が鳴り続け、頭の中もぼんやりしていた。
ここは……どこだ?
身体が、重い。どうやら重力があるらしい。下には、妙な柔らかさがある。体を受け止めている部分がわずかに沈み、こちらの重みをやわらかく包み込んでいる。しかもほんのり温かく、おまけにいい匂いまでする。これは花の香りか?
柔らかくて、温かくて、花の香りまでする。これじゃあ、まるで天国だ。やはり俺は死んだのか?
ぼんやりした頭を無理やり働かせ、まずは身体機能を確認する。呼吸はできている。指は動く。足先にも感覚がある。腕も脚も、どうやら欠けてはいないようだ。目はまだ駄目か。耳もまともではない。とりあえず命はあるようだ。
ただ、うつ伏せの状態のせいで胸が苦しい。下は柔らかいとはいえ、この態勢のままでは息が詰まりそうだ。起き上がろう。
そう思い、両手をつく。下は沈み込むような柔らかさのうえに起伏があり、どうにも力を入れづらい。そのうえ、押すとどういうわけか少し動く。下手に体重をかければ、そのまま体勢を崩してしまいそうだった。
慎重に、とっかかりを探す。指先を少しずつ動かしていくと、柔らかすぎず、固すぎもしない、妙に手のひらになじむ丸みに触れた。よし、やるか。
両手にしっかり力を込める。手元がぐっと沈んだが、構わず腕を突っ張り、一気に上半身を起こした。ぐらりと体が揺れ、危うく前のめりになりかける。それでも両手で何とか支え、どうにか四つん這いのような姿勢になる。
胸の圧迫感が抜けていくのを感じながら、大きく深呼吸した。その吐息とともに、真っ白だった視界が少しずつ晴れていった。ぼやけていた輪郭が形を取り戻し、白く霞んでいた視界に、少しずつ色が戻ってくる。
えっ?
全身が固まった。
人だ。俺の下に、人がいる。
金色の美しい髪をした若い女性。左の瞳は澄んだ蒼、右の瞳は淡い緑。左右で色の違う珍しい瞳が、真ん丸に見開かれている。整った鼻筋の下で、薄ピンク色の唇が小刻みに震えていた。
これは何かの間違いだ。必死にそう思い込もうとするものの、心臓はどくどくと嫌な音を立て始めた。喉が乾き、背中に冷たいものが流れる。
……そういえば。
さらに嫌な予感がして、恐る恐る視線を下げた。自分が何を支えにしているのか、ようやく理解する。薄い掛け布越しに、俺の両手は彼女の胸元をしっかり押さえていた。
心臓が、ひときわ大きく跳ねた。
まずい。まずいまずいまずい。
すぐに手を離すべきだ。いや、待てよ。ここはこの幸運に甘んじて……いやいや、馬鹿か。どう考えても離すべきだろ。落ち着け。落ち着いて、自然に、できるだけ自然に――。
そう思えば思うほど、指先が妙にこわばって動かない。
彼女の蒼と緑の瞳が、小刻みに揺れながらこちらを見つめている。驚きと恐怖と、理解が追いついていないような混乱が、その顔にはっきり浮かんでいた。
……美人だな。
って、そんなこと考えてる場合か!
何か言わなければ。だが、何を言えばいい。謝るか。いや、謝ったら、こちらに非があると認めたことになる。これは、そう。ただの不幸な事故なんだから。
ひとまず敵意がないことだけでも伝えよう。
ゆっくりと息を吸った。彼女の瞳が、わずかに揺れた。張り詰めた沈黙が、二人の間に重くのしかかる。
――いくぞ。
にこっ。
こっちとしては、精いっぱい友好的に笑ったつもりだった。
「きゃあああっ!」
次の瞬間、鋭い悲鳴がその沈黙を引き裂いた。
「どわっ!」
思い切り押し返され、寝台の上から勢いよく転げ落ちる。床に尻を強く打ちつけ、思わず息が詰まった。
「ま、待て! 怪しい者じゃない!」
慌てて立ち上がり、両手を上げて敵意がないことを示す。彼女の視線が俺の顔から、ゆっくりと下へ落ちた。その直後、表情が凍りつく。
そして、ふっと意識を失い、寝台の上へ力なく倒れ込んだ。
どうしたんだ?
さっきの悲鳴で気絶したなら、分かる。だが、今のは明らかに一拍あった。
首をかしげていると、部屋の扉が勢いよく開かれた。
「どうされました!」
一人の男が部屋へ飛び込んでくる。
「貴様、何者だ!」
その男はこちらを見るやいなや、怒号を上げた。
かなりの長身だ。白の長髪に、赤い瞳。端正な顔立ちをしているが、眉間には怒りのしわが深く刻まれている。視線を下げると、やけに動きにくそうな服が目についた。見た目ばかり重々しく、機能性の欠片も感じられない。
どうやら、文明レベルは相当低そうだ。
こんな相手に、次元の狭間に飲み込まれてここへ落ちてきました、などと言っても信じないだろう。恐らく人語を話すだけで精いっぱいなはずだからな。
そういえば、何で俺、こいつのいうこと理解できているんだ? 今は、目的地だったアークにしか言語機能を最適化していないのに。
状況が把握できずに黙っていると、長髪の男が再び怒鳴った。
「何者だ! 答えろ!」
さて、どうするか。
こうした想定外の事態では冷静さが重要だ。慌てず、まずは深呼吸。思い込みで動かず、できることから対処する。俺の愛読するマザー・ドルスの自己啓発本にも、たしかそう書いてあった。
よし!
心の中でひとつ気合を入れ、脳をフル回転させる。窓の外は暗い。今は夜か。ここは彼女の部屋だろう。ということは、怒鳴り込んできたこの男は、彼女の父親か? いや、そこまで年上には見えない。だとしたら兄か。
やけに怒っているのはなぜだ? 俺を泥棒か何かと勘違いしているのか? それはまずいな。この上さらに、あの彼女に「見知らぬ男に胸元を掴まれた」などと言われたら大事だ。
だが、幸いにも彼女は気を失っている。今のうちなら、どうとでも言い訳できる。適当な理由をつけて、起きる前にさっさと退散してしまおう。
ごほん、と咳払いをして、できるだけ平静を装う。背筋を伸ばし、片手を胸に当てる。ここは、できるだけ怪しまれない関係性を名乗るべきだ。
そう判断し、礼儀をわきまえた紳士のように微笑んだ。
「友達です」
「心配ありません。ちょっとした遊びの最中だっただけです」
その瞬間、今まで怒りに震えていた長髪の男が、ぽかんと口を開けた。
なんだ? なぜ固まる?
今の台詞に何か問題があったか? 敵意がないことも示したし、泥棒に見えないよう穏やかな態度も取った。疑われる理由なんてないはずだ。
そ、そうか。彼女の悲鳴と気絶の理由も説明しないと不自然だ。
「あれです。あの、スティックを差して遊ぶ……。いやぁ、ははっ。私が差したら勢いよく飛び出しまして。彼女、悲鳴を上げて、倒れてしまったんです」
あくまで落ち着いた口調で説明する。これなら誤解は解けるはずだ。
だが、長髪の男の表情はさらに険しくなった。
「……スティックを、刺した?」
低い声で、繰り返す。
「はい……?」
あれ? なんだ、その反応。知らないのか? 樽にスティックを差して、人形が飛び出すあの玩具だ。今、四次元世界で大流行りしているじゃないか。もしかして、この文明レベルでは分からないのか?
ん?
やけに肌寒いな。
そう思い、ふと視線を下に向ける。そこでようやく異変に気付いた。
「おわっ!?」
裸じゃないか。
次元の狭間をさまよっている時に脱げたのか? 下着まで消えているところを見ると、相当激しい境界嵐に巻き込まれたらしい。
いや、分析している場合か!
慌てて大事なところを隠す。
まずいぞ。
全身裸で「スティックを差して遊んでいた」などと言ってしまった。しかも紳士ぶって説明したせいで、余計に変態じみて聞こえる。
ここはひとつ冷静に。冷静に。冷静に……。
思いつかん。
助けて、マザー・ドルス!
「こ、これは、その……暑くて……」
ぎこちない笑みを浮かべて答える。
そのとき、わずかに開いた窓から冷たい風が吹き込んできた。肌を刺すような寒さに、思わず体が震える。鼻の奥が、むずむずした。
「……くしゅん」
情けない音が、凍りついた寝室にやけにはっきり響いた。




