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シーン36 姫の行方

ヴァルは長い廊下を駆けていた。


先ほど目にした空っぽの皿と、あの侍女の怯えた顔が頭から離れない。


姫様がいない。


いったい、いつから。どこへ連れていかれたのか。何もかも分からず、焦りばかりが募っていく。


だが、今は考えている場合ではない。一刻も早く王に知らせなければ。


ヴァルはさらに足を速めた。


「待てって!」


不意に、背後から腕をつかまれる。


「何をする、マンドラン。離せ!」


「離すかよ。急に走りだしやがって。どこへ行く気だ!」


「王の間だ。姫様が攫われたと伝えねば」


ヴァルはその手を振り払い、再び先へ進もうとした。だが、すぐさま目の前に回り込まれた。


「馬鹿やろう、よく考えろ。イオン様の部屋に近づくなと命じたのは王だぞ。攫われたことなんて、とっくに知ってるに決まってる」


「そんなはずがない。姫様は実の娘だぞ。探しに行かないのはおかしいだろう」


「俺が知るかよ。あの王のことだ。何か良からぬことでも考えてるんだろうよ」


「話にならん」


そう言い捨てて脇を抜けようとしたものの、また行く手を塞がれた。


「そこをどけ」


「いいや。この際だから言わせてもらう」


今は一刻を争うというのに。ヴァルは苛立ちを隠さず睨みつけた。


「王のことだ。十八年もイオン様を部屋に閉じ込めて、急に結婚を決めて、挙句の果てに攫われても知らんふりだぞ。お前もおかしいとは思わないのか」


「それは……王なりの考えがあってのことだ」


そう答えながらも、視線がわずかに逸れた。


ヴァルとて、王の態度に何も感じていなかったわけではない。だが、そこには必ず理由があると信じ、これまで一度も尋ねようとはしなかった。


「考え? じゃあ教えてくれよ。どんな考えがあれば、十八年も娘を閉じ込めておけるんだ? それに、今まで一度だって、あの王がイオン様とまともに話してるところを見たことがあるか? 目を合わせてるところは?」


「……やめろ」


「無いんだろ?」


「もういい。黙れ、マンドラン」


その言葉をまともに考えてしまえば、王への信頼そのものが揺らいでしまいそうだった。ヴァルはそれ以上考えないよう、無理やり意識を逸らした。


だが、マンドランはさらに一歩距離を詰め、まっすぐこちらを見据えてきた。


「確かに昔は名君だったのかもしれねぇ。だが、ソラウ様が死んでからのあいつはどうだ」


「……黙れと言っている」


「お前に世話役を押しつけて、自分はイオン様を避け続けてる。あいつは今でも、ソラウ様が死んだのはイオン様のせいだと思ってるんだ。だから、あんなふうに――」


「王に限って、そんなことはありえん!」


そう叫ぶなり、ヴァルは拳を壁へ叩きつけた。鈍い音が長い廊下に響き渡る。


違う。


そんなはずがない。


王が、姫様を憎んでいるなど――。


しかし、信じようとすればするほど、王への疑念が頭から離れなくなる。ヴァルはそれを振り払うように強く頭を振った。


「まったく、立派な忠誠心をお持ちのことで」


呆れたような声に顔を上げると、マンドランは肩をすくめ、ひとつ長く息を吐いた。


「……まぁ、いい。それより今はイオン様だ。侍女の話じゃ、あの偽装は婚姻の儀の前日までなんだろ? だったら、どこかできっと生きてるってことだ。探しに行かないのも、それが理由かもな」


「だから、それを今から王に確かめにいくのだ……」


「どうやって聞くんだよ。『イオン様が部屋にいませんでした』とでも言うのか? 命令違反で、良くて謹慎。悪けりゃ牢屋行きだ。そうなったら探しにも行けなくなるぞ」


返す言葉が見つからず、ヴァルは黙って俯いた。


王命に背いたことが知れれば、処罰だけでは済まない。長年仕えてきた王の信頼まで裏切ることになる。かといって、イオンの行方が分からないまま何もせずにいることなど、到底できない。


「なら、私はどうすればいい……このままここで、じっとしていろとでもいうのか」


これほど近くにいながら、イオンがいなくなったことにすら気づけなかった。


何が護衛だ。何が世話役だ。


俯いたまま、拳を強く握り締めたそのときだった。


「誰がそんなこと言ったよ」


呆れたような声が聞こえてきた。


顔を上げると、マンドランはいつもの気の抜けた笑みを浮かべていた。


「ほら、行くぞ」


そう言って、片手を差し出してくる。


「行くぞって、お前、城の警備は……」


ぽつりと漏らすと、マンドランは何を今さらと言いたげに眉を上げた。


その顔を見ているうちに、ヴァルの口元にも笑みがこぼれる。


「……あぁ、行こう」


差し出された手を取ると、ヴァルはマンドランとともに廊下を駆け出した。


今頃、姫様はどうしているだろう。


急に外の世界に放り出されて、きっと怖い思いをしている。不安で泣いているかもしれない。


すぐに行きます、姫様。


胸の内でそう告げ、ヴァルはさらに足を速めた。


***


「それでね、すっごいんですよ!」


イオンの弾んだ声が、食堂いっぱいに響いた。


「今度は山みたいな熊さんが出てきたんですよ。図鑑じゃ大きさまでは分からなかったから、私、本当にびっくりしちゃいました!」


両手を目いっぱい広げて大きさを示すと、テーブルを囲んだ子供たちも目を輝かせて身を乗り出す。


孤児院へ戻ってからというもの、イオンはずっとこの調子だ。どれくらい経っただろうか。窓から差し込む光もいつの間にか赤みを帯びている。


まったく、よくもまあこれだけしゃべれるもんだ。いい加減、もう休みたいんだが。


それでも、あれだけ嬉しそうに話しているのを見ると、止めるに止められなかった。


「そしたらね、面白いんですよ! ニコさん、急にカニさんみたいになっちゃったんですよ!」


イオンが口元を押さえて笑うと、子供たちは一斉にニコへまとわりついた。


「えーっ、見たい!」


「やってみせてよ!」


「ばっ、やるわけないでしょ!」


服の裾をつかむ子供たちを、ニコは鬱陶しそうに手で払う。だが、子供たちはまるで懲りた様子もなく、笑いながらまたまとわりついていく。


その様子がおかしくて、俺はにやりと笑い、イオンへ顔を向けた。


「イオン。それからどうなったか教えてやれよ」


「はい。カニさんになったかと思ったら、今度は急に地面にぺたっと伏せて、背中を反らせて、まるでエビさんみたいに――」


「ストップ! もうおしまい!」


ニコの大声に、イオンは目を丸くして口をつぐんだ。それでも子供たちは「続きは?」「もっと聞きたい」と口々にせがみ、ニコから離れようとしない。


「もう、知らない!」


とうとうそっぽを向いたニコを見て、オビィが肩を揺らして笑った。


「それにしても、あの森を抜けて帰ってくるなんて、何考えてるんだか。無事だったからよかったけど、普通は船を使うのよ。せっかく準備してたのに、急にいなくなって心配したんだから」


「なんだ、そうだったのか」


やばい森だとは思ったが、やはり普通のルートじゃなかったか。


とはいえ、この星の文明レベルじゃ、大した船じゃなさそうだしな。自分たちで延々と漕いでいくなんてごめんだぞ。豪華客船でのんびりクルーズってんなら話は別だが。


そこまで考えたところで、ふと港で見た巨大な船が頭に浮かんだ。


「そういえば、あのオーシアスって船もすごかったよな」


何気なく口にした途端、それまで騒がしかった食堂が、嘘みたいに静まり返った。


隣を見ると、イオンはさっきまでの笑顔を消し、沈んだ顔で俯いていた。


「ほ、ほら、あっただろ? 港に停まってた馬鹿でかい船。確か空を飛べるんだってな」


「……はい」


返ってきた声は妙に小さい。


どうしたんだ、急に。何か変なことでも言ったか?


子供たちも、目が合いそうになると気まずそうに視線を逸らす。ますます訳が分からない。


「もうすぐ飛ぶんだろ? なにか祝いがあるとかで。何の祝いなんだろうなー……」


独り言のように呟いてみたが、やはり誰も拾ってくれない。


見かねたのか、ニコがイオンを横目に見て、代わりに口を開く。


「……結婚式があるのよ。オラシオンのルミナスって奴と――この国のお姫様のね」


「へぇ、そいつはめでたいじゃないか」


妙な空気を吹き飛ばそうと、わざと明るい声で続ける。


「リオレスのお姫様ねぇ。イオンもお城に住んでたんだろ? どういう奴か知ってるのか?」


だが、イオンは顔を上げなかった。両手で胸元のロケットを包むように握り締めている。以前はよく見た仕草だったが、ここしばらくは目にしていなかった。


「どうした? 体調悪いのか?」


さすがに心配になり、イオンの肩へ手を伸ばした――そのときだった。


背後から太い腕が首に回る。


「いい加減にしなさぁぁい!」


怒号と同時に腕がぐっと食い込んできた。


「ぐえっ! ギブ! ギブギブギブ!」


夢中でその腕を何度も叩く。ようやく締めつけが緩むと、俺はすかさず首を抜き、そのまま前のめりになって咳き込んだ。


「げほっ、げほっ……急に何しやがる!」


涙目で振り返ると、オビィが仁王立ちでこちらを睨んでいた。


「アンタがイオンちゃんを苦しめるからでしょ!」


「何のことだよ!」


訳が分からず聞き返すと、オビィは呆れ果てたように額に手を当てた。


「全く、いつまで記憶喪失やってんのよ」


「はぁ? だから何言って――」


言い返しかけたところで、ガタン、と隣の椅子が鳴った。


イオンが勢いよく立ち上がり、そのまま逃げるように食堂を飛び出していく。声をかける間もなくその姿は扉の向こうへ消え、俺は何が何だか分からないまま、しばらく閉じた扉を見つめていた。


「どうしたんだよ、イオンのやつ。トイレか?」


隣でニコが深いため息をついた。


「全く、何も知らないのね」


呆れたような目を向けられても、何のことかさっぱり分からない。そんな俺を見て、ニコはもう一度ため息をついた。


「彼女はイオン・ハートレット。正真正銘、リオレス国のお姫様よ」


「……え――――っ!?」


思わず上げた声が、家中に響き渡った。

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