シーン37 決意
俺はイオンを追って孤児院を出た。
もちろん、ニコたちに聞きたいことは山ほどあった。イオンが姫ってのは本当なのか。だとしたら、なぜ誰も捜しに来ないのか。だが、今はそれよりイオンの様子の方が気になる。
浜辺まで来ると、砂の上にひとりで座る彼女の姿が見えた。じっと海を眺めていて、こちらには気づいていないようだ。
「こんなところにいたのか」
その隣まで歩いていき、少し間を空けて腰を下ろす。
日はすでに傾きかけ、オレンジ色の陽光が海岸を照らしていた。
「懐かしいな、ここ。町に行くためにセイリュウチョウを捕まえた海岸じゃないか」
イオンは何も答えない。
「……いや、待てよ。よく考えたら、まだ一日ちょっとしか経ってないか。色々ありすぎて、数か月くらい経った気分だったぜ」
冗談めかして言ってみたものの、隣からは相変わらず反応がない。横目で見ると、彼女は夕日に照らされた金色の髪を風に揺らしながら、どこか寂しげな表情を浮かべていた。
やれやれ、気まずいな。正直、もう戻りたいが、このまま置いて帰るわけにもいかないしな。
どうにかできないか考えていると、イオンが握りしめているロケットが目に入った。
「それ、いつも持ってるよな。大事なものなのか?」
聞いてみても、やはり返事はない。
はぁ、と小さく息を吐いたところで、不意に声が返ってきた。
「母の形見です」
小さな声だった。こっちを見てはくれないが、ようやく反応してくれたことに少しほっとする。
だが、すぐに「形見」という言葉が引っかかった。もう亡くなっているってことか。また余計な地雷を踏んじまったらしい。
「へ、へぇ、いいな。それ、純金か? それでいてデザインはシンプルで。うん、センスあるぜ。さすがイオンの母さんだ。それに、娘がこんな美人ってことは、本人も相当美人だったんだろうな」
我ながら苦しいと思いながら矢継ぎ早にまくし立てていると、イオンがふいにこちらを見た。
「見ますか?」
「えっ?」
間抜けな声を出している間に、彼女はゆっくりと首飾りを外した。ロケットを開き、そのまま俺の手に載せる。
中には一枚の写真が収められており、ひとりの女性が写っていた。
これがイオンの母さんか。
さすがに美人だな。ただ、髪の色も目の色も違うし、思ったよりイオンには似てない。そのうえ、芯が強そうというか、気が強そうというか……どこか男勝りな感じがする。
「イオンの母さん、強そうだな」
何気なく口にした途端、妙な沈黙が落ちた。
まずい。外したか?
内心ひやひやしながら反応を待っていると、やがて小さな声が返ってきた。
「私もそう思います」
彼女の口元にふっと笑みが浮かんだ。
「見た目もですが、本当に強かったんですよ。私が生まれた時、リオレスで襲撃事件があったんですけど、母は命がけで私を守ってくれたんです」
生まれた時か。それじゃ、ほとんど覚えてないんだろうな。それでもこんなに嬉しそうに話すってことは、きっと自慢の母親なんだろう。
「そんなに強い母さんがいつも一緒なら、イオンも安心だな」
そう言ってロケットを返すと、イオンは大切そうに受け取り、ぱちんと閉じて再び首にかけた。
さっきより幾分、表情も柔らかくなっている。
聞くなら今だ。
「イオン、結婚するんだって?」
「……はい」
その声は寂しげだった。
「はぁ、なんだ。がっかりだぜ。あわよくば俺がって思ってたのに」
大げさに肩を落としてみせると、隣からくすりと笑い声が漏れた。
「バンさんは少し大人すぎますよ」
「そうか? 歳なんてどうでもいいだろ」
「そうかもしれませんけど、わたし、なんとなく気づいちゃったんです。バンさんは、一つのところにいることなんてできない人なんだって。この国にいるのだって、多分少しの間だけ」
鋭いな。どうしたんだ、急に。
確かに俺は四次元世界の人間で、コントラクターの場所が分かったら、この国とはすぐおさらばするつもりだった。だが、そんなことはイオンに話した覚えはない。
横目で様子を窺っていると、イオンは砂浜へ仰向けに倒れ込んだ。
「あーあ。いいなぁ。私も一緒に行きたいな」
「へっ、そうなのか?」
思わず呆けた声が出た。
「はい。一度だけでいいと思って外へ出てみたら、逆にもっと色々なところに行きたくなってしまいました。色んな場所を見たり、色んな動物さんを見たり。バンさんと一緒なら、とても楽しそうです」
「なんだ。それなら早く言えよ。一緒に行こうぜ」
そう言って腕を取ると、イオンは嬉しそうに顔をほころばせ、引かれるまま体を起こした。
しかし、すぐに寂しげな表情に戻り、俺の手から腕を引く。
「無理ですよ。私、もうすぐ結婚するんですから」
「そんなのやめればいいだろ。それか延期だ。イオンが世界を回って満足してからでも遅くはないだろ?」
イオンは少し考え込むように目を伏せたあと、小さく首を振った。
「そんなことしたら、お父様に怒られてしまいます」
「でも、行きたいんだろ? 結婚なんてしたら、また城暮らしの日々だぞ。そんなの嫌だろ?」
「そうですけど、ルミナス様やみなさんにも迷惑が……」
そこまで言うと、イオンはうつむいてしまった。
迷惑をかけたくないって気持ちは分かる。だが、そのために自分のやりたいことまで全部諦めるのは違うだろ。
どうにかできないものかと考えていると、ふとある考えが浮かんだ。
「そうだ、イオン。ちょっとクイズを出してもいいか?」
「えっ? クイズですか? いいですけど。どうして今……」
「いいからいいから」
そう言って立ち上がると、人差し指を一本立てる。
「それじゃあ、第一問。イオンは、幸せって何だと思う?」
「し、幸せですか? うーん……えっと、お金があったり、美味しいものを食べられたりするってことですか?」
「一点」
「い、一点?」
「あぁ、百点満点中な。じゃあ聞くが、イオンはお姫様なんだろ? 金もあるし、毎日美味いものを食べてたはずだ。それで幸せだったか?」
返事はなかった。図星だったのか、その視線がゆっくり下がっていく。
「違うだろ? 今の暮らしで本当に満足してたんなら、こんなに外へ出たいとは思わないはずだ。幸せっていうのはな、日々の生活でどれだけワクワク、ドキドキできるかってことなんだ」
「ワクワク、ドキドキですか……」
イオンはまだよく理解できていないようだったが、俺は構わず続けた。
「じゃあ第二問。どうすればワクワク、ドキドキできると思う?」
「うんと、えっと……何か楽しいことを考えたり、大きなことにチャレンジすることでしょうか」
「マイナス百点」
「ま、マイナス?」
目を丸くするイオンに、俺は呆れたように首を振った。
「あぁ、全然だめだ。楽しいことじゃなくたって、嫌なことでもドキドキするだろ? それに、別に大きなことじゃなくてもいい。町に行くのだって、イオンはドキドキしたじゃないか」
「嫌なこともですか? でも、それはあんまり幸せなことじゃないんじゃ……」
「それが違うんだな。ずっと楽しいだけが幸せってわけじゃない。どんなに好きな食い物だって、毎日ずっと出てきたら飽きるだろ? でも、何日も何も食べてなくて、腹が減って仕方ない時に出されたらどうだ? きっと貪るように食うはずだ」
「確かにそうですが……じゃあ、正解は何ですか? どうすればワクワク、ドキドキできるのですか?」
「答えは一つ。自分の意志で生きることだ」
「自分の意志……」
イオンがその言葉を確かめるようにぽつりと繰り返した。
「あぁ。何をするにも、自分で決めるんだ。不安だし、失敗するかもしれない。だけど、だからこそワクワクもドキドキもする。人の言いなりになってる方が楽だろうけど、それじゃそんな気持ちにはならないだろ?」
「はい。でも私、これまでそんな風に生きたことがなかったので……」
「いいんだよ。今からやれば。年齢なんて関係ない。たとえジジババになってからでも遅くないしな。やりたいことはやる。やりたくなけりゃやらない。大事なのは、それを自分で決めることだ」
そう言って笑いかけると、イオンは黙ったままこちらを見つめ返してきた。
「それじゃあ話を元に戻すぞ。イオンはこれからどうしたいんだ?」
すぐには答えが返ってこなかった。
膝の上に置いた手を見つめたまま、何度か口を開きかけては閉じる。胸の内にあるものを、ひとつずつ確かめているようだった。
何も言わずに待っていると、やがて彼女は小さく息を吸い、ばっと顔を上げた。
「わたし……わたし、まだ結婚したくないです。世界を冒険してみたいです」
声はわずかに震えていた。それでも、顔を上げた彼女の目に、もう先ほどまでの迷いはなかった。
「じゃあ、決まりだ」
俺が手を差し出すと、イオンは少し迷ったあと、ぎゅっと握り返してきた。そのまま手を引いて立たせ、服についた砂を軽く払ってやる。
「ありがとうございます、バンさん。……お父様には、私から結婚したくないって言います」
そう言い切ったものの、その表情は次第に曇っていった。
「どうした?」
「やっぱり、少し不安になってきました。私、お父様とあまり話したことがなくて。突然そんなことを言ったら、怒鳴られるかもしれません」
「いいじゃないか。自分で決めたことを伝えるんだ。そりゃドキドキもするだろ?」
俺があっけらかんと言うと、イオンは目を丸くした。
「えっ?」
「今まで、こんな経験あんまりなかったろ? 緊張したら自分に言ってみな。こんなにドキドキできる自分は幸せなんだって。そうすりゃ、少しは気も紛れるはずだ」
「は、はい。やってみます。私は幸せ、私は幸せ、私は幸せ……」
うつむいたまま、呪文のように唱え始める。
なんか宗教っぽいな。言ったのは俺だが、何か少し気味が悪い。
内心でそんなことを考えていると、イオンが急に顔を上げた。
「何だか、わたし、熱くなっちゃいました」
そう言うなり、海へ向かって駆け出していく。
浅瀬まで入ると、イオンは両手で水をすくい、空へ向かって跳ね上げた。夕日を受けた水しぶきが、きらきらと宙を舞う。その顔には、さっきまでの迷いが嘘のような晴れやかな笑みが浮かんでいた。
あーあ、何やってるんだよ。ずぶ濡れじゃないか。あのまま連れ帰ったら、俺がオビィに疑われちまう。
……でもまぁ、元気になったようだな。
まさかこんなところで愛読してる自己啓発本が役に立つとは。
サンキュー、マザー・ドルス。
波打ち際ではしゃぐ彼女を眺めながら、俺はふっと笑みをこぼした。




