シーン35 静かな寝室
婚姻の儀が迫るにつれ、リオレス城内は日に日に慌ただしさを増していた。
遠方から訪れる来賓への応対に、飛空艇オーシアスへ運び込む荷の準備、警備体制の確認。廊下では兵士や使用人が絶えず行き交い、城全体が落ち着かない空気に包まれている。
そんな人波の中を、白い長髪をした長身の若い騎士が歩いていく。すれ違う兵士たちはその姿に気づくと足を止め、深々と頭を下げた。男も軽く会釈を返しながら、廊下を進んでいく。
やがて、人影もまばらな廊下の一角までやってきた。一際大きな木製の扉の前で足を止め、軽く二度叩く。少しして扉がわずかに開き、その隙間から若い侍女が顔をのぞかせた。
「ヴァル様、どうされました?」
怪訝そうな目を向けられ、ヴァルは少し言いづらそうに口を開く。
「いや、姫様のご様子が気になってな。お変わりはないだろうか」
「またですか……」
侍女は呆れた声を漏らした。
「お元気でいらっしゃいますよ。昨夜もそう申し上げましたよね。それに昨日のお昼も、朝も、その前にも……」
「す、すまない。どうにも不安で、つい……」
式を目前に控え、万が一にも姫に何かあってはならないと、王は身の回りの世話をする侍女を除き、姫の部屋に近づくことを一切禁じていた。それは、護衛兼世話役であるヴァルも例外ではなかった。
十五歳でリオレス王家家臣団に入り、以来ずっとそばで仕えてきた彼にとって、いつしかイオンは娘のような存在になっていた。そんな彼女と顔を合わせなくなってから、すでに数日が経っている。これほど長く離れて過ごすことなど、これまで一度もなかった。
とはいえ、式が終われば、彼女はルミナスとともにオラシオンへ旅立ってしまう。
今のうちに、姫様のいない生活に慣れておかなければ。
そう思い我慢していたはずなのに、気づけばまたこうして部屋の前まで来ていた。
「な、何か困っている様子はないだろうか? やけに静かなようだが」
扉の隙間から中を窺おうとすると、侍女はさりげなく扉を引き、視線を遮った。
「大丈夫です。大切な式を控えておられますので、多少ご不安なご様子ではありますが……」
「それは大変だ。私からもお声をかけた方がいいのではないか?」
ヴァルの申し出に、侍女は困ったように眉を下げた。
「お気持ちはありがたいのですが、陛下より何人たりともお通ししないよう命じられておりますので」
「そ、そうだったな。すまない、無理を言った」
納得したようにうなずいたものの、視線は扉に向いたままだった。
せめて一目だけでも、無事な姿を見ておきたい。かといって、王の命令を破ってまで部屋へ入るわけにもいかない。
そんな葛藤を抱えたまましばらく黙って立ち尽くしていると、侍女が遠慮がちに口を開いた。
「……まだ何か?」
「ん? あ、いや、その……そ、そうだ。姫様は今、何をされている?」
「……朝食を召し上がっておられます」
「ふむ、朝食を。そうか……それは何よりだ。今朝は何を召し上がっているんだ?」
少しでもここにいる口実が欲しくて、苦し紛れに出た問いだった。
てっきりすぐに答えが返ってくると思っていたが、侍女はなぜか口をつぐんだ。先ほどまでと違い、その表情もどこか曇っている。
「どうした? 顔色が優れないようだが」
「そ、それは……最近は私ひとりでイオン様のお世話をしておりますので、少し疲れているのかもしれません」
「それは大変だ。私も何か手伝えればいいのだが……。そうだ。私がここで待機しておくのはどうだ? 何かあればすぐに対応できるぞ」
突然の申し出に、侍女は返答に困ったように眉を下げた。
「お年頃の姫様のお部屋の前に、ずっといらっしゃるのも少々……」
「そ、それもそうだな。申し訳ない。配慮が足りなかった。もう行こう」
ヴァルは慌てて姿勢を正した。
だが、その言葉とは裏腹に、一向にその場を離れようとしない。
扉の前を何度も往復し、そのたびに立ち止まってはまた歩き出す。そんなことを繰り返しているうちに、侍女から怪訝そうな目を向けられ、ヴァルは気まずそうに笑みを浮かべた。
その挙動不審さは、端正な顔立ちでなければただの不審者にしか見えなかった。
しばらくして、侍女がたまりかねたように口を開いた。
「あの……」
「どうした!?」
待ってましたとばかりに、ヴァルが食いついた。
「いえ。もうすぐイオン様のお召し替えの時間ですので、そろそろ戻ってもよろしいですか?」
「手伝おうか!?」
ぱっと顔を明るくしたヴァルだったが、侍女の冷ややかな視線を受けた途端、笑みがぴたりと止まった。しばらくそのまま固まったあと、気まずそうに視線を逸らす。
「……すまない。姫様のこと、くれぐれもよろしく頼むぞ」
そう言って一歩下がり、侍女が部屋へ戻るのを見送った。
扉が閉まると、ヴァルは大きくひとつ息を吐いた。さすがにこれ以上居座るわけにもいかない。もう一度名残惜しそうに扉を見やると、ようやく踵を返した。
その背後から、ひょうひょうとした声が飛んでくる。
「よぉ、ヴァル」
振り返ると、燃えるような赤髪の騎士が立っていた。緑色の瞳は鋭く、頬にはトカゲのような赤い紋章が刻まれている。だが、兵士にしてはどこかやる気がなさそうだった。
「マンドラン。お前か」
ヴァルは露骨に眉をひそめた。
「城の警備を放り出して朝帰りとは。貴様、この大事な時にやる気はあるのか?」
「なぁに、町の警備だって立派な仕事だろ? 安心しろ。飲み屋の平和を守ってきてやったぜ」
悪びれる様子もないマンドランに、ヴァルの眉間の皺がさらに深くなった。
「そんな命令は受けていないだろう。勝手な真似ばかりするんじゃない」
「そいつはお前にだけは言われたくないな」
「……どういうことだ?」
「こんなところにいるってことは、また命令破ってイオン様のところに会いに来たんだろ?」
図星を突かれ、ヴァルは言葉に詰まった。その様子を見て、マンドランが呆れたようにじりじりと距離を詰めてくる。
「相も変わらず、姫様、姫様って。ストーカーが過ぎるぞ。お前まさか、オラシオンにまでついていく気じゃないだろうな」
「そ、そんなわけないだろう」
「どうだかな」
両手を上げて肩をすくめるマンドランから、ヴァルは逃げるように顔を逸らした。ひとつ咳払いして、無理やり話を切り替える。
「……なんだ。そんなくだらないことを言いに、わざわざここまで来たのか」
「あぁ、そうだった。肝心な用を忘れてた」
そこでようやく、マンドランの表情が引き締まった。
「少し気になることがあってな。イオン様の様子を見に来たんだ」
「気になること?」
ヴァルが聞き返すと、マンドランは声を潜めた。
「昨日の夜、高台で爆発があったの知ってるか?」
「もちろんだ。カイル邸でだろう。また、ポート・ソレイユの爆弾魔の仕業だとか。大変な被害が出たそうだな」
「あぁ。だが、助かった奴が何人かいてな。そいつらがおかしなことを言ってたんだ」
「……おかしなこと?」
マンドランはすぐには答えなかった。廊下の両端を確かめてから、ヴァルのそばへ顔を寄せる。
「左右の目の色が違う少女を見たんだと」
「なに?」
ヴァルの目が見開かれた。
「俺の知る限り、この国でそんな珍しい目を持ってるのはイオン様くらいだ。それで少し気になってな。もしかして、勝手に外へ出たんじゃないかと思ったんだが――」
そこまで言ったところで、背後の扉が開いた。先ほどの侍女が姿を現し、二人を見るなり「きゃっ」と短い悲鳴をあげた。
「ヴァル様、マンドラン様。まだいらしたんですか?」
「悪い。驚かせたな」
そう言ってマンドランが扉を押さえると、侍女は「ありがとうございます」と頭を下げた。それから食器を載せたワゴンを押して部屋を出ると、二人の脇を抜けて廊下の方へ進んでいった。
「どうやら取り越し苦労だったみたいだな」
マンドランはその後ろ姿を見送りながら、ふっと笑った。
だが、ヴァルの表情は変わらなかった。ふいにはっとしたように顔を上げると、無言のまま駆け出した。そのままワゴンに追いつくなり、皿を覆う銀色の蓋に手をかける。
「あっ――」
侍女の声にも構わず、ヴァルは蓋を開けた。次の瞬間、その赤い瞳が大きく見開かれる。
「どうしたんだよ、突然」
横から皿をのぞき込んだマンドランも、眉をひそめた。
「……空っぽ?」
皿の上には何もなかった。食べかすどころか、何かを載せた形跡さえない。白い陶器の皿には、汚れひとつついていなかった。
「し、失礼します」
逃げるようにワゴンを押して立ち去ろうとする侍女の手首を、ヴァルがつかんだ。
「姫様は……どこだ」




