シーン34 帰らずの森②
低い唸り声が、あちこちから重なって聞こえてくる。
周囲を見回すと、前にも後ろにも、深紅の目がいくつも光っていた。どれも一定の距離を空け、逃げ道を塞ぐようにこちらを取り囲んでいる。
十……いや、もっといるか。それにしては、やけに静かだ。唸り声に混じって聞こえてくるのは、かさかさと葉の擦れる音だけだった。
やがて茂みが大きく揺れ、獣たちが次々と姿を現した。
どれも俺たちを見下ろすほどの巨体だ。白い毛はほとんど抜け落ち、黒い皮膚の下には盛り上がった筋肉が浮き出ている。巨大な牙の隙間からよだれを垂らし、深紅の目をぎらつかせていた。
じりじりと包囲を狭める群れに押されるように、俺とニコも少しずつ中央へ下がっていく。ところが、どういうわけかイオンがついてこない。
「イオン、何してる。こっちへ来い」
呼びかけても、俺を見ようともしない。群れの隙間から、奥の木々をじっと見つめている。
「ブラッドベア……」
ぽつりと、彼女が呟いた。
「何……?」
その視線を追って顔を上げ、息を呑む。
木々の向こうに、巨大な熊が立っていた。
頭は周囲の木々よりも高く、爪も牙も人間の身長ほどある。黒目はなく、眼球全体が真っ白だった。その異様な目が、じっとこちらへ向けられている。
さっきの熊と同じ、赤い体に黒い縞模様。
だが、でかさが全然違う。
まさか……あれで子供だったのか。
相当怒ってやがる。子供の仕返しに来たのか?
巨大な熊が低く唸ると、それまでこちらを囲んでいたデコイドッグたちが、一斉にそちらへ向き直った。牙を剥き、じりじりと距離を詰めながら、その巨体を取り囲んでいく。
それが気に障ったのか、熊は両腕を高く振り上げ、大きく咆哮した。
次の瞬間、その体から炎が噴き上がり、瞬く間に全身へ燃え広がった。足元の草木まで、ぱちぱちと音を立てて焼け始める。
燃える獣かよ。もう滅茶苦茶だ。
その異様な光景にもデコイドッグたちは退かない。しばらく睨み合いが続いたあと、一頭が地面を蹴り、真っ先にブラッドベアへ飛びかかった。
だが、巨大な前脚が横薙ぎに振るわれ、その体はあっけなく切り裂かれた。傷口に炎が燃え移り、悲鳴を上げながら地面を転げ回る。
それでも、数ならデコイドッグの方が上だ。激しい雄叫びを上げながら左右へ散り、ひるむことなく次々と巨体へ襲いかかっていく。
どっちが勝つんだ、これ――って、のんびり見てる場合か!
「逃げるぞ!」
俺の声を合図に、イオンとニコが一斉に駆け出した。そのあとを追い、張り出した枝をかわし、足元の根を飛び越えながら、木々の間をひたすら走る。
このまま相打ちにでもなってくれ――。
そう思った矢先、背後から凄まじい咆哮が響いた。
肩越しに振り返ると、ブラッドベアが木々をへし折りながら、こちらへ迫ってきている。
うそだろ……!
「もっと早く走れ!」
声を張り上げたものの、イオンはすでに息を切らしていた。足取りも目に見えて重くなっている。まずはどうにかしてイオンを先に逃がさないと。
少しずつ速度を落とすと、ニコもすぐ横まで下がってきた。
「どうした?」
「どうした、じゃないわよ。このままじゃ追いつかれるわよ!」
「分かってる。こうなったら、俺たちも囮作戦だ!」
「なにそれ!?」
「俺がイオンと先に行く。お前はここで奴を食い止める。どうだ、簡単だろ?」
しれっと言ってみる。
横を見ると、ニコは一瞬ぽかんとしていたが、すぐにはっと目を見開いた。
「……何でアタシが!」
「当然だろ。お前が奴を怒らせたんだから!」
「知らないわよ! 男のあんたがやりなさいよ!」
「何言ってんだ。この男女平等の時代に!」
言い争っている間にも、背後から響く地鳴りのような足音は、みるみる大きくなっていく。背中に届く熱気まで強くなってきた。
あの巨体で、なんて速さだ。
このままじゃ全滅だ。
仕方ない。ここは俺が囮になって――そう思った、そのときだった。
踏み出した足がつるりと滑った。
踏ん張る間もなく尻もちをつき、反射的に地面へ手をつく。掌に刺すような冷たさが伝わった。見ると、足元の地面が真っ白に凍りついていた。
これって、まさか……。
顔を上げると、少し先でニコがこちらに背を向けて立っていた。
「貴方の犠牲は忘れないわ」
やけに神妙な声が聞こえてきた。
……嫌な予感しかしない。
少しして、肩越しに振り返ってくる。俺と目が合うと、にっこりと笑いかけてきた。
「それじゃ!」
そう言うなり、ニコはくるりと前を向き、そのまま走り去っていく。
「おい、こら! ちょっと待て!」
思わず突っ込んだ直後、背中に焼けつくような熱気が押し寄せてきた。
……気のせい、気のせい。
うんうんと頷く。そんな俺のすぐ後ろから、グルルル……と低い唸り声が聞こえてくるのだった。
***
「どうしてバンさんを置いてきちゃったんですか!?」
茂みの陰まで逃げ込んだところで、イオンが息を切らしたまま詰め寄ってきた。
ニコは一瞬言葉に詰まったが、すぐに口を尖らせて顔を背けた。
「仕方ないでしょ。必死だったんだから」
「すぐ助けに行かないと!」
来た道へ戻ろうとするイオンの腕を、ニコは慌てて掴んだ。
「ば、ばか! あんな化け物相手に、どうやって助けるつもりよ」
「でも!」
「いい? あいつはアタシたちを助けるために、自らおとりになってくれたのよ。そんなあいつの覚悟を無駄にする気?」
イオンの腕から、ふっと力が抜けた。うつむいたまま、何も言わない。
どうやら、すっかり騙されているようだ。
我ながらなかなかの演技力だと満足しながら、ニコは大げさなほど神妙な顔を作り、イオンの肩にそっと手を置いた。
「気持ちは分かるわ。アタシだって、できることなら助けたかった。でも、もう遅いわ。きっと食べられてるに決まってる」
イオンの返事はなかった。不思議に思ってそっと顔を覗き込み、ぎょっとした。彼女の目には、今にもこぼれそうなほど涙が溜まっていた。
……やりすぎた。
ニコは視線を落とし、少し間を置いてから、努めて明るく言った。
「……さ、さぁ、ここは危険よ。今のうちに早く行きましょ。あいつの死を無駄にしないためにも――」
「勝手に殺すな」
この声、まさか――。
ニコは恐る恐る振り返る。
「ぎゃあっ! お、お化け!」
驚いてのけぞったところへ、ゴツン、とげんこつが落ちた。
「いったーい! 何するのよ!」
「何するのよ、じゃねぇよ! よくも囮にしやがったな!」
「何よ、そっちだって先にアタシを囮にしようとしたじゃない!」
「だからって転ばす奴があるか。危うく死にかけたんだぞ!」
「う、うるさい! そもそも何で無事なのよ!」
「……あの、囮って?」
不思議そうなイオンの声に、ニコはぎくりとした。
「な、何でもないのよ、イオン。さぁ、行きましょ」
それ以上聞かれてはまずいと、ニコは逃げるように茂みを抜けた。
「……え?」
思わず足が止まる。ほんの数歩先に、あの赤黒い巨体が立っていた。
真っ白な目に見据えられ、息が詰まる。次の瞬間、その口がゆっくりと開き、ずらりと並んだ巨大な牙が目に飛び込んできた。
「グオオオオオッ!」
「ひっ……!」
足から力が抜け、ニコはその場に尻もちをついた。反射的に目を閉じ、両腕で頭をかばったまま小さく身を縮める。
食われる……!
そう覚悟したものの、いつまで経っても噛みつかれる気配がない。
恐る恐る目を開ける。
ブラッドベアはすでにこちらを見ていなかった。バンに巨大な顎を撫でられながら、気持ちよさそうにグルルル……と喉を鳴らしている。
「……うそ、どうして……?」
バンがこちらを見て、にやりと笑った。
「さっきオーブで仲間にしたんだ。こいつはもう俺らを襲いやしない」
「……オーブ?」
呆然とブラッドベアを見上げていると、バンがこちらへ近づき、手を差し出してきた。何とかその手を取って立ち上がったものの、足元はまだおぼつかず、ふらりと体が揺れる。
「全く、勝手なことするからだぞ。ほら、ごめんなさいは?」
「ふ、ふん。嫌よ。アタシ、悪くないもん」
そう言い切った直後、いきなり体が勝手に前へ傾いた。
「えっ?」
元に戻そうとしても体が言うことを聞かず、そのままバンに向かって深々と頭を下げてしまう。
「な……何で?」
顔を上げると、バンが何かを確かめるようにじっとこちらを見ていた。
しばらくして、ゆっくりと片手を差し出してくる。
「……お手」
「はぁ!? 馬鹿にしないで!」
そう怒鳴ったそばから、右腕が勝手に持ち上がった。
「ちょっ……!」
止める間もなく、その手がバンの掌へちょこんと乗る。何故か尻尾まで勝手にぶんぶんと揺れ始めた。
慌てて手を引っ込め、自分の体をあちこち触ってみる。
「体が勝手に。ど、どうなってるの、これ?」
「……なるほどな」
「な、なるほどって?」
「恐らく獣人族だからだ。半分獣なせいで、お前にも多少なりとも効いちまうようだな」
理屈はよく分からない。だが、妙に嫌な予感がしてバンの顔を見る。
……何、その笑い方。
「それじゃあ、じっくりと囮にされた仕返しをさせてもらおうか」
そう言いながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「……な、なによ。何をさせる気? ……ち、ちょっと、近づかないでよ」
思わずじりじりと後ずさる。
バンがふいに足を止め、びしっと指を突きつけてきた。
「がに股でカニの真似しろ!」
「いやぁぁぁ!」
ニコの悲鳴が森中に響き渡った。




