シーン33 帰らずの森①
「見てください。あるき茸の列ですよ!」
弾んだ声に振り向くと、イオンが道端にしゃがみ込み、木の根元を指さしていた。その先では、親指ほどの赤白のキノコが一列になり、地面をちょこちょこと進んでいる。
ただ歩いているだけでも妙な光景なのに、蟻みたいにぞろぞろ連なっていると、さすがに気味が悪い。だが、イオンはそんなことなど気にした様子もなく、目を輝かせて眺めていた。
「イオン、また夜になっちまうぞ。そろそろ行こう」
声をかけると、彼女は名残惜しそうに腰を上げた。
宿屋を出た俺たちは、孤児院を目指して森の中を進んでいた。昨日のうちに戻るつもりが、色々あったせいで一日遅れてしまった。今頃、オビィたちも心配しているだろう。早く顔を見せてやらないと。
ただ、孤児院へ続くこの森は、簡単には抜けられそうになかった。
頭上では枝葉が複雑に絡み合い、昼間だというのに地面にはほとんど光が届かない。どこを見ても似たような木々と獣道ばかりで、少し気を抜けば、来た方向さえ分からなくなりそうだった。耳を澄ませると、遠くから鳥とも獣ともつかない不気味な鳴き声まで聞こえてきた。
「ちょっと、イオン……!」
突然、ニコが怯えた顔でイオンの頭を指さした。
何事かとその指先を追うと、先ほどのあるき茸が一匹、頭の上でくねくねと身を揺らしていた。当の本人は気づいていないらしく、きょとんとしている。
思わず笑いながらあるき茸を払ってやると、イオンは足元に落ちたそれを見て、ようやく事情を察したらしい。
「ありがとうございます」
そう言ってにこりと笑うと、また何かを見つけたのか、そのまま先へ駆けていってしまった。
やれやれ。聞いちゃいない。
その背中を見送っていると、隣から「うわ……キモッ」と声がした。
見ると、ニコが足元のあるき茸をじっと見下ろしていた。そいつが靴先まで近づくと、びくりと肩を揺らし、触れないよう慌てて片足を持ち上げる。
そこまでか? 一匹だけなら、別に気味が悪いとも思わないけどな。何なら焼いたら旨そうだ。
そんなことを考えている間に、あるき茸はニコの足元を抜け、木の根元へ向かっていく。だが、あと少しでたどり着くというところで、その真上の枝葉ががさりと大きく揺れた。
続けざまにどさりと重い音が響く。
「きゃっ!」
ニコの悲鳴につられて視線を落とすと、人間ほどもある巨大なナメクジが、ぬらぬらとした身体であるき茸をすっぽり覆っていた。
……食われたか。
巨大ナメクジは俺たちのことなど気にも留めず、その場でしばらくもぞもぞしていたが、やがてのそのそと木々の奥へ這っていった。
「な、何なのよ、この森……絶対、普通じゃないでしょ」
ニコは尻もちをついたまま、しばらく起き上がれずにいた。
確かに、さっきから出くわすのは妙な生き物ばかりで、人の姿なんて一度も見かけていない。
今朝、宿屋の店主から聞いた話も、あながち大げさではなさそうだ。
「ここ、帰らずの森っていうらしいぞ。危険な生き物だらけで、一度入ったら二度と帰れないなんて言われてるんだと」
「な、何よそれ! 聞いてない!」
抗議するニコの声に混じって、ばさばさと妙な羽音が近づいてきた。
「と、鳥……?」
ニコが恐る恐る顔を上げた瞬間、黒い影が鼻先すれすれを勢いよく横切った。
飛んでいたのは、鳥なんかじゃない。
手のひらほどもある巨大なゴキブリだ。黒光りする背には、真っ黒な羽毛に覆われた翼が生えていた。
「ひっ!」
ニコは反射的にマントを頭からすっぽり被ると、その場にうずくまってしまった。身体を小さく丸め、顔まで隠したまま、ぴくりとも動かない。
「何してるんだ。行くぞ」
「やだ……こんな気持ち悪い森、もう進みたくない」
「こんなところで立ち止まってる方が危ないだろ。イオンも見失っちまう。わがまま言ってないで、行くぞ」
そう言っても、立ち上がる気配はない。まったく、いつもの威勢はどこへ行ったんだ。
ため息を一つ吐き、マントをめくる。ニコは膝を抱えたまま、上目遣いでこちらを見てきた。
「しょうがないな。ほら。手、つないでやるから」
ニコは差し出した俺の手をじっと見つめ、恐る恐る指先を伸ばしてきた。だが、触れる寸前でぴたりと止める。
「何よ、偉そうに。気安く触らないでよね」
そう言って、ぱしっと俺の手を払いのける。
なんだよ、せっかく人が心配してやってるっていうのに。
「あぁ、そうかい。じゃあ、ここで暮らすんだな。俺は先に行くぞ」
そう吐き捨てて歩き出そうとすると、背中の服をぐいと引かれた。
何だと思って振り向くと、ニコが立ち上がって俺の服をつかんでいた。じとっと見つめてやると、ふん、とそっぽを向く。
まったく、いい性格してるぜ。
文句の一つも言ってやりたいが、また面倒なことになりそうだ。ここは黙っておこう。
先に行ってしまったイオンを追い、再び森の中を進んでいく。ニコも俺の服をつかんだまま、後ろからついてくる。
道脇の茂みが揺れるたび、背後で小さく息を呑む気配がして、服を引かれる。そんなことを繰り返しているうちに少しずつ距離が縮まり、しまいには背中に身体が触れるほど近くまで寄ってきた。
「おい、あまりくっつくな。歩きにくいだろ」
「ば、馬鹿言わないで。そっちが近づいてきてるんでしょ」
「はぁ? どうやってだよ。お前の方が後ろにいるのに」
「正論で返すとか、サイテー」
「……お前なぁ」
思わずため息が漏れる。
「何でいつもそうひねくれてるんだ。もっと素直に生きた方が楽だぞ」
「うるさい。アンタが意地悪するからでしょ」
そんな言い合いをしているうちに、前方にイオンの姿が見えてきた。
彼女は茂みの前で身を屈め、何かに見入っている。
「どうしたんだ?」
返事がない。
イオンの隣まで行き、茂みの向こうを覗き込むと、黒い縞の入った赤い熊と白い毛玉のような生き物が向かいあっていた。岩みたいにでかい熊を前に、両腕に収まりそうな白い毛玉は身を縮め、小刻みに震えている。
熊は牙を覗かせ、なおもじりじりと迫っていく。
どうやら、あの白いのを食うつもりらしい。
気の毒だが、自然の中じゃこんなことも珍しくない。下手に首を突っ込まない方がいいだろう。
そんなことを考えていると、イオンがすっと立ち上がった。
「助けないと」
「おい、待て!」
手を伸ばすより早く、茂みから飛び出していってしまった。
イオンは白い毛玉を背に両腕を広げ、熊の前に立ちはだかる。低い唸り声に肩をびくりと震わせながらも、どうにかその場に踏みとどまっている。
まったく、武器も持たずにあんなのに立ち向かうやつがあるか。
助けに出ようとしたところで、また後ろから服を引かれた。
「アタシに任せて」
ニコは勢いよく前へ出ると、熊へ片手を突き出した。青白いオーラがその手を包むと、周囲の冷気が集まり、いくつもの氷のつぶてとなって宙に浮かんだ。
次の瞬間、それらが一斉に熊めがけて飛び、その巨体をまともに捉えた。
「ギャンッ!」
熊は甲高い声を上げると、身を翻して茂みの奥へ逃げ去っていった。
その姿が見えなくなると、イオンは足元で震えていた白い毛玉をそっと抱き上げ、こちらへ戻ってきた。ニコに深々と頭を下げるその腕の中から、小さな耳がぴょこんと覗いている。
ただの毛玉かと思っていたが、よく見ると、ふわふわの白い毛に覆われた丸い身体に、ぱっちりとした瞳がついていた。ちょこんと突き出た尻尾も、小刻みに揺れている。
「何なんだ、こいつ。犬か?」
「デコイドッグの子供です。小さいうちは真っ白なんですが、大人になると毛がほとんど抜け落ちて、全身真っ黒になるんですよ」
「へえ、詳しいな」
「図鑑で見たことがあるんです。まさか、本物を見られるなんて」
「人懐こいんだな。ペットにできそうだ」
「とんでもないです」
イオンはすぐに首を横に振ると、表情を引き締めた。
「可愛いからって、油断しちゃだめです。デコイドッグはとても賢くて、子供を囮にするんです」
「囮?」
「はい。それを狙って近づいてきた獲物を、群れで取り囲んで襲うんですよ」
「は?」
思わず間の抜けた声が漏れた。イオンに抱かれているデコイドッグへ目をやると、「何のこと?」と言わんばかりに、こてんと首をかしげる。
「周り見て!」
ニコの鋭い声にはっと顔を上げた。
茂みの暗がりに、赤い点が一つ、また一つと浮かび上がった。




