シーン32 それぞれの朝
まぶた越しの眩しさに、ギースはゆっくりと目を開いた。何度かまばたきを繰り返すと、白い石造りの天井が視界に入る。薄いカーテンが風に揺れ、そのたびに差し込む光もかすかに揺らいでいた。
「起きたか」
傍らから聞こえた低い声に、ギースは顔を向けた。ベッドから少し離れた椅子に、ドリントンが深く腰掛けていた。
「ここはどこだ?」
「町の宿屋だ」
なぜここにいるのか思い出そうとしたが、何も浮かんでこない。そのまま身を起こした途端、腹に鋭い痛みが走った。それと同時に、昨夜の記憶が蘇ってくる。
「あの黒ローブはどうした。倒したのか」
ドリントンはわずかに首を横に振った。
「まさか。ぼろ負けだ。助かったのは俺らだけだ」
「あの野郎……」
腹の痛みをこらえながら、ギースは舌打ちした。
「いや、待て。ステラは無事だ。朝食に行ってる」
「朝食?」
ギースは壁に掛けられた時計へ目をやった。
「もうすぐ昼じゃねぇか」
「バイキングらしくてな。ぎりぎりまで粘るらしい」
「ったく、あいつは……」
呆れたように息を吐き、煙草をくわえて火をつける。窓の隙間から入ってきた風に、煙が細く揺れた。
「それで、社長には連絡したんだろ? 何て言ってた?」
「命令は同じだ。新たに二十人やるから、リオレスの姫君を捕らえてこいとのことだ」
「二十人か。ずいぶん気前がいいな」
「ああ。ただし、次に一人でも殺されたらクビだそうだ」
ギースは何も言わず、ゆっくりと煙を吐き出した。ドリントンはしばらくその顔をうかがい、返事がないことを確かめてから話を続けた。
「それともう一つ。ロベルタスをコケにした黒ローブを始末しろとのことだ」
「まったく、無茶言いやがる」
ギースは煙草の火を指先で揉み消した。
「モルとか言ったか。神族ってだけじゃ、説明がつかねぇ強さだった。あんな化け物、どうやって倒せっていうんだ」
「ああ。しかも、まだ力を残していそうだった」
「本当か。できれば、もう二度と会いたくねぇもんだぜ」
「……だが、やるんだろ?」
「当然だ」
その迷いのない返事に、ドリントンはわずかに口元を緩めた。
ギースは痛む腹をかばいながらベッドを降り、スーツの上着を羽織った。二本のダガーを内側の鞘へ収め、サングラスを頭に載せた。
「それじゃ、行くか」
「行くって、どこへ? リオレスの姫君を追うにも、手がかりがない」
「その心配はねぇ」
ギースは内ポケットから煙草の箱を取り出した。それを逆さにして軽く振ると、二、三個の小さな黒いキカイがテーブルへ転がり出た。
「何だ、それは?」
「発信機だ。狼にダガーを放ったとき、ついでに仕込んでおいた」
ドリントンはその一つをつまみ上げた。小指の爪ほどの大きさで、重さもほとんどない。
「さすがだな。狼っていうのは?」
「城で見ただろ。でかい銀白色の狼だ。そいつにお姫さんを奪われちまった。耳の中に仕込んだから、外れてはいねぇはずだ」
「それで、居場所はどこだ?」
「待ってろ」
ギースは頭に載せていたサングラスを目元へ下ろし、フレームの縁に触れた。レンズに地図が浮かび、発信機の位置を示す光点が現れた。
「こいつは驚いた……」
「どうした? 遠いのか?」
ギースはサングラスを少し持ち上げ、ドリントンへ顔を向けた。
「隣だ」
***
二人は隣室の扉を勢いよく押し開けた。
室内は静まり返り、人の気配はない。目につくような荷物はなく、ベッドもほとんど乱れていなかった。だが、発信機は確かにこの部屋を示している。
二人は手分けして室内を探した。ギースはベッドの下を覗き込み、クローゼットの扉を次々と開けていく。しかし、どこにも人影はない。
ギースが「ちっ」と舌打ちしたところで、浴室から低い声が飛んできた。
「こっちだ」
急いでそちらへ向かうと、ドリントンが見慣れない網を片手に提げていた。
「何だ、それは」
「漁に使う網みたいだ。それより、これを見ろ」
網目に見覚えのある小さな黒いキカイが絡まっていた。
「発信機……。どうやって外しやがった」
「それ以前に、あんなでかい狼がここへ入れるか?」
「確かにな。誰かが気づいて取ったのか? だが、何で壊さずに残した。罠か?」
二人が黙り込んでいると、客室の扉が開き、足音がこちらへ近づいてきた。ギースはすぐさまダガーを抜き、浴室の入口へ切っ先を向けた。
やがて姿を見せたのは、両手にパンを持ったステラだった。
「あーっ、こんなところにおった」
あまりにものんきな声に、ギースは構えていたダガーを下ろした。
「お前か。何の用だ」
「『何の用だ』やあらへんわ。なんで隣の部屋におるん。置いていかれたかと思ったやん」
ギースはわざとらしく眉をひそめた。
「馬鹿言え。大事な仲間を置いていくわけねぇだろうが」
「ほんまかいな。まあええわ」
ステラは手にしたパンを軽く掲げ、嬉しそうに続けた。
「それより、何か入れ物持っとらん? ここのパン、めっちゃうまいんやけど、もうさすがに限界でな。できるだけ詰めたろうかと思って」
ギースはあからさまに顔をしかめた。
「一般人に迷惑をかけるなと、いつも言ってるだろうが。ほかの客が食えなくなるだろ」
「心配いらんて。食堂に残ってた客は、もううちだけやったし」
「だとしても、宿の連中に迷惑だろうが」
「で、でも、食べ放題なんやで?」
ステラはなおも食い下がったが、ギースに鋭い視線を向けられ、気まずそうに目をそらした。ふてくされたようにパンをかじると、何気ない口調で言った。
「そういや、さっきリオレスのお姫さんに似た娘を見たで」
「どこで!」
突然の剣幕に、ステラはパンを喉に詰まらせかけた。慌てて飲み込み、涙目でギースを見返した。
「な、何や、いきなり。食堂へ行く途中や。貧相なおっさんと、獣みたいな耳をしたうるさいガキんちょと一緒におったで」
「獣みたいな耳……獣人族か」
ギースは網に絡んだ発信機へ目を落とした。しばらく見つめたあと、ふいに顔を上げた。
「そういうことか。あの狼が変身して、そのガキになったんだ。何で止めなかった」
「仕方ないやん。こんなところにおるとは思わんかったんや。でも、三人で孤児院に行くとか話しとったで」
「孤児院か。これで行き先が一気に絞られた。お前にしては上出来だ」
「『お前にしては』は余計や」
その抗議を聞き流し、ギースは踵を返した。
「仲間と合流する。すぐ出るぞ」
「えーっ。昨日は大変やったんやし、もう少しここでのんびりしようや。仲間をこっちに呼べばええやん」
「馬鹿野郎。掃除のおばちゃんに迷惑だろうが」
「……あんた、真面目やね」
ステラは納得のいかない様子で唇を尖らせた。
***
町を見下ろす高台に建つルミナスの仮屋敷。
銀白色の鎧をまとったオルカが、片手に釣り竿を持って廊下を歩いていた。長い栗色の髪を背中で揺らしながら、外へと続く扉へ近づいていく。
やがてその手が取っ手へ伸びたところで、背後から声がかかった。
「オルカ、どこへ行くのですか?」
振り返った先には、繊細な刺繍が施された部屋着に身を包んだ銀髪の青年が立っていた。
「ルミナス様。少し時間がありましたので、釣りへ行こうかと思いまして」
そう言うと、ルミナスは呆れたように息を吐いた。
「またですか。いくら暇だからといって、少し気が緩んでいるのではありませんか。一応、あなたたちは私の護衛なのですよ」
「も、申し訳ありません。釣りは取りやめます」
慌てて頭を下げるオルカを見て、ルミナスはふっと表情を和らげた。
「――なんて、冗談ですよ。私だけ外出できないので、少し意地悪をしたくなっただけです」
婚姻の儀を前にしたルミナスは、万一を案じた周囲から、式が終わるまで屋敷を出ないよう強く求められていた。その窮屈さに思い至ると、自分だけ自由に外へ出ようとしていたことが恥ずかしくなり、オルカはきりっと表情を引き締めた。
「いえ。私も今日はここにおります。何かございましたら、何なりとお申しつけください」
ルミナスは少し考え、穏やかに口を開いた。
「そうですか。それでは、さっそく一つお願いしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「この国の新鮮な魚を食べてみたいのです。よければ、釣ってきていただけませんか?」
オルカは目を瞬いた。だが、ルミナスの気遣いに気づくと、表情を和らげて深く頭を下げる。
「承知しました。お任せください」
そう答えて扉へ向き直った、そのときだった。不意に扉が開き、黒い布が目の前を横切った。
それを見たルミナスは、口元を緩める。
「おや、もう一人の優秀な護衛は朝帰りですか。今までどこへ行っていたのですか」
「……暇をつぶしておりました」
黒衣をまとった男――モルは、平然とそう答えた。




