シーン31 素直になれない夜
「疲れたな……」
水路の縁に腰掛けたまま、俺はぽつりと漏らした。
深夜のポート・ソレイユは、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。眼下では水が緩やかに流れ、道に沿って等間隔に並ぶ灯りが、暗い水面を淡く照らしている。
港でニコに気絶させられ、目を覚ました頃には、もう孤児院へ戻れるような時間ではなかった。仕方なく町の宿に泊まることにしたのだが、何軒回っても満室だった。
「まさか宿探しでこんなにてこずるとは。イオン、疲れてないか?」
隣へ目をやると、イオンはまぶたを半分閉じ、頭をかくん、かくんと揺らしていた。返事をするどころか、このまま座ったまま眠ってしまいそうだ。
城の外へほとんど出たことのないイオンにとって、今日は色々ありすぎた。疲れるのも当然だろう。
そのあどけない横顔を眺めていると、自然と頬が緩んでくる。
「誰もいない?」
ふいに背後から声をかけられた。振り返ると、建物の陰からニコがそっと顔を覗かせていた。
俺が頷いてやると、ニコは通りの左右を何度も確かめてから、小走りでこちらへやってきた。身体には、俺が港で見つけた漁網が何重にも巻かれている。どう見ても服とは呼べないが、素っ裸よりはましだろう。
俺たちの傍で身をかがめたニコは、まだ落ち着かないのか、辺りをきょろきょろと見回していた。
「警戒しすぎじゃないか? もう深夜だ。誰も通らないだろ」
「そんなの分からないじゃない。こんな姿、誰かに見られたらどうするのよ」
「別に見られたところでなぁ。ちんちくりんだし」
「何ですって!」
ニコが両手で俺の襟元につかみかかってきた。その拍子に、彼女の身体を覆っていた漁網がずり落ちかける。
思わず胸元へ目が向いた。こんなお子様体型だっていうのに、悲しい性だ。いや、待てよ。よく見れば、案外あるんじゃ――
「どこ見てるのよ、変態!」
胸をどんと突かれ、上体が水路の方へ大きく傾いた。尻が縁から半ばずり落ち、とっさに片手でニコの手首をつかむ。
「やめろ、落ちるだろ!」
「落ちればいいのよ!」
ニコは構わず、腕ごとぐいっと押し込んできた。俺の上体がじわじわと水面の上へ押し出されていく。
「わっ、ばか。やめ――」
そのときだった。
「見てください!」
突然の声に、二人そろって動きを止めた。騒ぎで目を覚ましたイオンが、水路の向こうを指さしている。
その指先を追うと、水路に架かる石橋の向こうに、白壁の建物が見えた。軒先にはベッドが描かれた看板が下がり、扉には「空室あり」の札が掛かっている。入口の灯りもまだついていた。
「でかした、イオン! これで野宿せずに済むな」
そう言うと、イオンはふんす、と鼻を鳴らし、得意げに頷いた。
「やったー! バンさん、サイコー!」
俺は喜びを抑えきれず、今度はニコの声を真似しながら、つかんだままの手首を勢いよく持ち上げた。ところが、ニコはふっと目を伏せると、すぐに俺の手を振りほどいてしまった。
「アタシはいい……」
おいおい、ここまで来てそれはないだろ。まさか、さっきのことを根に持っているのか? だとしても、いつまでもここで揉めているわけにはいかない。
「その格好が気になるのか? よく見れば服に見えなくもないぞ。いや、むしろおしゃれだ」
「……お金もないし」
「心配すんな。闘技場で稼いだ金がある。カイルの屋敷で助けてもらった礼だ。俺が出してやる」
それでも、ニコは耳を伏せ、漁網の端を握りしめたまま顔を上げない。
何だってんだ。俺だって、もうへとへとだ。今すぐベッドに倒れ込みたいってのに。
もう放っておいて、先に行ってしまおうか。
そんな考えが頭をよぎったところで、ニコがぽつりと言った。
「……獣人族だし」
その声は、これまで聞いたことがないほど弱々しかった。
なるほど、そういうことか。
獣人族は人間にも神族にも嫌われていると、カイルが言っていたな。この町の宿では、泊めてもらえないと思っているのだろう。
まったく、こんなときだけ急にしおらしくなりやがって。いつものように突っかかってきてくれれば、こっちも気を遣わずに済んだのに。
さて、何と声をかけるべきか。
頭をひねっていると、何を思ったのか、イオンがニコに顔を近づけ、鼻をすんすんと鳴らし始めた。
「大丈夫ですよ。今は動物みたいな臭いはしません」
そう言って、安心させるように笑いかける。
また始まった。問題は臭いじゃないだろ。
案の定、ニコの表情はこわばり、口元も引きつってしまった。
「でも、お魚用の網を巻いているので、少し生臭――」
「よし!」
これ以上はいけない。俺は慌ててイオンの言葉を遮った。
「俺が泊めてもらえるよう話をつけてくる。部屋の一つくらい、どうにかできるさ」
「どうにかって……きっと無理よ」
「大丈夫だ。俺に任せろ。いや、まかセロリ!」
「セロリ……」
不安そうにつぶやくニコをイオンに任せ、俺は橋の先にある宿屋へ向かった。
***
「はあ、さっぱりした」
濡れた髪をタオルで拭きながら、部屋へ戻った。
室内にはベッドとソファー、小さなテーブルと椅子があるだけだった。質素な造りではあったが、風呂とトイレもついている。俺にはこれで十分だった。
「次、いいぞ――って、あれ? 寝ちゃったのか」
ベッドでは、イオンが静かな寝息を立てていた。
よほど疲れていたのだろう。部屋に入るなりベッドへ腰を下ろしたが、どうやらそのまま眠ってしまったらしい。
そのそばでは、ニコがベッドを背にして、膝を抱えたまま床に座っていた。
「どうした? そんなところで。まだ寝ないのか?」
「別にいいでしょ」
そっけなく返され、思わず眉をひそめる。
まったく、こいつは。どうしてこんなにつんけんしてるんだ。せっかく三人で泊まれるようにしてやったっていうのに。
「何が気に入らないんだよ。相部屋だからか? 仕方ないだろ。一部屋しか空いてなかったんだから」
そう言うと、ニコはしばらく黙り込んだあと、俯いたままぽつりと言った。
「……嘘つき」
「えっ?」
「知ってるのよ。アタシを泊めるために、五倍の宿代を払ったんでしょ。そのせいで、もう一部屋借りるお金が残らなかった」
「な、なぜそれを……」
思わず一歩後ずさる。
「ここに入る前、店主に言われたの。『どうしてもって金を積まれたから仕方なく泊めてやるが、変な真似はするな』って。何が『まかセロリ』よ。ばっかみたい」
ニコは呆れたように息を吐いた。
くそっ、あの店主め。黙っておけって言ったのに。あれだけ格好をつけておきながら、結局は金で解決したなんてダサすぎる。
どう取り繕おうか考えていると、俯いていたニコがぽつりと呟いた。
「……ありがとう」
驚いて顔を向ける。
「今、ありがとうって言ったか?」
「言うわけないでしょ」
ニコは慌てたようにふんと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「いや、言ったよな。ありがとうって」
「言ってない」
「言っただろ。なあ、言ったよな?」
ニコの肩に手を置き、横から顔を覗き込む。
「なあ?」
「うるさい!」
ニコは俺の手を勢いよく払いのけた。その声が思いのほか大きかったのか、ベッドの上でイオンが「うぅん……」と小さく身じろぎした。
慌てて動きを止め、眠るイオンへ目を向けた。幸い、起きる気配はない。わずかに乱れた寝息が穏やかになると、ニコと顔を見合わせ、ほっと息をついた。
しばらく様子を見守ってから、俺は声を落としてニコへ尋ねた。
「なあ。どうしてイオンを攫ったんだ?」
意表を突かれたのか、ニコは目を見開いた。
「たまたま城にいたってわけじゃないだろ。あの蜘蛛男とグルのはずだ。イオンを攫うため、あの夜、潜り込んでいたんじゃないのか?」
ニコはしばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。
「……依頼だったのよ」
「依頼?」
「そう。アタシたちは運び屋なの。普通の荷物だけじゃないわ。ときには武器や危ない薬みたいな、人目についちゃまずいものも扱う。依頼さえ受ければ、何だって運ぶの。それが、たとえ一国のお姫様でもね」
「はあ、なるほどな。まあ、そんなことだろうとは思ってたけど。お前、そこまで悪い奴には見えないしな」
「……馬鹿ね。やってることは十分悪いでしょ」
「それで、依頼主は?」
そう尋ねた途端、ニコの尻尾がぴんと立った。
「そ、そんなの言えるわけないじゃない!」
「なんで?」
「守秘義務ってものがあるの。だから絶対に言えない」
「心配するな。俺は記憶喪失だし、聞いたところで誰のことか分からない」
「……それでも絶対ダメ!」
「教えないと、くすぐるぞ」
俺は手を前に出し、指先を小刻みに動かしてみせた。
「はっ? 触ったら殺すわよ」
ニコは身を引き、鋭く睨みつけてきた。俺も俺で、伸ばした手を引かなかった。互いに一歩も譲らないまま、しばらくにらみ合いが続く。
そのときだった。
窓枠がみしりと鳴った。次の瞬間、床が揺れ、テーブルや椅子がガタガタと音を立て始める。
見上げると、天井から下がる灯りが左右に大きく揺れていた。ニコは俺の袖をつかみ、不安そうに辺りを見回している。
外へ出た方がいいか? そう考えた矢先、揺れは収まった。
「地震……かな」
ニコが、これまでとは打って変わった頼りない声でつぶやいた。
「さあ、どうだろうな。それにしては、ずいぶん早く収まったな」
「心配しなくても、大丈夫ですよ」
不意に聞こえた眠たげな声に、俺たちは振り返った。
先ほどの揺れで目を覚ましたイオンが、ベッドの上で身を起こしていた。
「たまにあるんですけど、いつもすぐに収まります」
「へえ、そうなのか」
「はい。でも、最近は少し多いですね。こんな夜遅くに起きることなんて、めったになかったのに……」
そう言うと、イオンは再びうつらうつらし始めた。その様子に、思わず笑みがこぼれる。
「もう寝るか」
「はい」
イオンはベッドの奥へ身体をずらし、布団の端を持ち上げた。その隣へ入ろうとすると、ニコが慌てて声を上げる。
「ち、ちょっと、イオン。いいの?」
「何がですか?」
「何がって、こんな男と一緒に寝るなんて」
「えっ? その方が安心じゃないですか」
イオンはにこりと笑った。
「どこがよ。こんなケダモノ、何をするか分からないわよ」
「バンさんは良い人ですから、そんなことしませんよ」
イオンは当然のように言い切った。
ありがたい話だが、そこまで信じられると、逆に手を出しづらくなるな。まあ、今は眠すぎて、余計なことを考える気にもなれない。
「そうそう。俺は良い人だからな。揺れが怖いんなら、お前も一緒に寝ていいぞ」
そう言って、あくびをしながらベッドへ潜り込む。
「怖いわけないでしょ! 子ども扱いしないで!」
ニコはそう言い放つと、ソファーに寝転がり、こちらに背を向けてしまった。
やれやれ。
小さく笑って布団をかぶる。目を閉じると、疲れもあってか、ほどなく意識が遠のいていった。
***
翌朝、腕をくすぐるふさふさとした毛の感触で目を覚ました。
何だと思って布団の中を覗くと、なぜかニコが潜り込んでいた。驚いて声を上げた途端、飛び起きたニコに理不尽にも顔を引っかかれたのは、言うまでもない。




