シーン30 月明かりの下で
「うおっ、高いな」
白狼の背から地上を覗き込んだ途端、思わず声が漏れた。
細い線にしか見えない水路の周りに、米粒ほどの家々が並んでいる。夜もだいぶ更けているため、明かりのついた家はほとんどなかった。
地上近くをこんな姿で駆ければ目立つしな。まあ、ここまで高く上がらなくてもいい気はするが。
それにしても驚いた。ニコの正体が、城で会ったあの白狼だったとは。獣人族っていうのは、こんなふうに変身できるんだな。俺にキカイ石を持ってこさせたのは、そのためのエネルギーが必要だったってところか。
まったく、それならそうと先に言ってほしいもんだ。
呆れ半分に白狼へ目をやる。間近で見るその姿は、やはり神々しかった。琥珀色の瞳は月明かりを受けて輝き、銀白色の毛並みも淡くきらめいている。
白狼は前方へ青白い冷気を吐き、空中に細い氷の道を作っていく。次々と伸びるその道を勢いよく駆けると、涼しい風が頬を撫で、先ほどまでの騒ぎで火照った身体をほどよく冷ましてくれた。
そのとき、腕の中で小さな声がした。
「うぅん……」
抱きかかえていたイオンが、もぞもぞと動き始める。
「お、起きたか」
声をかけてみたものの、まだ意識がはっきりしていないのか返事はない。落ちないよう、腰に回した腕に力を込めた。
イオンは寝ぼけたように俺の腕へ目を落とし、そのまま目をこすって前を向いた。そこで初めて白狼に気づいたのか、「きゃあ!」と悲鳴を上げ、腕から逃れようと激しく身をよじる。
このままじゃ落ちる。
「おい、落ち着け! 下見ろ、下!」
言われるまま眼下へ目を向けたイオンは、「ひっ……」と引きつった声を漏らした。たちまち大人しくなり、両手で俺の腕にしがみついてくる。
その拍子に、彼女の胸の膨らみが俺の腕へ押しつけられた。
……柔らかい。
思わず口元が緩み、俺はそれを隠すように咳払いした。
「も、もっとしっかりつかまってもいいぞ。落ちちゃうからな」
言い終えた直後、白狼が突然がくんと身を沈め、身体がふわりと浮き上がった。
「あ、危ねぇ!」
振り落とされないよう、白狼の背にまたがったまま両脚に力を込める。
「な、何してる、ニコ!」
前方へ目をやると、白狼がちらりとこちらを振り返った。その眼差しはひどく冷たい。そのままふいと前を向いたところを見ると、さっきの言葉はしっかり聞こえていたらしい。
振り落とされてはかなわない。白狼への文句はひとまず飲み込み、イオンへ目を向けた。
「大丈夫だったか?」
ところが、イオンは返事もせず、不思議そうに前方を見つめていた。
「……今、ニコって」
「ああ、そういえばイオンは気絶してたんだったな。この白狼、ニコなんだ。キカイ石の力で変身した姿だ」
「変身……」
イオンは小さく呟いた。まだ事情を理解しきれていないようだ。
「あのにせ眼鏡野郎の屋敷から逃げ出すときに、いろいろあってな。詳しくは後で話す。今はそれより、上を見てみな」
「上、ですか?」
意図が分からないのか、わずかに眉を寄せながら空を仰ぐ。その直後、イオンは息を呑んだ。
「綺麗……」
見上げた先には、空を埋め尽くすほどの星々が広がっていた。周囲には何もなく、どこまでも夜空が続いている。ただ、世界樹だけは俺たちよりも遥か高くそびえ、枝葉を頭上いっぱいに広げていた。その隙間から、無数の星が静かに瞬いている。
イオンはしばらく声もなく、その光景を見上げ続けていた。淡い光が柔らかな金髪を照らし、左右で色の異なる瞳にも星々が映り込んでいる。
気づけば、俺は夜空よりも彼女の横顔に見入っていた。その目はやはり綺麗で、カイルが欲しがったのもうなずける。
特に右の淡い緑色の瞳は、宝石のように輝いて―って、あれ? 本当に光ってないか?
確かめようとさらに顔を近づけたところで、イオンが静かに口を開いた。
「ありがとうございました」
「ん? 何が?」
「バンさんたちが、私を助けてくれたんですよね」
「ああ、そのことか」
確かに大変だった。まさかカイルの奴が悪人だったとは思わなかったし、俺たち全員が拘束されたときには、どうなることかと思った。おまけに、ギースとかいう城で会った妙な男まで現れる始末だ。
この俺の活躍がなければ、どうなっていたことか――。
って、あれ?
俺、何かしたっけ?
カイルを倒したのはギースだし、そのギースから逃げ切れたのは白狼のおかげだよな。俺がやったことといえば、キカイ石をニコのもとへ運んだくらいしかない。
……まずい。全然活躍してない。
そのまま何も言えずにいると、イオンが怪訝そうに首を傾げた。
「……バンさん?」
「い、いや、何でもないんだ。気にするな。俺の手にかかれば、あんな奴ら朝飯前――」
言い切るより早く、白狼が再びがくんと身を沈めた。身体が浮きかけ、慌ててイオンを支え直す。
嘘をつくな、ってことか。
「悪かったって。分かったから、やめてくれ」
なだめるように声をかけたが、今度は白狼の足取りが乱れ始めた。
「お、おい、何してる。やめろって」
様子を窺うが、怒っているようには見えない。先ほどまでの冷ややかさは消え、琥珀色の目には明らかな焦りが浮かんでいる。息遣いもわずかに荒くなっていた。
「どうした?」
問いかけた直後、白狼は氷の道を蹴って急降下した。右へ左へ大きく曲がりながら、猛スピードで駆け下りていく。激しく揺さぶられたイオンが「きゃあ!」と悲鳴を上げる。俺は振り落とされないよう、抱く腕に力を込めた。
一気に高度を落としたところで、降下の勢いがわずかに緩んだ。激しい揺れの合間に横を見ると、見覚えのある巨大な船が視界に入る。
港だ。今朝立ち寄った場所に間違いない。ただ、今は人影がまったく見当たらない。
白狼は桟橋脇の石畳へふわりと着地すると、間を置かず激しく身体を振り、俺たちを振り落とした。
「うおっ!」
俺とイオンは石畳へ放り出され、そのまま勢いよく転がった。
白狼はこちらを振り返りもせず、息を荒らげたまま、積み上げられた木製のコンテナの陰へ走り去っていく。隣を見るとイオンは尻をさすっていたが、怪我はなさそうだった。
俺はともかくイオンまで振り落とすなんて、どう考えても様子がおかしい。すぐに立ち上がり、白狼のあとを追った。
大きなコンテナを回り込む。だが、そこに白狼の姿はなかった。代わりに、小柄な人影がこちらに背を向けてしゃがみ込んでいる。船の帆が月明かりを遮り、その姿は暗がりに沈んでいた。
「ニ、ニコ?」
呼びかけると、その影が肩越しに振り返った。その瞬間、風を受けた帆がばさりとはためき、遮られていた月明かりが小柄な身体を照らし出す。
俺はその場で固まった。
裸だ……。
白い背中と肩を隠すように、水色の髪が垂れている。ふさふさとした尻尾はぴんと逆立ち、琥珀色の目も真ん丸に見開かれていた。
ど、どういうことだ? なんで何も着てないんだ?
確かに変身したとき、服は破れていた。だが、こういうのは普通、元の姿に戻れば服まで元通りになるもんじゃないのか?
目の前の光景を理解できずにいると、ニコの肩がわなわなと震え始めた。
まずい。
そう思ったときには、もう手遅れだった。
「きゃあああっ!」
悲鳴と同時に、いくつもの氷の塊が飛んでくる。
その一つを脳天にまともに受けた瞬間、俺の意識は深い闇へと落ちていった。




