シーン27 怒り
外灯の淡い光が、襟首をつかまれた男の亡骸を照らしていた。ひしゃげた頭部から流れた血が首筋を伝い、ぽたり、ぽたりと石畳へ落ちている。
ガロンはその亡骸を一瞥してから、黒衣の男へ視線を戻した。深くかぶったフードの奥では、頬に刻まれた紫色の紋章が、闇に浮かぶようにぼんやりと光っている。身じろぎひとつしない姿からは、生きた者の気配がまるで感じられない。
その異様さに気圧されたのを悟られまいと、ガロンは口元を緩め、ことさら気安い調子で呼びかけた。
「よぉ。確か、モルとか言ったな。その紋章……お前、神族だったのか」
モルは何も答えない。フードの奥に浮かぶ白い目だけが、こちらをじっと見据えていた。
「侵入者を殺ったのか。なかなかやるじゃねぇか。だが、そいつは爆弾魔じゃねぇぞ」
再び声をかけると、モルは無言のまま男の襟首から手を離した。支えを失った身体が石畳へ崩れ落ち、鈍い音を立てる。ようやく話が通じた――そう思い、ガロンはわずかに息を吐いた。
「そこを退いてくれねぇか。俺たちゃ、リオレスのお姫さんに用があるんでな」
ところが、モルはその場から動こうとしなかった。まるで聞こえていないかのように、鋭い爪の生えた手のひらをゆっくりと返し、そこについた血を眺めている。
ガロンの口元から作り笑いが消え、眉間に皺が寄った。
「……おい。聞こえてんのか? そこを退けって言ってんだ」
それでも返事はない。しびれを切らしたガロンは、奥歯を噛みしめ、近くにいた手下へ顎をしゃくった。
「……退いてもらえ」
蟻の魔族は頷くと、腰からナイフを引き抜き、切っ先をモルへ向けた。腰を落としたまま、石畳を擦るような足取りでじりじりと間合いを詰めていく。
モルは、逃げるどころか迎え撃つ構えすら見せない。その無防備な姿を前に、魔族は「ギィッ!」と甲高く鳴き、地面を蹴った。一気に踏み込み、頭上から刃を振り下ろす。
だが、それがモルへ届く寸前――ナイフが消えた。
振り下ろした腕が勢いのまま空を切り、魔族の身体が大きく前へつんのめる。
「ギッ……?」
魔族が困惑の声を漏らした直後、腹に鋭い衝撃が走った。視線を落とすと、今しがたまで握っていたナイフが深々と突き立ち、その先にはモルの手があった。
次の瞬間、刃が引き抜かれ、裂けた傷口から緑色の血がどっとあふれ出す。よろめきながら腹を押さえるが、血は指の隙間から止めどなくこぼれていく。
やがて魔族は「ギ、ギィ……」とかすかな声を漏らし、前のめりに石畳へ崩れ落ちると、そのまま動かなくなった。
「なっ……!?」
ガロンは目を見開き、声を張り上げた。
「てめぇ……何しやがる!」
「姫君に仇なす者を、見過ごすわけにはいかぬ」
モルは静かに答えた。
「ふざけんな! てめぇにゃ関係ねぇだろうが!」
「そうとも言えぬ」
それきり口を閉ざすと、モルは血に濡れたナイフを手放し、その手を足元へかざした。
途端に、地の底から低く軋む音が響いた。足元に一本の亀裂が走り、敷石が下から押し上げられていく。やがて、開いた隙間を押し広げるように、土にまみれた黒い杖がゆっくりと姿を現した。
モルはせり上がってきた杖の柄を掴むと、その先端をガロンへ向けた。
「屋敷へ戻れ。さもなくば、死んでもらう」
その瞬間、ガロンのこめかみに太い血管が浮き上がった。
「死ぬのはてめぇだ!」
そう叫ぶなり、片手を高く振り上げる。それを合図に、蟻の魔族たちが甲高い鳴き声を上げ、一斉にモルへ向かって駆け出した。
迫り来る群れを前に、モルは黒い杖をゆるやかに持ち上げた。ローブの周囲で揺らめいていた紫色のオーラが吸い寄せられるように杖へ流れ込み、ぼんやりと光を帯びていく。
そして、魔族たちが目前まで迫った瞬間――杖が地面へ振り下ろされた。
ズンッ――!
腹の底を揺さぶる地響きが、庭一帯へ広がった。石畳が一瞬で砕け、敷石と土が激しく噴き上がる。同時に、凄まじい衝撃が辺りを薙ぎ払い、ガロンの巨体を宙へ弾き飛ばした。
「ぐわっ!」
高く弧を描き、背中から芝生へ叩きつけられたガロンは、土と草を巻き上げながら二度、三度と転がり、ようやく止まった。
「げほっ、げほっ……な、何だ……?」
芝生へ手をつき、どうにか上体を起こす。そのまま土煙の向こうへ目を向けた途端、喉の奥から「ひっ……」と引きつった声が漏れた。
庭の地面は、石畳もろとも深く陥没していた。その底では、蟻の魔族たちが地面との境も分からないほど薄く押し潰されている。砕けた甲殻も肉も、割れた敷石やえぐれた土にべったりと張りつき、緑色の血が辺りに飛び散っていた。
モルは、光を失った杖を地面に下ろすと、フードの奥からガロンを見据えた。
「貴様はどうする?」
静かな問いかけに、ガロンの肩が大きく跳ねた。
「ひ、ひえええっ!」
尻もちをついたまま両手で芝生をかき、必死に後ずさる。
何度も体勢を崩しながらどうにか立ち上がると、一目散に逃げ出した。玄関扉の前に立つ二人の男の脇をすり抜け、一度も振り返ることなく屋敷の中へ消えていく。
その姿を最後まで見届けると、モルの口元に薄い笑みが浮かんだ。
「賢明な男よ」
そう呟くと、杖を持ち直し、今度はその場に残る二人へ目を向けた。
戦う構えを取るでもなく、かといって逃げ出す素振りも見せない。ただ静かに佇む姿に、モルはわずかに首を傾けた。
「どうした。貴様らも戻れ」
返事はなかった。
細身のスーツ姿の男は懐から煙草を抜き取り、口にくわえた。銀色のライターを取り出し、親指で蓋を弾く。
キン、と澄んだ音が、静まり返った庭に響いた。
次いで煙草に火をつけ、ひと息深く吸い込む。ゆっくりと煙を吐きながら、正門前に横たわる頭部の潰れた男へ視線を向けた。
じっと亡骸を見つめる目の奥には、底の見えない冷たさが沈んでいた。




