シーン26 黒衣の男
ニコの奴、変身できたのか。
この姿には見覚えがある。城から逃げ出したあの夜、蜘蛛男と一緒にいた奴だ。初めて会ったときから俺を知っているようだったのも、これで腑に落ちた。
そのまま白狼の姿をまじまじと見ていると、ふいにその巨体が沈み、こちらへ飛びかかってきた。
「うおっ!?」
避ける間もなく牙が迫り、反射的に目を閉じる。直後、直後、ぶちぶちっと縄の切れる音が響き、手足を縛っていた力がふっと緩んだ。
どうやら、食おうとしたわけではなかったらしい。
「助けるつもりなら、せめて合図くらいしろよ。脅かせやがって」
鼓動の収まらない胸を押さえながら睨むと、白狼は悪びれもせず「ガウ」と鳴き、琥珀色の目をいたずらっぽく細めた。
変身すると喋れなくなるのか。それでも、俺のことはちゃんと覚えているらしい。これからは下手に怒らせない方がよさそうだな。
自由になった手足を軽く動かしながら立ち上がり、こわばっていた体を大きく伸ばす。すると目の前の巨体は俺に横腹を向け、乗れと言わんばかりに身をかがめた。
そうだった。今はのんびりしている場合じゃない。早くイオンを助けに行かないと。
大きな背によじ登り、銀白色の毛をしっかりとつかむ。俺が体勢を整えると、白狼は天井を仰いで口を開いた。
直後、轟く咆哮とともに白い衝撃波が放たれた。
天井は一瞬で凍りつき、上方へ粉々に吹き飛んだ。その破片が落ちてくるより早く、白狼は床を蹴り、開いた大穴を抜けて一階の廊下へ躍り出た。
イオンはどこだ。
周囲へ目を走らせると、廊下のはるか先に人影が見えた。
「いた!」
気を失ったイオンが、壁にもたれかかっていた。そのすぐそばでは、ギースが両手にダガーを握り、腰を落として身構えている。
だが、白狼はそんなギースに目もくれず、イオンへ向かって駆け出した。
その直後、二本のダガーが同時に放たれた。互いに絡み合って螺旋を描く刃は、バチバチと青白い閃光を散らしながら、みるみる速度を上げて迫ってくる。
「おい、避けろ!」
俺が叫んでも、白狼は少しも速度を緩めない。
やられる――そう思った瞬間、白狼がわずかに首を振った。大きく開いた口から、凍てつく咆哮波が放たれる。
二本のダガーが、真正面から呑み込まれた。
刃は激しい電光を散らしながら、一気に押し戻される。なおも勢いを失わない白い暴風は、イオンの脇を抜け、ギースをまともに捉えた。
その体は廊下の奥まで吹き飛ばされ、背中から壁へ激突した。鈍い音とともに、そのまま壁際へ崩れ落ちる。
それを確かめた白狼はようやく速度を落とし、イオンの前で足を止めた。ふっと白い息を吐くと、背中の俺を振り返り、急かすように「ガウ」と鳴いた。
「ああ、分かってる!」
銀白色の毛をつかんで背から下り、イオンのそばに膝をつく。息があることを確かめてから、その体を抱き上げ、白狼の背へ横たえた。
「よし。これでひとまず安心だ」
肩の力を抜いた、そのときだった。廊下の奥から低い声が聞こえてきた。
「てめぇら……」
ギースが壁に手をつき、よろめきながら身を起こした。乱れた髪の隙間から覗く鋭い眼光が、こちらを射抜いている。
まだ動けたのか。だが、今は相手をしている暇はない。
「悪いな。続きはまた今度だ」
再び背によじ登り、横たえたイオンを腕で支える。
「行くぞ!」
首筋を軽く叩くと、白狼は横手の窓へ顔を向け、低く身を沈めた。次の瞬間、床を蹴った巨体が窓を突き破り、砕け散るガラスとともに庭へ飛び出した。
涼しい風が頬をなでる。夜はすっかり更けており、世界樹の枝葉が揺れるたび、その隙間から覗く星々がちらちらと瞬いていた。私兵が待ち構えていないか周囲に目を凝らしたが、人影はどこにもない。
「待ちやがれ!」
背後からギースの怒声が飛んでくる。
「おい、何をもたもたしてるんだ!?」
思わず声を上げると、白狼はむっとした表情を浮かべた。だが、すぐに前へ向き直り、上空へ白く細い息を吐いた。たちまちその先に、氷の道が生まれる。
白狼はその上へ降り立つと、さらに前方へ道を伸ばしながら、夜空へ駆け上がっていった。
眼下の庭も屋敷はみるみる小さくなっていく。背後ではギースがなおも何か喚いていたが、その声も次第に遠のき、やがて夜風に紛れて聞こえなくなった。
***
「くそっ」
ギースは窓辺に手をつき、空中を駆け上がっていく白狼を睨みつけた。すぐさま耳元へ手を当て、屋敷の周囲に配置していた部下へ通信を飛ばす。
「おい、お前ら。ターゲットに逃げられた。西の空だ。すぐに追え」
しかし、応答はない。もう一度呼びかけても、返ってくるのは沈黙だけだった。
「……あの役立たずども、何してやがる」
舌打ちしてその場を離れ、騒ぎの聞こえる方へ駆ける。大きな木の扉を押し開けると、激しい喧騒が耳に飛び込んできた。
そこは玄関ホールだった。
その中央で、ドリントンとガロンが殴り合っていた。拳がぶつかるたびに大理石の床が震え、二人を取り囲む蟻の魔族たちから歓声が湧き上がる。
周りには砕けた木片や石片が散乱し、さらに壁際には大勢の私兵が倒れていた。
これのどこが潜入なんだ。
「おい!」
声を張り上げても、誰一人として振り向かない。殴り合いも歓声も、まるで止む気配がなかった。
「馬鹿が……」
苛立ち任せに一本のダガーを天井へ放つ。天井近くまで上がった刃は、切っ先を下に向けてぴたりと静止した。
次の瞬間――
ピシャァン!
まばゆい閃光とともに青白い雷が落ち、玄関ホールを揺らした。
その瞬間、喧騒がぴたりと止んだ。殴り合っていた二人も、取り囲んでいた蟻の魔族たちも、その姿勢のまま固まる。
一拍遅れて、ドリントンがギースへ顔を向けた。割れたサングラスの奥で、わずかに目を見開く。
「ギースか。どうしてここにいる。リオレスの姫は見つかったのか?」
「見つけたよ。たった今、逃げられたところだ」
ギースは荒れたホールを見回し、顎で出口を示した。
「遊んでねぇで、さっさと追うぞ」
「分かった」
ドリントンは短く答え、何事もなかったかのように出口へ向き直る。だが、背後から伸びたガロンの手が、その肩をつかんだ。
「待ちな。まだ決着はついてねぇぞ」
「……悪いが、時間切れだ。続きはまた今度にしよう。今日は俺の勝ちってことでな」
「勝手に決めてんじゃねぇ! どう見ても俺が押してただろうが!」
「つまらない冗談だな。センスのない奴だ」
ドリントンはやれやれとばかりに小さく息を吐き、肩にかかった腕を払いのけた。そのまま振り返り、再び拳を構える。
「面白ぇ。第二ラウンドと行こうか」
ガロンもにやりと笑い、腰を落とした。
その瞬間――
再び青白い雷が落ちた。
大理石の床が黒く焦げ、焼けた匂いが辺りに広がる。
「遊んでる場合じゃねぇって、今言ったばかりだろうが……」
呆れた視線を向けられたドリントンは、悪びれる様子もなく、親指で隣を示した。
「すまん。こいつが負けを認めないんでな」
「あぁ!?」
怒声を上げたガロンが、ドリントンの胸倉につかみかかる。ギースは深いため息をつき、なだめるように片手を上げた。
「分かった、分かった。だったらこうしよう。先にリオレスの姫を捕まえた方が勝ちだ。それでどうだ?」
その提案を聞くなり、怒りに歪んでいた顔に、獰猛な笑みが浮かぶ。
「ほう。そいつは面白ぇな。ただし、一つ条件がある」
「何だ?」
「姫は勝った奴のもんだ。負けた方は手出し無用。それなら乗ってやる」
「もちろん、いいぜ」
「なら、決まりだ」
そう言うと、ガロンは仲間たちへ向き直り、高々と拳を突き上げた。
「行くぞ、てめぇら!」
それを合図に、魔族たちは一斉にかけ出した。ところが、我先にと扉へ殺到したため、入口はたちまち蟻の群れで埋まってしまう。「何してやがる!」と怒鳴るガロン。きいきいと声を上げる蟻の魔族。互いを押しのけ、ひとしきり揉み合った末、ようやく外へなだれ出ていった。
その有様に、ギースは頭を抱えた。
「あんなアホども相手に、何を手間取ってやがる。ブラスターは壊れちまったのか?」
「いや、使ってないだけだ。奴には筋肉の素晴らしさを分からせる必要があったんでな」
「筋肉?」
ドリントンは何も答えず、脱ぎ捨てていた上着を拾い上げた。ぱんぱんとはたいてから、ゆっくりと袖を通す。
続いて床に転がっていたブラスターを持ち上げると、ふと思い出したようにギースを振り返った。
「そういえば、ステラは? 屋敷の中に入っていったはずだが」
「見てねぇな。いたらいたでうるさいだけだ。放っておけ」
ドリントンは少し考えてから「そうだな」と答え、ブラスターを腕に装着した。
二人はガロンたちのあとを追い、庭園へ出た。
ところが、先に飛び出したはずの一団は、なぜか庭の中ほどで立ち尽くしていた。先ほどまでの騒ぎが嘘のように、全員が前方を見つめたまま黙り込んでいる。
「どうした?」
ドリントンが声をかけても、返事はなかった。
ギースはその異様な沈黙に眉をひそめ、ガロンたちの視線の先を追った。次の瞬間、言葉を失う。
正門の前に、紫色のオーラをまとった黒いローブ姿の男が立っていた。深くかぶったフードの奥は闇に沈み、二つの白い目だけが不気味に光っている。
その片手には、襟首をつかまれた部下が力なくぶら下がっていた。頭部は何かに押し潰されたように大きくひしゃげ、もはや原形をとどめていなかった。




