シーン20 にせ眼鏡
「ふぅ……」
重たい体を投げ出すように、ふかふかのベッドへ仰向けに倒れ込む。タダだからって、少し食べ過ぎたな。
おまけに、これから警備の話かと思ったら、「人手は足りていますから休んでいてください」ときた。まさに至れり尽くせりだ。ここに永住したいくらいだぜ。
……待てよ。そうだ。三号をここで雇ってもらうのはどうだ? 金には困らなそうだし、貴族お抱えの用心棒なら地位も悪くない。問題は女だが……これはニコでいいんじゃないか?
そうなれば、三号との約束はすべて達成だ。コントラクター――この星でいうミリアムだったか。そいつの居場所を聞き出し、見つけ出す。上手くいけば四次元空間に戻れるはずだ。
……だが、そうなるとイオンとはお別れか。
――って、待て待て。何を考えてやがる。
俺はよそ者だぞ。ここへは仕事で来ただけだ。それに、生きる世界が違いすぎる。四次元世界で生きる俺にとって、三次元世界の連中なんて、あいつらにとっての絵みたいなものだ。
だから、寂しがることなんてない。これは全部気のせいだ。
これ以上、変なことを考えないように、明日からは少しイオンと距離を置くようにしよう。
そう決意した、次の瞬間――部屋の扉が、トントンと鳴った。
誰だ? こんな遅くに。
面倒だ。寝たふりをしてやり過ごすか。そんなことを考えながら息を潜めていると、扉の向こうから不安げな声が聞こえてきた。
「バンさん……」
その声に、思わず体が跳ねる。慌ててベッドから起き上がると、緩みそうになる口元をなんとか引き締め、扉を開いた。
「イオンか。どうしたんだ?」
できるだけ平静を装って尋ねる。
「お部屋の中、一人だと怖くて……一緒に寝てもいいですか?」
「えっ? でも、ベッドは一つしかないぞ」
「……やっぱり、狭いのは嫌ですよね。ニコさんのところへ行ってみます」
肩を落として去ろうとする彼女を、俺は慌てて引き止めた。
「待て待て。あいつと一緒になんていたら、うるさすぎて逆に眠れなくなっちまう。ここにいた方がいい。いや、いなきゃだめだ。俺がいれば、怖いことなんて何も起きないんだからな。多少ベッドは狭くなるが、むしろ大歓迎――いや、我慢する」
「バンさん?」
「何だ?」
「早口ですね」
不思議そうに首をかしげるイオンを前に、俺はわざとらしく咳払いをしてごまかした。
「と、とにかく入ってくれ」
そう言って部屋に招き入れると、彼女はほっとしたように表情を緩めた。
「ありがとうございます。一人じゃ怖くて……眠れなかったんです」
「怖い? 部屋がか? 別におかしなところなんて見当たらないが。イオンの家と似たようなもんだろ?」
「いえ。お部屋ではなくて……あの、カイルさんが……」
そう言って、イオンは目を伏せた。
あいつが?
食事も振る舞ってくれて、こんな部屋まで用意してくれた。どう考えても、悪い奴には見えない。むしろ危ないのは、部屋に男女二人きりというこの状況の方だろ。
気づけば、ついイオンの胸元へ目が向きかけていた。
まずい、まずい。
俺は慌てて首を振り、イオンの顔へ視線を戻した。
「カイルは大丈夫だろ。あいつ、眼鏡をかけてるし」
「め、眼鏡? それが何か関係あるのですか?」
「もちろんだ。眼鏡をかけてる奴は、だいたい真面目でいい奴って相場が決まってる」
「本当ですか?」
まだ半信半疑らしいイオンに、俺は深く頷いてみせた。
「あぁ。間違いない」
イオンはその言葉を反芻するように、小さくつぶやいた。
「眼鏡をかけていれば……いい人」
「そうそう。分かりやすいだろ」
「はい、ありがとうございます」
イオンは小さく息を吐いた。どうやら少し落ち着いたらしい。
……と思ったのも束の間、今度はそわそわと視線を泳がせ、その場でもじもじし始めた。
「今度はどうした?」
「……ほっとしたら、おトイレに行きたくなってしまいました。バンさん、ついて来てくれませんか」
「何だ。一人で行けないのか? もうカイルは怖くないだろ」
「……実は、ガロンさんとモルさんも怖くて」
そいつらは仕方ない。俺はしぶしぶ、イオンについていくことにした。
***
赤絨毯の敷かれた屋敷の廊下を進む。やけに静かだ。私兵の姿も見えない。どこか別の場所に集まっているのだろうか。
壁際には、食堂に行くときも見た動物の剥製が等間隔に並んでいる。そのどれもが苦悶の表情を浮かべているように見えて、廊下の暗さも相まってかなり不気味だ。
イオンは俺の裾をつかんだまま、剥製を見ないように俯いて歩いていた。やがて何かに気づいたのか、ふと足を止める。
「どうした?」
「ここみたいです」
彼女の視線の先には、トイレと書かれた小さなプレートが床に立てかけられていた。その横には、薄暗い階段が地下へと続き、奥には重そうな鋼鉄製の扉が見えた。
ここがトイレ? 不気味すぎるだろ。
イオンも同じことを思ったのか、顔をこわばらせて薄暗い階段を見つめていた。それでも、もう限界だったのだろう。
「絶対、そこで待っていてくださいね」
そう念を押すと、おそるおそる階段を下りていった。
鋼鉄製の扉の前で、もう一度こちらを振り返る。ちゃんと俺がいることを確認すると、やがて意を決したように扉をギィと開け、その中へ入っていった。
やれやれ、子供みたいだなと、思わず笑みがこぼれる。
しばらく待っていると、廊下の奥でかすかな気配がした。
誰だ?
暗がりに目を凝らしていると、やがて人影がぼんやりと浮かび上がった。リースだ。片手には、なぜかトンカチを握っている。
「おや、どうされました? バン殿。こんなところで」
「あぁ、イオンがトイレに行きたいっていうから、その付き添いでな」
「左様でございましたか」
リースはにこりと微笑むと、おもむろに床に立てかけられていたプレートを拾い上げた。そして、なぜかイオンが向かった階段とは真逆の壁に、それを打ち付け始める。
「お、おい。それって……」
「どうかなさいましたか。……ああ、こちらでございますね。少々外れかけておりましたので」
リースは何事もなかったかのように、トンカチで釘を打ち込んでいく。
「床に置かれたままでは、分かりづらかったでしょう。ご迷惑をおかけしました」
「いや、迷惑とかじゃなくて――」
その時だった。
「きゃあっ!」
扉の奥から、短い悲鳴が響いた。
「イオン!」
考えるより先に、体が動いた。階段を駆け下り、鋼鉄製の扉を押し開ける。その途端、ひやりとした空気が頬に触れた。
なんだ、ここは。
壁際の棚には、大小さまざまなナイフやピンセット、透明な液体の入ったガラス製の容器が、整然と並べられていた。
まともな部屋じゃない。そう思いながらも、足は止めなかった。
奥の金属扉まで一気に進み、勢いのまま押し開ける。
その通路の先に、口元を押さえたまま固まっているイオンの姿があった。
「無事だったか」
ほっと息をつくが、なぜかイオンは反応しない。目を見開いたまま、部屋の中をじっと見つめている。
「どうしたんだ?」
そう言いながら近づき、彼女の視線を追う。
次の瞬間、俺も言葉を失った。
目に飛び込んできたのは、壁一面に並んだ無数の剥製だった。
だが、それは廊下にあった動物たちではない。
人間だ。
それだけじゃない。カマキリのような魔族や、顔に紋章の入った美しい神族の女性まで、数え切れないほどの剥製が、苦痛に歪んだ表情のままガラスケースに収められていた。
そして部屋の奥。
金属製の作業台のそばで、カイルがこちらに背を向けて立っていた。片手には、銀色に光るメスが握られている。
訳が分からず立ち尽くす俺に、カイルはいつもの穏やかな声で言った。
「おや、見られてしまいましたか」
「な、何なんだ、ここは?」
そう言いながらカイルへ近づいていくと、背中越しに作業台の上が見えた。
「なっ……!?」
思わず声が漏れる。
そこには、両手両足を縛られ、口を塞がれたニコがいた。作業台の上で必死にもがくたび、拘束具ががちゃがちゃと鳴る。大きく見開かれた目は怯え切っていて、くぐもった声が、何かを訴えるように漏れていた。
「おい、何してる!」
「何って、剥製づくりですよ」
カイルは当然のようにそう言った。ゆっくりとこちらを振り返ると、手にしたメスを軽く掲げ、口元だけで薄く笑う。
「先ほど申しましたよね。私はコレクターだと。剥製も、その一つです。ただ、集めるだけでは物足りません。自分の手で仕上げてこそ、愛着も湧くというものですから」
そして、作業台の上のニコへ視線を落とした。
「獣人族は、まだ持っていなかったのですよ。連れてきていただき、感謝いたします」
「ふざけんなよ」
低く吐き捨てるように言う。
「最初から怪しい奴だと思ってたんだ。このにせ眼鏡野郎が」
「に、にせ眼鏡とは?」
カイルは、ほんのわずかに眉をひそめた。
「そんなことはどうでもいい。そいつは俺がもらうはずの報酬だ。どうなってる」
「お金でよろしければ、代わりにお渡ししますよ。彼女を連れてきていただいたお礼に、二百万セルでどうでしょうか」
「駄目だ。そいつでいい」
「困りましたね……では、こういたしましょう。私がいただきたいのは皮だけです。中身でしたら、お返しできますよ」
「全部だ」
「やれやれ、聞き入れてはいただけませんか。仕方ありません」
カイルは、ぱちりと指を鳴らした。
その直後。
「バンさん……」
背後から、震える声が聞こえた。
嫌な予感が、背筋を走る。振り返ると、リースがイオンの背後に立っていた。片腕で彼女の肩を押さえ、もう片方の手でメスを握り、その首筋へぴたりと当てている。
俺と目が合うと、リースは少しも動じた様子を見せず、静かに微笑んだ。
こいつもグルか。
「このにせ執事が……」
俺はそう吐き捨て、舌打ちするしかなかった。




