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シーン17 ニコ

俺たちを乗せた水鯢車すいげいしゃは、ポート・ソレイユの通りを進んでいた。


客車を引くリオレスオオサンショウは、ぬぼっとした顔つきのせいで、どうにも鈍そうに見える。だが、見た目に反してこれが意外と速い。しかも車内は思ったほど揺れず、乗り心地も悪くなかった。


イオンはというと、爆弾魔の話を聞いた時こそ不安そうにしていたが、客車に乗り込んだ途端、そんな様子はすっかり消えていた。


「わたし、初めて乗りました」


そう嬉しそうに言ってから、ずっと目を輝かせたまま、窓の外を眺めている。


そんなに珍しいものでもあるのかと、俺も外を見た。


道の脇には、幅の広い水路が町並みに沿って走っている。陽の光を受けた水面がきらきらと揺れ、その上を世界樹の大きな葉がゆっくり流れていた。


綺麗だとは思う。

だが、さすがにもう見飽きた。


あとどれくらいかかるんだろうか。


そう思って、前で手綱を握るリースに声をかけようとした――その時だった。


車体が、ぐらりと大きく傾いた。


「うおっ!?」


何が起きたのか理解するより先に、体が横へ持っていかれる。肩が壁にぶつかり、それと同時に、隣のイオンも勢いよくこちらへ倒れ込んできた。


反射的に腕を回し、その体を抱き留める。


そのまま水鯢車すいげいしゃは大きく揺れながら速度を落とし、最後にひと揺れして止まった。


直後、リースが客車の扉を勢いよく開け放つ。


「申し訳ありません。お怪我はありませんか!?」


「ああ、なんとかな。何があった?」


「前方に、人が急に飛び出してきまして」


「人?」


外を見ると、ぼろい布切れをまとった少女が道の真ん中でへたり込んでいた。腰が抜けたのか、その場から動けずにいる。


轢かれる寸前だったのだから、無理もない。


俺は客車を降り、少女へ近づいていった。


「大丈夫か?」


そう声をかけて身を屈めたところで、ふと目が留まった。


淡い水色のツインテール。その頭には何故か、獣のようなふさふさした耳がついていた。


……何だこの娘。人間……なのか?


呆気にとられて見ていると、その頬が赤く腫れていることに気づいた。


「ケガしてるじゃないか。ぶつけたのか?」


少女は答えず、琥珀色の瞳で鋭く俺を睨みつけてきた。だがやがて、何かに気づいたように、その目がわずかに見開かれる。


「……アンタ、あの時の」


……あの時?


何のことだ。初対面のはずだが。


怪訝に思っていると、鞭を持った小太りの男が、取り巻きを引き連れて駆けてきた。男は獣耳の少女を見るなり顔を歪め、顎をしゃくる。


「捕まえろ」


命じられた連中が少女に詰め寄り、体に縄を回そうとする。


「離して!」


少女は身をよじって逃れようとした。だが、数人がかりで押さえつけられてはどうにもならない。抵抗もむなしく、小さな体は腕ごと乱暴に縛り上げられてしまった。


それでも少女は、必死にもがいている。


そこへ小太りの男が歩み寄り、ぱしりとその頬を叩いた。


乾いた音が響いた途端、少女の体がびくりと固まる。縛られた体から、ふっと力が抜けた。


「手間かけさせやがって」


男は舌打ちしたかと思うと、今度はこちらへ向き直り、にこやかな笑みを浮かべた。


「いやあ、うちの商品がとんだご迷惑をおかけしました。お兄さん、お怪我はありませんでしたか?」


「あ、ああ……」


なんだこいつ。変わり身が早すぎる。


商品、って言ってたな。


つまり、奴隷商人ってところか。


「無事でよかった。あのじゃじゃ馬は最近手に入れたばかりでしてね。まだしつけが済んでいないのです。どうかここはひとつ、これで穏便に」


そう言って、商人は俺の手に一万セルをねじ込んできた。


「今後このようなことがないよう、こちらできつくしつけておきますので」


その言葉に、少女の顔から血の気が引いた。琥珀色の瞳が小さく揺れ、唇をきゅっと噛みしめる。


よく見ると、彼女がまとっているぼろ布にはあちこちに裂け目があり、その隙間から痛々しい痣がいくつも見え隠れしていた。靴も履いていないところを見ると、必死で逃げ出してきたってところか。


「ほら、さっさと連れていけ」


奴隷商人が取り巻きに命じた。


……ああ、面倒なところに出くわしちまったな。


だが、ここで冷たく突き放せば、俺の株が下がるんだろ?


まったく、やってらんないぜ。


ふぅとため息を吐いて、俺は口を開いた。


「ちょっと待った」


「何でしょう?」


「そいつ、商品だって言ってたよな。いくらなんだ?」


奴隷商人は怪訝そうに眉を寄せた。


「えっ? お買いになるのですか? 生意気なので、あまりお勧めはしませんよ」


「いくらなんだ?」


「そうですねぇ。まだ値段は決めていませんでしたが――」


商人は少女を上から下まで眺めた。彼女は声も出せずに固まっている。それでも、その瞳には、わずかな期待がにじんでいた。


「じゃじゃ馬ですし、しつけも済んでいませんので……百万セルでどうでしょう」


……無理だな。


「悪い。ちょっと聞いてみただけだ」


そういってひきつった笑みを浮かべる。


「ちょっと!」


縛られた彼女が、たまらず声を上げる。俺は悪い、と片手を顔の前に立てて軽く謝った。


「そうでしたか。では、またご入用の際はぜひ」


商人は何事もなかったように取り巻きたちに目配せした。


その時だった。


「お待ちください」


静かな声が割って入る。リースだ。


彼は落ち着いた足取りで、奴隷商人の前へ出た。


「そちらの女性の代金、私が立て替えます」


予想外の申し出に、俺は思わずリースを見た。


「大丈夫なのか? 報酬は五十万だったはずだが」


「先ほど事故を起こしてしまいましたので。そのお詫びです」


穏やかに微笑むリースを見て、いや、別にこいつのせいじゃないだろと、俺は首をひねった。


そんな俺の疑問をよそに、リースは手際よく代金の支払いと契約を済ませた。


自由になった彼女は、縄の跡が残る手首を押さえながら、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。助けられた理由が分からないのか、その瞳にはまだ警戒の色が残っている。


「良かったな」


俺は笑顔で手を伸ばした。


だが、彼女はその手を取ることなく、ふんと鼻を鳴らすと、さっさと水鯢車すいげいしゃへ乗り込んでしまった。


生意気な奴だ。


百万セルは、ちょっと高いんじゃないか。


閉まった扉を見ながら、俺は密かにそう思った。


***


「すっかり遅くなってしまいました。先を急ぎましょう」


リースが手綱を握り直し、水鯢車すいげいしゃは再び走り出した。


窓の外では、白い石畳と水路沿いの景色がゆっくり後ろへ流れていく。何事もなかったかのような、穏やかな町並みだった。


だが、窓一枚隔てた車内の空気は、まるで別物だった。


獣耳の少女は、向かいの席で膝を抱えるように座っていた。顔を少し伏せたまま、鋭い目でこちらを睨んでいる。少しでも近づいたら噛みつかれそうな雰囲気だ。


イオンはそんな少女を心配そうにちらちらと見ていた。何か声をかけたいのだろうが、どう切り出せばいいのか分からないらしく、小さく口を開きかけては閉じている。


……やれやれ。仕方ないな。


俺は小さく息を吐き、向かいの少女へ声をかけた。


「俺はバンだ。お前の名前は?」


答えはない。見事な無視だった。


すると、隣にいたイオンがおずおずと口を開いた。


「わたしはイオンです。あなたは?」


少女はちらりとイオンを見た。少しの沈黙のあと、「……ニコ」とだけ答える。


なんで俺にだけ当たりが強いんだ。助けてやったのは俺だぞ。


……まあ、一度見放しかけたのは事実だが。


とはいえ、ひどい目に遭っていたみたいだし、警戒するのも無理ないな。


もう少し会話を続けてみるか。


「その耳、変わってるよな。ニコは人間なのか? それとも、別の種族か?」


「……気安く話しかけないで」


ニコはぴしゃりと言い返すと、ぷいと顔を背け、窓の方を向いてしまった。


駄目か。取り付く島もない。しばらくそっとしておいた方がよさそうだ。


そう考えて、俺は座席に深く腰を沈めた。そのまま何気なくニコを見ていると、破れた裾の下で、水色の何かがゆらりと揺れているのに気づいた。


「おい、なんだ。尻尾まで生えてるじゃないか」


本物なのか気になって、俺は手を伸ばし、そのふさふさした尻尾に触れてみた。


その直後だった。


「きゃああっ!?」


尻尾がびくんと跳ね、ニコが勢いよく振り返る。俺が手を引っ込めるより早く、平手が飛んできた。


ぱんっ。


乾いた音が車内に響き、頬に鋭い痛みが走る。


「サイッテーッ! 信じらんない!」


「な、何しやがる!」


じんじん痛む頬を押さえながら、思わず声を上げる。


「それはこっちのセリフよ! 勝手に尻尾を触るなんて、このド変態!」


「えっ? 飾りみたいなもんじゃないのか?」


「そんなわけないでしょ!」


……どうやら、かなりまずいことをしたらしい。


ニコは耳まで赤くし、ずいっと詰め寄ってきた。


「バカ! 変態!」


容赦のない罵声が飛んでくる。最初は適当に聞き流していたが、ニコの口は一向に止まらない。


しかも、その調子には妙な聞き覚えがあった。


そうか。離れ離れになった、あのやかましいロボに似ているんだ。


……だめだ。気づいたら、急に腹が立ってきた。


「このあんぽんたん!」


その一言が、最後の一押しになった。


「何だ、その言い草は。せっかく高い金で買ってやったっていうのに、礼のひとつもなしか。口は悪いし、態度は最悪。おまけに少し獣臭いときた。買ってやって損したぜ」


「はぁ? 最低! 人をもの扱いするなんて!」


「うるさい。お前なんてもう返品だ、返品!」


「そうはいくか!」


ニコが俺の胸ぐらをつかんできた。小さな拳で、バシバシと何度も叩いてくる。見た目に反して、一発一発がやたらと重い。


どうにか押し返そうとした拍子に、手が獣耳へ触れた。


「きゃっ」


途端に、ニコの体が小さく跳ねる。


どうやら耳も駄目らしい。


そうして狭い車内で、俺たちがみっともなく揉み合っていると――。


「やめてください!」


イオンの声が車内に響いた。


悲鳴以外で、彼女のこんなに大きな声を聞いたのは初めてだった。思わず、俺もニコも動きを止める。


視線を向けると、イオンは胸の前で手をぎゅっと握りしめていた。顔は緊張でこわばっている。それでも、目をそらそうとはしなかった。


「今のは、バンさんが悪いと思います」


その声は少し震えていた。きっと、相当な勇気を振り絞ったのだろう。


……まあ、確かに言い過ぎたな。


人を物みたいに言ったのは、さすがにまずかった。


小さく息を吐き、頭を下げる。


「悪かった」


そう言うと、ニコは視線を落としたまま、少しだけ唇を尖らせた。


「……別にいいけど」


その小さな返事を聞いて、イオンのこわばっていた表情がふっと緩んだ。うまく仲直りさせられたと思ったのか、少し誇らしげに胸を張り、そのまま明るい笑顔をニコへ向ける。


「お風呂に入れば、臭いなんてきっとなくなりますよ」


……えっ、そっち?


俺はともかく、イオンが言うのはまずいんじゃないか。


嫌な予感がして、恐る恐るニコの様子を窺う。


ふさふさした獣耳がしゅんと垂れ、琥珀色の瞳がみるみる潤んでいく。


「……臭くないもん」


消え入りそうな声でそう言うと、彼女は膝を抱えるようにして小さく丸まってしまった。

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